『あまの』じゃ、名字だろうが
「周君、よく来てくれたわね!」
出迎えてくれた女将は笑顔だった。
夏休みの間、姉の手伝いのつもりで少しこの旅館でアルバイトをさせてもらったが、電話一本で勝手に辞めてしまったので、きっと怒っているだろう。そう思っていたのに。
「あの時はごめんなさい……」
「あの時って?」
本当に覚えていないのか、忘れたフリをしてくれているのかわからない。
「お手伝いしてくれるんですってね、ありがとう」
「何からすればいいですか?」
すると女将はいくつか雑用を言いつけてくれた。
周は服の上にエプロンをひっかけて、一般客が入って来ない旅館の裏側に回った。
先ほどちらりと事務所の宿泊予約状況一覧表を見たが、ぎっしり埋まっていた。
年末年始は大晦日の午後と元日だけ休業するようだが、すぐに2日から通常営業が始まるらしい。休みなんてあってないようなもんだな……と思った。
それにしても、旅館の裏方仕事というのはいくらでもあるものだ。
姉はいったいいつから働いていたのだろう? 広い館内を掃除して回りながら、周はふと考えた。
それからふと、考えた。
姉はどういうきっかけで『あいつ』と出会ったんだろう……?
掃除用具を取りに裏の物置へ向かっていると、少し離れた場所から誰かの言い争うような声が聞こえて来た。
男が3人、向き合って立っている。
「知りませんよ、そんなこと」
「嘘をつけ!! お前以外に誰が考えられるんじゃ?!」
「……人を泥棒呼ばわりして、そちらがそのつもりならこちらにもそれなりに考えがあるんですよ? なんだったら、出るところに出てもいいんですからね」
「まぁまぁ、お二人とも落ち着いて……」
一人は知らない顔だ。3人のうち2人は和服を着ている。
あと一人はスーツを着ているが、いずれも見たことのある顔だ。
どこで見たのかは思い出せないが。
「あんなもんが警察の手に渡ったら……もうお終いじゃ!!」
「もともと潰れかけていたんですから、今さらでしょう」
「なんじゃと?! 貴様、よくも……」
「……誰だ?!」
見つかった。
逃げなければ、と周は頭で理解していたものの、身体が動かなかった。
3人のうちの一人が近付いてくる。スーツを着た背の高い、銀縁眼鏡をかけた男。
男は豹のような素早さでこちらに近づくと、周の手首を掴んだ。
「君、名前は? こんなところで何を?」
眼鏡の男が訊ねてくる。
「お前は……美咲の……?」
思い出した。
1人はこの旅館の社長であり、姉の伯父である寒河江俊幸だ。周の顔を見て驚いている。
弟だ、と叫びたかったが、黙っている方が良いような気がしたので口を閉じた。
「俺はここの従業員だ! 仕事してんだ、離せよ!!」
しかし男は周の手を離そうとせず、
「せめて名前だけでも教えてもらえないか?」
なんだ、こいつ……?
あ、思い出した! いつだったか、兄を訪ねてきた男……。
「潤さん!!」伯父と言い争っていた若い和服の男が叫んだ。
「確か……あ……あま……あまの?」
伯父は言ったが正確ではない。
「潤さん、行こう!」
和服の男は潤さん、と呼んだスーツの男の手を取り、スタスタと歩きだす。
そしてすれ違いざま、ものすごい眼で周を睨んできた。
なんなんだよ?
「今の……何?」
二人が去った後、周は姉の伯父に訊ねた。
彼が周にとっても伯父に当たるのかどうかは謎だが。
「知らん、知らん!! お前は余計なこと知らんでええんじゃ」
社長は大股で去って行く。
そして思い出した。
あの若い和服の男は、白鴎館の若旦那だ。オカマの。
気分が悪い。