だって信用ならないもの
その日は朝からどんよりとした天気だった。
低気圧は人の体調、感情に対してあまり良くない方向へと働きかける。
看守歴25年のとある巡査部長は、こういう日には必ず、何か問題が起きることを長年の経験から知っている。
監視カメラは随所に設置されているが、やはり死角は存在する。
収容された被疑者達からは自殺防止のためネクタイ、ベルト、首を吊るようなものは一切を取り上げる。
しかし過去には何人か看守の目をくぐり、自殺を遂げた者もいる。
そうなれば責任問題である。
定年を無事に迎えたい巡査部長はよっこいしょ、と立ち上がり、再び留置場を見て回ることにした。
すると。
向かいから配属されたばかりの若い看守が走ってくる。
「た、た、たいへんです!! 6号室で……!!」
※※※※※※※※※
あれから結局、どうなったのかしら?
本当にあの横領事件は朋子だけの仕業だったのだろうか。
待合室で名前を呼ばれるのを待ちながら、美咲はぼんやり考えていた。
昨日、午後の早い時間に賢司が帰宅した。彼はこの頃ずっと顔色が悪かったが、とうとう無理できなくなったようだ。
とは言っても、病院へ行くよう言ったところで、素直に頷くはずもない。
先日だって、突然倒れて救急車を呼ぼうとしたが、意識があった彼は断固としてそれを拒否した。
病院へ行く、と言って出かけたところで信用ならない。
そこで強硬手段に出ることにした。
美咲は夫を半ば無理矢理車に乗せ、病院へ連行したのである。
逃げられないよう、受付を済ませ、待合室まで付き添った。
賢司は何も言わなかった。
周は既に冬休みに入っている。
今日は友達と宿題をする、と出かけた。
あの事件でかなりショックを受けているかと思いきや、比較的元気そうである。
むしろこっちの方が、少しでも弟の姿が見えないと心配になってしまう。
ただ、あまりかまうと嫌がられてしまうので、それでも一応、我慢しているのだが。
それにしても。なぜこれほど病院は混雑しているのだろう。
日頃あまり病気に縁のない美咲には不思議だった。
ふと、少し離れた場所を見覚えのある婦人が通りかかった。浅井先生だ。
そうだ、彼女はビアンカと同じ病室に入院していた。
美咲は立ち上がって彼女に近づき、挨拶した。
「先生、お加減はいかがですか?」
なぜか彼女は目を逸らした。
しかし思い直したように、
「……弟に、会えたそうじゃの?」
「ええ!」
「その子は、母親のこと……自分の出生をどの程度知っとるんじゃ?」
「母親のことは、ほとんど何も知りません。生まれてすぐに亡くなったと聞いているようです。ただ……朱鷺子叔母様が、5歳になるまで育ててくれたと」
美咲はかつての教師の顔色を見た。
白いのはずっと病室にいたせいだろう。血色は悪くなさそうだ。
「明日、退院できるけぇな。都合がつけばいつでも、二人でワシのとこに来るとええ。いろいろ教えてやる」
「ほんとうですか?!」
それと、と彼女は苦いものを食べたような顔をして言った。
「若い駐在さんにも……連絡がつけば」
若い駐在さん、というのは駿河のことである。
なんとかしてみます、と答えるにとどめ、美咲は待合室に戻った。
でも。
たぶん、呼ばない方がいい。そう思った。