15 桜のこと
桜が満開ですね。この頃、なろうでも桜ブームなのでしょうか。割烹という割烹が、挨拶のように「どこどこの桜が満開になりました」と書いています。かくいう僕も、この前の日曜日から、しだれ桜を見たり、色々な場所を歩きまわっています。
桜というものはとても美しいですが、僕からすると、梅や桃の方が好みかもしれないなどとつまらないことを考えてしまいます。もちろん、桜を否定しているつもりはありません。確かに桜には王者の風格もありますし、花見の盛り上がりは、他の花とは比べものになりません。古来から愛されていますしね。でも、なんでしょう。今、あまりにも桜が多いし、あの桜の花見の盛り上がりに乗せられて、一緒になって、わいわいやっているのは、ちょっと僕の求めているものとは違うな、と感じています。それなのに、しだれ桜とか八重桜になると、なんだか、とても魅力的な気がしてきます。しだれ桜は、梅と同じくらい、外見が格好良いですね。枝垂れているのがたまらない。梅の木が、まっすぐ上に細い枝を伸ばしたり、急に曲がったりしている美しさに近いですね。あと、八重桜も好きですね。ああいう、丸くて、ふっくらとして、ふわふわしているもの、僕は大好きです。どうも、僕という人間は、毎年、桜 (ソメイヨシノ)を楽しみながら、こういうところでは他の花の方が好きなどと恩知らずなことをいう人間のようですね。無理もありません。偏屈ですから。ちなみに可憐な桃の花は、うら若き少女のようだなぁと思っています。中学生から高校生ぐらいまでの。それは、まだ大人になっていない、可愛らしい少女。なろうの読者が好む年齢ですね。それなら、桜は二十代以降の成人した女性といった印象でしょうか。そう思うと、大変、お美しいですね。うん、そんな感じがします。成人式の振り袖姿に近い美しさを感じます。梅ならば、さらに大人びた……。
筆者は、軽く寝ぼけているので、また、変なことを書いている気がしますが、まあ、この際、気にしません。ほら、こういう人がいるでしょう。手紙を夜に書いて、次の日の朝、読むと恥ずかしくなる、それでボツにする、という人。でも、僕が思うのは、次の日の朝こそ、客観的に見れない時間じゃないですか。三ヶ月から半年して、ようやく、自作は客観視ができるというもの。次の日の朝にボツにするなんて、とんでもない。
ところで、少女を、桃の花に喩えることは、古代中国の詩経という詩集にも見られる、伝統的な見解です。当時の人も、自分の娘を、桃の花のように可愛がっていたのでしょう。当時の女性の不幸を嘆く、詩も沢山見かけますが、中にはそんな愛情深い詩を発見したりします。
いつも通り、話が脱線しまくったところで、終了。




