近くに本人達がいるのに……
賢司が黙っていると、伯父はなおも続ける。
「ワシはですなぁ、身寄りのないこいつの母親を拾ってやって、仕事と住む場所を与えてやったんですよ? 高校まで出してやって、うちで働かせてやって……」
「……それで?」
「それで、それ……」
どうやら言葉が続かないらしい。
しかし何を思ったのか、
「ほうじゃ!!」と大きな声を出した。「本当にワシの弟の……隆幸の子かどうかなんて、あてにならんのですよ? 咲子は……これの母親はほんま、男と見れば誰彼構わずに色目を使うような女でして。ひょっとしたら、ほんまは吉住の子なんじゃないか……」
吉住とは、かつてこの旅館で板長をしていた男性である。
母と親しくしていたことも知っている。
本当の父親よりもずっと、美咲に親切にしてくれた人だ。
「吉住もあれで、なかなかどうして……下衆な男じゃったけぇな」
「吉住さんはそんな人ではありません!!」
思わず美咲は口を挟んだ。
「亡くなった方のことを悪く言うのは最低です! その上、長い間ずっとこの旅館を支えてくださった吉住さんのことを……」
優しい人だった。
口数の少ない、不器用な人だったけれど、いつも優しかった。
美咲の心とこの旅館を、影でずっと支えてくれた人だった。
その人を悪く言うのだけは許せない。
「寒河江さん」静かな声で賢司は言った。
「そういう、下品な話はやめてもらえませんか? たまらなく不愉快です。それに。いくら相手が身内だからと言ってセクハラですし、立派な誹謗中傷ですよ」
伯父の顔から血の気が引く。
「下衆で下品なのは、あなたの方です。本当に美咲の親戚ですか?」
驚いた。
まさか、賢司がこんなことを口にするなんて。
伯父は顔を真っ青にしたかと思うと、次の瞬間には真っ赤にした。
「な、な、な……っ!!」
すると賢司はいきなり三毛猫の首根っこを掴んだかと思うと、伯父に向かって投げつけた。
バリバリバリ!! 鋭い猫の爪が伯父の顔面に川の字を書く。
絨毯の上に、器用に着地した三毛猫が笑ったような気がした。
伯父は悲鳴を上げながら事務所へと消えて行く。
「……くだらない」
ここはお礼を言うべきなのだろうか。
美咲は少し悩んだ末に、
「ありがとう……」と言っておいた。
「別に、君のためじゃない」
そう言われるだろうと思った。だから。
「あなたじゃないわ、プリンちゃんによ」
美咲は三毛猫の喉を撫でた。
そこへ。あの、すみません……と、若い男性があらわれた。
浴衣を着ているので宿泊客の1人であろう。
「氷をいただけませんか?」
かしこまりました、と言いかけて美咲は息を呑んだ。
青年の顔半分はひどく腫れあがり、目のまわりが紫色に腫れあがっている。
「いかがなさいました?!」
驚いて思わず、美咲は青年に近寄った。
しかし彼は無理に笑顔を作り、
「ちょっとドジを踏んで、壁に激突しちゃったんです」
「お医者様に診ていただいた方が……」
これはただごとではない。美咲は直感でそう思った。
すると、
「救急箱は?」
賢司がいつの間にか傍に立っていた。
美咲は事務所に行って救急箱を持ってきた。夫は慣れた手つきで青年に応急処置を施す。
意外な一面を見た。
「……ひょっとして、支倉の連れ?」
賢司は青年に訊ねた。
支倉と言うのは確か、賢司の知り合いのはずだ。決して友好関係ではない様子だったことも覚えているが。
青年はびくっと震え、しかし返事をしなかった。
「悪いことは言わない、命が惜しかったら、あの男とは離れるんだね。仮に万が一のことがあっても、この県警は無能だから……」




