だから、弟さんを僕にくださいって。
朱色の絨毯が敷き詰められたふわふわの廊下を歩き進めると、よく見知った顔が目の前にあらわれた。
「賢司さん」
和泉が呼びかけると、藤江賢司ははっと顔をあげた。
何か考え事でもしていたのだろうか。ぼんやりしているようだ。
「……プライベートですか? それとも、また何か事件でも? 正直言って、あなた達のような人相の方に、館内をうろつき回られるのは、旅館にとって迷惑ですよ」
彼の反応は予想通りと言えばそうだが、相変わらずだ。
頭の中にいろいろと反論が浮かんだが、面倒なので流してしまうことにする。
「自覚はしています。あなたこそ、なぜここに?」
「妻の実家を訪ねることが、何か法にふれるのですか?」
今さらカチンともこなくなった和泉は、肩を竦めてみせた。ちなみに厳密なことを言えば『妻の実家が経営する旅館』である。
「いえね、賢司さんがあの支倉とお知り合いだとお聞きしたものですから。ご存知のことを教えていただきたいと思いまして」
その名前を出した途端、相手の様子に少し変化があらわれた。
「……あのヤクザが何か事件でも? 限りなく黒に近いことをやらかしていますよ、あの男は」
知っている。
和泉が黙っていると、賢司は続ける。
「でも、私は警察に何も期待したりはしません」
警察はあてにならない。
よく聞かれる台詞だが、その原因の大部分としては、警察に相談に行ったけれど真摯に対応してもらえなかった、という不満によるものだ。
「……過去に何か、ありましたか?」
賢司は余計なことを言ったと思ったのか、目を逸らした。
「何でもありません……失礼します」
踵を返して立ち去ろうとした彼は、ぐらり、とバランスを崩してしまう。
和泉は咄嗟に腕を伸ばして彼を支えた。
前にもこんなことがあった。
「……美咲さんか、周君を呼んできますか?」
賢司は首を横に振る。
「2人とも仕事中です。少しじっとしていれば、そのうち動けるようになりますから」
もう少し歩いたところにソファーはあるのだが。
「そんな具合の悪そうな人が、こんなところでうずくまっていたら、それこそ旅館にとって迷惑ですよ。行きましょう、お部屋はどちらです?」
本当に【妻の実家】だった。
旅館のすぐ裏手にある広い日本家屋は、美咲の父親が生まれた家なのだそうだ。
奥に進むとモダンなリビングがあり、革張りの立派なソファが設置されている。賢司を肩に担いで中に入った和泉は、彼をそこに横たえた。
「辛い時は辛いって、口に出した方が得ですよ?」
余計なことかと思ったが、和泉はつい、そう口にしてしまった。
「……無駄なことはしない主義です。子供の頃からずっと、そうして生きてきました」
思いがけず返事があった。
黙っているつもりだったが、和泉は思わず口を開いていた。「今まではそうだったかもしれませんが、今は違うんじゃないですか? 少なくとも美咲さんは、目の前で苦しんでいる人を放っておけるほど非情な人ではないはずです。周君だってそう、家族と言うのは……」
じっ、と賢司がこちらを見つめている。
「……何か?」
「あなたも、美咲のことを……?」
和泉はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「以前にも申し上げませんでしたか? 僕がお嫁に欲しいのは周君です、って」
そうでしたね、とまったく本気にしていないのが明らかな口調である。
そこで和泉は反撃に出ることにした。
「も、と仰る該当者は……あなたご自身を含めていいんですよね? 賢司さん」
「……僕が彼女をどう思っていようと、そんなことはたいして重要じゃありません。それに……先日、顔も見たくないと言われましたよ」
どうせまた、何か余計なことを言ったのだろう。
和泉は話題を変えることにした。
「病院へは?」
「年明けから検査入院です」
「お見舞いに行きますね。安芸総合病院なら、県警本部のすぐ隣ですから」
今度は返事がなかった。
失礼します、とリビングを出て行こうとした和泉は、後ろから呼び止められた。
「……噂ですが。支倉はあの斉木晃と組んで麻薬取引をしているそうです。受け渡し場所までは知りません。さらに、そのことを知った女将……自分の母親を口封じに殺害したとか……」
驚いて思わず振り返る。
賢司は天井を見つめたまま、話を続けた。
「まぁ、あくまで噂です。でも、支倉ならやりかねません。あの男は人間じゃない」
「……何か私怨でも?」
少しの沈黙。
「お話ししたく、ありません」
そうですか。和泉は美咲の実家を後にして、旅館の方へ戻った。




