前編
初夏になると僕は父や母と共に、父の遠縁にあたるオルコット伯の領地でひと夏を過ごすことが多かった。
湿度の高い首都に居を構える上流階級の人間は、本格的な夏が来る前に避暑に向かう。
僕の父も一応その階級に属しており、山々に囲まれた自然豊かな高原にあるオルコット伯のカントリーハウスは、快適な滞在場所だった。
その家には僕より二つ程年上の娘が一人おり、僕は彼女と一緒に行動するのを常に義務づけられていた。
例えば、家庭教師の授業を一緒に受けたり、自由時間を彼女ーーアギーの遊びに付き合わされたり、てな具合にねーー。
「ねーえ、フラニー坊や。これ、何だか分かる?」
ある時ーー、そうあれは堅苦しい授業からようやく解放され、なのに息つく暇もなく彼女に庭へと連れ出された時のこと。
広い庭の高台にある大木に吊るされた、アギーお気に入りのブランコの前でのことだ。
彼女はそのブランコに乗って遊ぶのが大好きで、僕は昔から背中を押す役目を与えられていた。
「これよ、これ、見てよ」
アギーは綺麗なガラスの小瓶を僕に見せつけてきた。中には琥珀色の液体が、ゆらゆらと光を弾いて揺れている。
「綺麗でしょ?」
綿毛のようなふわふわの金髪が風に攫われ、アギーはブランコを止め髪の毛を手で抑える。白い頬は赤く上気していて、好奇心で輝く青い瞳が、僕の反応をいまかいまかと待っていた。
僕は走って上がった息を整え、彼女から目を逸らした。彼女の得意げな顔は僕を落ち着かなくさせる。それがなんだか癪に障った。
それにそんなことより、見過ごせない重大な不満が僕にはあった。
「あのさ、アギー、坊やはやめてよ。これでも初等学校に通っているんだよ」
僕はアギーに当然の抗議をした。思春期に入りかけた僕は、そろそろ彼女の下僕から脱出したい年頃だった。
「あら、だってあなたまだ九つになったばかりでしょう? 充分お子様じゃない」
彼女は目を見開いてふくれっ面になる。ブランコから降りて立ち上がると、アギーは僕を上から見下ろした。
「私なんか、十一になったのよ。もう立派なレディだわ。でも、あなたは違うでしょ? まだ背も低いし声変わりもしてないし、小さくて泣き虫で弱虫で、どこからどう見ても坊やじゃない。そんなことよりこの中の物、なんだと思う? なんと惚れ薬なのよ」
アギーは鼻で笑って、こちらの主張をいとも簡単に袖にした。それどころか荒唐無稽な代物を目を輝かせ押しつけてくる。
いうに事欠いて惚れ薬だ! 馬鹿馬鹿しい!
「あのね、アギー」
「何よ、なんか文句あるの?」
「……」
残念なことに僕は彼女より頭一つ分ぐらい背が低く、彼女に上から睨まれると身がすくむ悪癖があった。
「惚れ薬だって?」
仕方なく僕は彼女の小瓶に目をやった。弱虫との批判は甘んじて受けようと思う。
「そんなもの本当にあるわけないだろ」
「あるわよ! この前買い物に出かけた時、街の錬金術師から買ったのよ。本物よ」
彼女は鼻息も荒く馬鹿馬鹿しい言い分を押し通す。
手の中で瓶をコロコロと転がしながら、意地の悪い顔で笑った。
「高かったのよ、本物だもの」
「それが惚れ薬だとしてどうするの?」
そんなものーー。偽物に決まってるじゃないか。
口に出せない言葉は心の中にぶちまける。
アギーはふふんと鼻を鳴らし、小瓶を僕の眼前で弄んだ。
「これをね、ヴェルナー夫人に使おうと思うの」
「は、はあ〜?」
ヴェルナー夫人は僕らの家庭教師だ。
正確に言うと彼女のための家庭教師で、僕はこの地に滞在している間だけ、ついでのように勉強を見てもらっている相手であった。
つまり、彼女は僕と違い、ヴェルナー夫人からは逃げられない運命にある。夏が終わろうが冬がこようが、顔を付き合わさねばならない間柄なのである。
しかも夫人は優しいとは正反対の、口煩くて厳しい、そら恐ろしい女性なのだ。アギーはこの日の授業中も、ヴェルナー夫人から大きな雷を落とされていた。
目を吊り上げ怒る教師の顔を思い出し、僕は背筋が寒くなる。
あのヴェルナー夫人に怪しげな薬を飲まそうなどと、命知らずな行動にしか思えない。
「いい加減にしなよ。いくら先生に怒られたからって、そんな悪戯しようだなんて。どんな罰食らうか分からないの?」
「何ですって?」
「君、嫌がらせをしたいだけだろ」
「違うわよ!」
アギーは顔を真っ赤にして怒声を上げた。
い、いや、今腰が引けたのはびっくりしただけで、彼女の顔が怖かった訳じゃない。
「フラニー坊や、あなた私がヴェルナー夫人に、仕返しするつもりだって思ってるの?」
「違うの?」
「違うってば! 私は純粋に彼女の将来を心配しているの」
「はあ?」
何言ってるの? 意味が分からないんだけど。
アギーは言葉を失う僕を見て、呆れたように肩を竦めた。
「いいこと、フラニー。ヴェルナー夫人は結婚してないんですって。夫人て呼ばれてるけど夫がいたことは一度もないらしいのよ。だから、私の憧れに難癖つけるの。ご自分が異性に好かれたことがないから、私に王子様が現れることが我慢ならないんだわ。そんな彼女を救ってあげたいだけなのよ、私は。仕返しだなんて、とんだ言いがかりだわ」
「えっと、整理させて……」
「どうぞ」
「君の憧れって、あの授業中に将来の夢について聞かれ、なんか、白い馬に乗ったどこかの王子に求婚され結婚するとか何とか答えてたやつ?」
そうだ、そうだ、随分馬鹿げた答えを自慢げに言ってたよな。僕は少し前の彼女の間抜けぶりを思い出し、顔が緩みそうになる。
アギーは鼻を鳴らして胸を張った。
「そうよ。白馬に乗った王子様よ。これは乙女が理想とする結婚相手の総称なの。私としては騎士物語に出てくる美しくて強い騎士のような人がいいけど、贅沢は言わないわ」
そして、水を得た魚のように生き生きと語り出した。
「背が高くて顔立ちがよくて頭が良くて優しくて、今と変わらない生活が出来て、誰よりも私を愛してくれる人なら文句はないのよ。私の夢は物語のようなプロポーズよ。私の前に騎士のように跪いて、一生の愛を誓って欲しいの」
よく言うよ。なんか色々望みすぎだろ。
「そんな夢物語を言うから先生は怒ったんだろ」
「夢物語じゃないもの。私は王子様に出会うの。それで大恋愛の末、結婚するの」
「何だよ、それ」
アギーは何も知らないんだ。
僕は彼女の無知ぶりにすっかりしらけた気分でいた。
彼女は一人娘でこの家から出たこともなくて、両親や周囲に大事に守られ育てられている。いずれ、家の為に自分の将来を決められてしまうとか、そんなこときっと考えたこともないんだ。
そうさ、彼女のような身分の娘が恋愛結婚とか、白馬の王子様とか、おとぎ話の見すぎなんだよ。馬鹿だよ。ヴェルナー夫人が苛立ち怒るのも無理はないんだ。
僕がむっつりと黙り込んだら、アギーは面白くなさそうに鼻にしわを寄せた。
「フラニー坊や。あなた自分が大人になったとでも思っているんじゃない? 初等学校に通い出して、家にいるだけの私より世間を知っているとでも、そう思っているんじゃないの?」
「間違ってないだろう」
少なくとも僕は厳しい集団生活を学び、他人との競争を体験している。ぬるま湯でふざけた夢物語を信じてるアギーより、ずっと大人に近づいたって言えると思う。
「お黙り!」
アギーは僕の額に強烈なデコピンをお見舞いしてきた。
「な、何するんだよ……」
あまりの痛さに俯き悶絶する僕を、「いい気味」と笑って囃し立てる。
くそっ、どうして避けられなかったんだろうか。
「何が学校よ、あんなもので大人になった気でいるなんてかわいそうなフラニー」
「君は行ったことがないだろ? どれだけあの生活が大変か……」
顔をあげた僕は、アギーの目に浮かぶ仄暗い感情に驚き声を失った。
「おバカさんね、フラニー……。あなたって本当におバカさん」
アギーは苦しげに顔を歪ませ口元だけで笑っていた。
つまり、彼女の目は実は全然笑ってなんかなかったんだ。
「えっと、アギー、その……」
「いいわ、フラニー坊や。あなたがそこまで言うのなら、先生にこの惚れ薬を使うのはやめてあげる」
「え? じゃあ……」
ホッとした僕にアギーはニコリともしないで近づいてくる。いつもの彼女とはまた違う威圧感が僕を取り巻いていた。
「ねえ、フラニー。先生から誰かを愛する素晴らしい経験を奪うのは、かわいそうだと私は思うけど、それは余計なお世話だってことでしょ? もしかしたら一生愛情を知らないままお過ごしかもしれないけれど、あなたはその方が先生の為だって言うんでしょ?」
「そ、そんなこと、僕はその薄気味悪い物がーー」
「だったらフラニーが飲んでみてよ」
「ええっ?」
「だから、この惚れ薬をあなたが飲んでって言ってるの」
僕はびっくりしてまじまじと彼女を見た。
「僕が? ……な、んで?」
「だってフラニーは大人なんでしょう? 私よりずっと大人になったんでしょう?」
無茶苦茶だ!
なんで僕が? 意味が分からない。
「き、君の方が年上だろ? いつも僕を坊やと馬鹿にしてるくせに」
「飲まないの?」
「飲むわけないだろ、そんなもの……」
冗談じゃないよ。これ以上彼女の気まぐれに振り回されてたまるか。そうさ、下僕だって時には自分の意見を主張しなきゃ。
アギーはため息を一つ零すと、やれやれと言うように大げさに首を振った。
「なんだ、残念。フラニーがしつこく私に偉そうに説教とかしてくるから、さぞかし立派に成長したのかと思ったんだけど……、どうやらまだまだお子様だったみたいね。勇気の欠片もないんだから」
はあ?
「あなたに期待した私が馬鹿だったわ。先生の為と言いながら自分の身を守るのに必死なんだから」
何を勝手なことを。
僕は喚き散らしたくなるのをグッと堪える。
あのね、アギー、先生が薬を飲んで病気にでもなったら、罰を受けるのは他ならぬ君なんだよ。僕は先生をと言うより君のことをーー。
紳士は己の矜持を傷つけられた時、それを賭けてしばしば決闘することがある。この時僕は手袋をしていなかったし、勿論彼女に向かって「決闘だ」などと叫ぶつもりなどなかった。
だけど彼女に傷つけられたプライドは、修復出来ないほどにボロボロになっていて、僕は……。
「分かったよ!」
気がついたら大声を出していた。
いきり立つ僕の顔を見てアギーの表情も険しくなる。
「僕が飲むよ、それを。それでいいんだろう!」