9 嫌われたくない
雪は静かに降り続ける。
ごめんなさいと泣く私を、彼は困ったように見つめていた。
泣きやまなくちゃと思っても、悲しくて涙が止まらなかった。――悲しい? ぼんやりとした頭で、そこが引っかかる。
どうして私は悲しんでいるんだろう。これは、後悔の涙じゃない? 彼にひどいことをした罪悪感、ではないんだろうか。でも、私が悲しむ必要なんて何もないはずなのに。
「……なあ、さっきから何謝ってんのか訊いてもいい?」
ひっ、と喉が引きつったのは、ただ単に泣いているせいなのか。
けれど彼はそうは思わなかったようで、慌てたように首を振る。
「あー、いや、別に言いたくないならいいんだけど。気まずくて奥村のこと覚えてないふりしてた、俺が悪いんだし」
やっぱり、気まずいんだ。葵ちゃんのことがなかったら、私と関わりたくなんてなかったんだろう。
――そう、葵ちゃんだ。
葵ちゃんと美幸が付き合っている限り、これ以上未来の親戚に嫌われるわけにはいかない。だから、申し訳ないが彼の問いに答えることはできなかった。……なんて、たぶん言い訳だ。
息を止めて、口を引き結ぶ。苦しくなったところで深呼吸。まだ涙は止まっていないけど、気持ちは少し落ち着いた。
「……持ってきてくれてありがとう。あなたも早く着てほしいな」
コートと傘を受け取れば、彼はほっとしたように頬を緩めた。空いた両手を息で温めたところでようやく私の言葉を認識したのか、「あれ、ほんとだ、俺も着てない」とぶるりとしながらコートを着る。その間、お返しにもならないけれど傘を彼のほうに傾けた。
彼がコートを着たのを確認してから、私も着る。傘を持っているので片手、しかもかじかんだ手では、ボタンを留めるのが難しかった。時間をかけてゆっくり留める私を、彼は何も言わずに待ってくれた。ボタンを留め終わると、彼は思い出したように自分の傘を開く。
その彼に、問いをぶつける。
「……私たち、付き合ってるって噂あるの知ってる?」
「えっ、えーっと……知ってる、ような知らないような?」
目を泳がせて、彼は曖昧に答える。知ってるということでいいんだろう、と判断して話を続けた。
「葵ちゃんの話が聞ければ、まあその噂も別に害はないからいいかなって思ってたんだけど」
「……害はない?」
どこか呆然としたような表情。
ぽつりとした、疑問にもなっていないような声に答えようか悩んだのはほんの一瞬だった。気にせず、聞こえなかったかのように言葉を紡ぐ。
「でも、今日だって普通にお喋りしてただけでしょ? だからもう、こういうの意味がないと思うんだ」
害とか、意味がないとか。今まで彼と話してきた私なら絶対使わなかった言葉を、あえて使う。……違うか。彼と、ではなくて、誰かと、だ。こんなあけすけな言い方を私みたいな奴がしたら、人に嫌われることは間違いない。だから今まで、こんなことを口に出したことはなかったのだ。
「ごめんね」とまた謝れば、彼は黙り込む。うつむきがちになってもなお、その表情は窺えた。といっても、さっきの表情からそう変化しているようには見えない。私の言っていることを、上手く飲み込めていないような。そんな顔。
広めの歩道だとはいえ、このままここにずっと立っているのは邪魔になるだろう。近くの店の駐車場にでも移動しようかな、と一歩そちらへ足を踏み出せば、腕を掴まれた。
……掴まれた?
誰、に?
「――っ!」
理解したときには、彼の手を思い切り振り払っていた。傷ついたような彼の顔にはっと我に返る。
違う、ちがう、傷つけたいわけじゃない。違うのに。そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに!
「ごめんっ、今のは!」
なんて言えばいい。
焦る頭をなんとか回転させる。傷つけたくないなんて、さっきの会話を考えればどの口が、という感じだけど、でも、こんな形で傷つけるつもりなんてなかったのだ。
「あの、ここだと邪魔になっちゃうかもしれないし、あっちの駐車場に移動しない? って思って」
「……だな」
誤魔化すように駐車場を指差せば、彼は従ってくれた。
駐車場までの短い距離を無言で歩く。まだ誰にも踏まれていなかった、ふわりとした雪を踏む。あと数十秒後には、会話を再開しなくてはいけない。
何を言えばいいのかわからないまま、その数十秒はあっという間に経ってしまった。口を開いたのは、彼が先だった。
「奥村は、俺と話してて楽しくなかった?」
眉を下げて、それでも無理に笑って、彼は訊いてくる。
……美幸と葵ちゃんの話は、結構楽しかった。だけど、他の話題は嫌だと思っていた。彼との会話が少しでも短くなったらいいな、なんて考えていた。
それは、紛れもない事実で。
「そっかあ……」
答えない私に、彼は納得したようにつぶやく。
「ごめんな、迷惑だったよな」
「……」
「もう必要なとき以外話しかけないようにするから、ずっと言いたかったこと、言っていい?」
体がこわばる。……何を言われるんだろう。
おそるおそる彼と視線を合わせれば、彼は一度息を吐いて、それから勢いよく頭を下げた。
「ごめん!」
え? と、ぽかんと口を開けてしまった。
「美幸の話聞きたいっていうのは口実だった、っていうか。嘘じゃないけど、最初に話しかけたのは違う理由。ずっと謝りたかったんだ、小学校のときのこと」
……何か、謝られるようなことってあったかな。本気でわからなくて、首が自然と傾く。
「……心配してくれたのに、気持ち悪いなんて言ってごめん」
――ああ。
あのときのことがフラッシュバックして、ぎゅう、と手を握りしめる。震えそうだった。
「そんなこと、気にしてたの?」
「そんなことって! だってあれから奥村避けるようになったし、高校でだって目さえ合わないし! だから、忘れたふりしてたほうが最初はいいかなって……」
「あなたは悪くない」
特に大きな声を出したつもりはないのに、やけに響いた。なおも何か言おうとした彼は、私の顔を見て口をつぐむ。
……もしかして、彼はあのときのことをただ申し訳ないと感じているだけなんだろうか。考えてみれば、いくら美幸の情報がほしかったからって、嫌いな相手にあんなに親切にはしないだろう。
そのことに安心してしまったら、気づかざるをえなかった。
今まで私に笑いかけてくれていたのは全部嘘で、本当は彼に嫌われていたのだと、そう思ったからショックを受けた。さっきの涙は、きっとそういうことなのだ。……そういう、ことだった。
「私が何をしようとしてたか、あなたは知らないんだよ」
知ったら、彼は今度こそ私を嫌いになる。
「だから謝らないで」
言いたくないなら言わなくていい、という彼の言葉に甘えてしまう。
私は彼のことが世界で一番苦手で、だけど、嫌いではないから、
嫌われたくない。
「嫌われたくない」
「……それって、どういうこと?」
「え?」
「え?」
……え?
一瞬頭が真っ白になった。
私は今、何か言ってはいけないことを言った気がする。言ったというか、こぼれた気がする。顔に上がってきた熱をかじかんだ手で冷まそうとするも、無駄だった。意味が通じていないようなのが救いか。別に意味とか何もないけど。うわぁ、一気に冷静になった。
早口で「何でもない、気にしないで」と伝える。そのまま走って逃げたくなったが、さっきの今で流石にそんな勇気はなかった。
「……よくわかんないけど、俺に嫌われたくないの?」
「う、ううん、いや、それは」
しどろもどろに否定する私に、彼は「ああああよかったぁ」と心底安心したような声を出す。あの、一応否定してるんだけど。聞こえてますか。
「よし、お互い謝ったし、これであのときのことはもうおしまいってことで!」
「え、ちょっと待って、」
そんな簡単に済む話ではないはずだ。混乱する頭でそう言うと、
「やっぱり、もう話しかけないほうがいい……?」
縋るような目で見られてしまって、言葉に詰まった。もう辺りは真っ暗だが、近くにちょうど電灯があるので、彼の顔ははっきり見える。明かりがないところに行けばよかった、と少し後悔する。
さっきまでは動揺のせいで普段はしないような言動をしてしまったが、ここまで頭が冷えた今、うなずくなんてできない。もしうなずいたら、きっと彼はすごく悲しそうな顔をするだろうから。……それに、私は彼に嫌われたくないのだと、気づいてしまったから。
けれど、彼と関わりたいかと問われれば、答えは否だ。できれば関わりたくない。
関わりたくはない、が。やっぱり親戚になる可能性が高いのだから、結局は関わることになるのだろう。
――怖い。
そう。私はたぶん、怖いだけなのだ。何が、とはっきり言うことはできないけれど。
「このままだと付き合ってるって本当に勘違いされるかもだし、少なくとも、頻度は減らしたほうがいいんじゃないかな」
視線を落とし、冷えきった手をこすり合わせる。かじかんでいて、少し指を曲げるだけで痛かった。その痛みとともに、そういえば擦りむいたんだったとついでのように思い出した。思い出してしまえば、膝までひりひりと痛みを主張し始める。
「今までどおりじゃダメ?」
彼は食いさがってきた。それがなんだか意外で、すぐには否定できずに口ごもってしまう。強引なところはある人だが、引くべきときには引いてくれる人だと思っていたのに。
「駄目、ではないけど……あなたは嫌じゃないの?」
私の卑怯な問いに、彼は「えっ、なんで?」と目を瞬く。その反応に、むしろ私のほうがえっ、なんで、とうろたえてしまった。
「な、なんでって。私と話してて楽しい?」
「超楽しい!」
満面の笑みで肯定されてしまう。超楽しいって、何それ。私との会話、楽しんでたの? おかしくない? あ、いや、美幸のことを知るのが楽しかった……? でもそれだと、ここで食いさがる意味がわからない。
「奥村は俺が葵の話ばっかりしても、ちゃんと最後まで聞いてくれるし。あと、興味ない話題にもちゃんと考えて返事してくれるじゃん? それに、美幸の話聞くのももちろん楽しいし!」
え、ええ、ええっと、どうしよう。私が断るとは思っていないのだろう、彼の目は期待に輝いていた。
考えて、苦し紛れに最後の質問をする。
「だって、付き合ってもないのに結構な人に勘違いされてるよ? 否定したところで、よく話してるのは事実だし、このままだと彼女できないんじゃない?」
男子高校生にとって、彼女というのはかなり重要な問題のはずだ。だからそんなふうに訊いてみたのだが、彼はきょとんとした。
数秒経って、その視線がそろりと斜めを向く。
「そ、れは、問題ないかな! ほら、えーっと、だってさ、俺が彼女作ったら葵が寂しがるし!」
明らかに不審だった。ちら、ちら、と私の反応を確認する彼は、いったい何を考えているんだろう。
……わかるはずもないか。
深いため息をつく。暗闇の中に消えていく白いそれが、なんだかとても汚いものに感じた。
「じゃあ、これからもよろしくお願いします……?」
「よっしゃあ、よろしく!」
喜んでいる、のだろうか。嬉しそうな彼に、どうしても困惑してしまう。
「あっ、そうだ、怪我! 店の水道とか借りて洗ったほうがいいんじゃ……」
「ううん、大丈夫、帰ってから消毒するよ」
「もう暗いしおく」
「らなくていいから、そろそろ帰ろう?」
寒いのは本当に苦手だ。ぶるぶると勝手に震える自分の体を抱きしめる。うぅ、さむい。もう今更だけど手袋つけなきゃ。痛いかもしれないが、寒いほうが耐えられない。あとマフラー。
バッグの中から取り出し、マフラーを首にぐるぐると巻いたあと、手袋をはめる。これで少しはましになった。
「あったかそー」
ぷっと彼が笑う。どこが面白かったんだろう。
「……寒いの苦手って言ってたのに、こんなとこで長話させちゃってわりぃ」
それに関しては、気にしないで、とは言わずに曖昧に相槌を打つに留めた。いきなり飛び出した私が圧倒的に悪いのだから、本来なら私が謝らなくてはいけなかったのだけど。
ふる、と頭を振って、髪についた雪を落とそうとする。上手く落ちてくれなかった残りを指先で払っていると、彼が手を伸ばしてきた。たぶん手伝ってくれようとしたのだろうが、思わず飛び退る。
「ま、前から思ってたけど、柳沢君の距離感は色々おかしいと思います」
普通彼女でもない女子の髪にさわるとかないです、と敬語で告げると、彼は一瞬ぽかんとした後、慌てて謝ってきた。
「……これからも今までどおり話すのはいいけど、私には絶対さわらないでほしい」
理由を言わない私に、何を思ったのだろう。彼はただ、了解、とうなずいただけだった。