どちら様でしたっけ?
やっと仕事を終えて、風呂に入ったのが午後11時過ぎ。
他の男性従業員達は先ほどまで湯に漬かっていたが、早く寝たいのか、すぐに上がって行った。
そういう訳で、風呂場にいるのは周だけである。
思い切って外の露天風呂に行き、手足を伸ばして、ふぃ~と一息ついた時だ。
どうやら風呂場の裏に姉の実家があるようだった。垣根越しに兄の声が聞こえてくる。
普段はめったに声を荒げたりしない兄が、はっきりとは聞こえないが、何か怒っているようだ。
めずらしい。というか、心配になってきた。
周は急いで風呂から上がり、服を着て姉の実家に戻った。
すると。
「じゃあ、そういうことで」
玄関に人が立っていた。
昼間見た男だ、銀縁眼鏡の。
「二度と僕の前に姿をあらわすな……!」
ごほっ、と賢司が咳き込んだので、周は彼に駆け寄った。
「大丈夫?!」
「君は、確か……」
男はまじまじと無遠慮な視線を投げつけてくる。
「近寄るな、僕の弟に指1本触れるな!!」
いきなり兄に肩を抱き寄せられて周は困惑した。
すると、男は謎の微笑みを浮かべて去って行った。
「今の……何?」
「気にしない」
なんだか兄の身体が妙に温かい。熱があるのではないだろうか。
心配しているのが伝わったのか、
「今はどこの病院も休みだよ。寝ていれば、大丈夫だから」
ほんとかよ……と思ったが、周は黙っておくことにした。
※※※※※※※※※
正月、聡介はきっと、娘達とその家族に会いに行くのだろう。
去年は事件を抱えていて、それもままならなかったが。今年もそうなればいいのに。
この職業を選んで良かったと思うのは、盆も正月もないことだ。
仕事を大義名分に、見たくもない親戚と顔を合わせなくてすむ。
そういえば結婚していた頃に一度だけ、元日、別れた妻の実家に行き、彼女の親戚達と会ったことがある。
あと何時間、この拷問のような時間が続くのか……と思った時、幸いにも事件発生の連絡が入った。
あの時、被害者には本当に申し訳ないが、犯人に感謝したことを思い出す。
和泉はふと、またも携帯電話に注目した。
いつ報せが入るだろうか。
目を覚ました、もしくは……。
嫌な考えを振り払うように立ち上がり、和泉は刑事部屋を出た。
自動販売機の前に向かう。すると。
背後で誰かが会話する声が聞こえた。正確には誰かが電話で話している声、だ。
どこかで聞いた声のような気がする。この時間、本部にいるのは地域課の職員、もしくは交通課、警備課のいずれかだろう。が、そこに知り合いはいない。
缶コーヒーを買った後、和泉はさりげなく誰が話しているのかを注目した。
こちらへ背を向けているが、どこかで見たような気がする。性別は男。
「……心配しなくていい。ああ、そうだ。こちらにまかせておけ」
どうも穏やかならぬ話のようだ。
「あんたは黙って、俺の言う通りにすればいい」
通話は終わったらしい。男は携帯電話をポケットにしまうと、何やら笑顔で和泉の方を振り向き、そしてギョっとした顔をする。
「な、な、なんだ?! てめぇは……!!」
確実にどこかで見た顔だが思い出せない。
和泉は人の顔は覚えるのだが、名前が覚えられない。
「何か楽しそうですね、悪だくみの相談ですか?」
相手は嫌そうな顔をして、あからさまな舌打ちをした。
その仕草で思い出した。
「思い出しましたよ、確か葵ちゃんの元カレ……じゃなくて。ストーカーでしたよね? 名前は忘れましたが。廿日市南署刑事課の、いつまでも昇進できない巡査長」
さっ、と相手の顔が怒りで赤くなる。
「本部に来てるってことは、こないだの事件で大事な捜査情報を、関係者に漏らしたことを叱られに来たんですか? あーあ、これで離島か山間部の駐在所勤務決定かなぁ」
すると。
相手はニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべた。
「……残念だったな、その逆だよ」
「逆……?」
「監察に戻るのさ。元いた部署に、な」
へぇ……と微かな内心の動揺を読みとられないように気を遣いつつ、和泉はどこまでが真実なのかを推し図ろうとした。
「本部長の弱みか秘密でも握りましたか? いい仕事ですよね、監察官って。上手くすれば、いくらでも脅しのネタにすることができるんですから」
「てめぇ……!!」
真っ赤な顔で怒りをあらわにした相手に胸ぐらを掴まれる。




