5 世界で一番
男女逆転シンデレラは面白かった。美幸以外の女装はあまりにわざとらしくてつい笑ってしまったし、展開が早いハチャメチャコメディにアレンジされていたのですごく楽しめた。葵ちゃんと美幸は美男美女カップルで、踊っているシーンは特に難しいステップも踏んでいないのに見惚れてしまった。
魔法使いがシンデレラに魔法をかけるシーンでは、少し目をそらしてしまったけど。ただ暗転の間にみすぼらしいワンピースを脱いで、その下に着ていたらしい少し可愛いワンピースに変わったくらいだったから、案外ダメージは少なかった。
それよりも。
『だって姉さん、あの人のこと苦手じゃない?』
彼に気づかれぬよう、小声で囁かれた言葉。
ベッドに転がって、ぼんやりと天井を眺める。
劇を見終わった後、私は彼と一緒に帰った。本当は美幸と帰ろうと思っていたのだが、ちょっとした片付けなんかもあるらしいし、葵ちゃんと帰るのをお邪魔しちゃ駄目だな、と思って。
――苦手。
確かにそうだ。私は彼が、苦手だ。世界で一番。
「……なんで」
なんで気づかれてしまったんだろう。あんな少しの間で、美幸に。美幸には、私のそんな感情に気づいてほしくなかったのに。
目を閉じれば、いつの間にか溜まっていたらしい涙が頬から耳へと流れていった。冷たい感覚が不快で、タオルケットで乱暴に拭く。静かな部屋に、外を走る車の音が響いた。
苦手。すごく、すごく苦手。あんな人と、関わりたくない。
それなのに彼は、葵ちゃんの兄だから。関わらないなんて無理なのだ。
もしかしたら美幸は、私が彼と親戚になるのが嫌だと言えば、葵ちゃんと別れるのかもしれない。それが怖いから、美幸にだけはばれたくなかったのに。
「なんでなんで」
自分の声さえ不快だった。けれど口は止まってくれなくて、仕方なくタオルケットを噛みしめる。
なんで、気づかれちゃったの。私は、彼の前で『普通』を演じるのがそんなに下手だっただろうか。ある程度長く関わった他人には、私が表面上の付き合いしかしていないことをなんとなく気づかれることもあった。だけど、だけど。……あんなにすぐに、美幸に気づかれてしまうなんて思わなかった。美幸だからこそ、気づかれてしまったのかもしれない。
タオルを噛む歯に力をこめる。
苦手だ。彼のことが、顔も見たくないくらいに。
――怖い。怖くて怖くて、吐きそうだ。
「ただいま」
玄関のほうから声が聞こえてきた。はっと体を起こして、鏡に目をやる。……駄目だ、泣いていたのがばれる。
だけど、あの言葉がどういうことなのか訊きたかった。あのときは彼も傍にいたし、「苦手じゃないよ?」と美幸と同じように小声で返すことしかできなかったのだ。
まったく、感情が押し殺すのが得意だなんて、どの口が言うんだ。これくらいで泣いてしまうなんて、私が私じゃなくなってしまったみたいだった。
自分がおかしくなった理由はわかっている。明白すぎるほどに、明白だった。
せめて鼻声をどうにかしよう、と枕元にあるティッシュを一枚出して鼻をかむ。
そうしている間に、階段を上る音に続いてノックの音が聞こえた。
「姉さん、入っていい?」
「…………うん」
駄目だと言えば、美幸はほっといてくれるだろう。でもそれは、したくなかった。
ドアを開けた美幸は、明らかに泣いていたとわかる私を見て悲痛そうな顔をした。
「ごめん、姉さん」
「なんのこと? 美幸が謝るようなことはなんにもないよ」
「……あの人のこと、苦手なんでしょ」
「苦手じゃないって言ったよ?」
白々しい嘘も、美幸には通用しない。それをわかっていても、嘘をつかずにはいられなかった。
ドアを閉め、美幸はベッドの傍に座り込む。そしてすぐに、切り出した。
「柳沢晃って、どっかで聞いたことある名前だなって思ってたんだ」
――体に力が入った。
美幸はじっと、私の目を見つめる。
「姉さんって昔から学校での話とかあんまりしなかったけど、するときには人の名前フルネームで言ってたよね」
「……そう、だっけ」
「うん。それでずっと前、姉さんが話してたなって思い出した。
同じクラスの柳沢晃くんって子、お母さん死んじゃったんだって、って」
記憶力がよすぎる美幸に、呻き声を上げたくなった。
「その後、姉さん急に人と話せなくなったでしょ。しばらくしたら元どおり……ううん、とにかく人と話せるようにはなったみたいだけど。今日あの人と一緒にいるのを見て、やっぱりあの人が原因だったんだって思った」
「……そんなに私、今日変だった?」
喉に突っかかりそうになった言葉を、なんとか吐き出した。
一目見てわかるくらい、私が彼のことを苦手に思ってるように見えたんだろうか。それを美幸に気づかれてしまったから、私が泣いていたと思っているんだろうか。
「変、っていうか。すごい緊張してたから」
きんちょう。緊張?
……そりゃあ、するだろう。基本的に、私が緊張しないのなんて家族の前くらいだ。いつだって緊張して、自分を偽って、嫌われないように頑張って。そうやって、今まで生きてきた。
それだけならいつものことだ。
よかった、否定できる。安堵すると、美幸が言葉を続ける。
「それに、なんか――」
――怖がってる、みたいだった。
「……すごいな、美幸。そこまでわかっちゃうんだ」
ここまで言われてしまったら、もう肯定せざるをえなかった。
呆然とつぶやけば、美幸は苦く微笑んだ。
「姉さんだって、俺とか空実姉さんのことはなんでもわかっちゃうでしょ」
「なんでも、は私のこと買いかぶりすぎ」
上手く隠されたら、私だって気づけないだろう。『なんでも』わかっているように感じるとすれば、それは私の力のせい。
それだって、さわらなくてはわからないし、嬉しい気持ちや楽しい気持ちはわからない。喜怒哀楽の怒と哀、半分しかわからないのだ。……家族に喜と楽を隠す必要はないから、実質『なんでも』と言ってしまってもいいのかもしれないけれど。
「ごめん」
また、美幸が謝る。
「それでも俺、葵が好きなんだ」
美幸の顔が、歪む。きっと心の底から、葵ちゃんのことが好きなんだろう。だから、たとえ私が嫌がったって彼女と別れることなどできないと。そう、美幸は言っているのだ。
……ああ、よかった。
とっさに、体を起こして美幸の頭に手を伸ばす。柔らかな髪の毛を撫で、美幸に笑いかける。彼に、大丈夫だよと伝えるために。
「それは、嬉しいなぁ」
悲しい。不安。ごめんなさい、ごめんなさい。
私の嬉しさなんて、すぐにそれらに掻き消された。……やだな。どうしよう。不安だ、怖い、ごめんなさい、不安、不安。
ぐるぐると、私のものじゃない感情が私の中でうずまく。
いっそ心を読めればよかった。こんな漠然とした気持ちじゃなくて。心を読めれば、もっと的確な言葉をかけることができるのに。
美幸の表情が少しずつ和らいでいく。同時に、伝わってくる感情も少なくなってきた。
「……ごめん」
それでももう一度だけ謝った彼に、頭をなで続けながら首を振る。
「あの人がいい人なのはわかってるから。大丈夫、私も仲良くできるよ。葵ちゃんも可愛くていい子だし、早く妹になってほしいな」
「……それはまだ、気が早いんじゃないの」
「照れてる? でもね、本心なんだよ。葵ちゃんが家族になってくれれば素敵だなって思う」
美幸の幸せは、私の幸せだ。お姉ちゃんの幸せも、お母さんの幸せも。
私の幸せは、家族の幸せなのだ。
伝わってくる不安が完全になくなった。……落ち着いた、かな。
小さく細く息を吐いて、美幸の頭から手を下ろす。
「……あ、ごめん、先に帰ってきてたのに何にもしてない!」
慌ててベッドから立ち上がれば、美幸はふっと笑った。
「かもな、って思って惣菜買ってきちゃった。俺掃除しとくから、洗濯やってもらっていい?」
本当にいい子だなぁ、と。もう一度軽くその頭を撫でて、了承の返事をする。
さあ、洗濯をしよう。
* * *
少し昔の話をする。
私が彼と――柳沢くんと出会ったのは、小学校三年生のときだ。私の小学校は二年に一度のクラス替えだったので、四年生もそのまま彼と同じクラスだった。
四年生のとき、お義父さんが亡くなった。美幸のこともあの力で慰めて、私の勘違いが加速した時期のことだ。
私のお義父さんの死からしばらくして、柳沢くんのお母さんが亡くなった。
いつも元気な彼が休むのは珍しいな、と思っていたら、学活の時間に担任の先生……名前は忘れたが、確かみんなにぽっぽと呼ばれて親しまれていた先生が、沈痛な面持ちで告げたのだ。
柳沢くんも私と同じような境遇になったんだ、と一瞬驚いて、そして私のときもこの先生はこんな顔でわざわざ話したんだろうかと思って、幻滅した。だからみんな、忌引き明けによそよそしくなったのか。
忌引きが終わって戻ってきた柳沢くんは、それでも明るいままだった。だけどそれが空元気だということは、親しくない私でもわかった。むしろ、親しくないからこそわかったのかもしれない。
時折、ぼんやりと物思いに沈む瞬間があった。どこか遠くを見ているようなその様子に、ああ、この子はまだ、お母さんのことを引きずっているのだと、そう思った。
今考えれば当然のことだ。私だって、お義父さんが亡くなったときには本当に悲しんだ。自分含め、家族四人分の悲しみを味わって。
だけどあのとき……彼が悲しんでいるのだと気づいたとき、びっくりしてしまったのだ。そして、それなら私が助けてあげられる、と自惚れてしまった。
彼が一人になったタイミングで、名前を呼んで、大丈夫かと声をかけた。大丈夫、と答えた彼の肩にそっとふれて――。
悲しい、と思った次の瞬間には、恐怖で息ができなくなった。
手を振り払われて、拒絶されて、地面にへたり込んで。それでも心臓はばくばくと、彼から伝わってきた感情に早打っていた。
何が、怖かったんだろう。
――そんなの、一つしかない。気持ち悪いと彼は言ったのだ。彼は私が、恐ろしかったのだ。
自分に向けられた恐怖を、自分で感じる。それがあんな、私の存在が消えてしまうんじゃないかと思うほどにぞっとすることだなんて、知らなかった。体の中のナニカをぎゅっと掴まれて、ぞわぞわと気持ち悪いものが背筋を這い、息の仕方も忘れた。
ぽろりと涙がこぼれた。
悲しい。それが自分の気持ちなのかも、わからなかった。
彼じゃなかったら、もしかしたら私もここまで引きずらなかったのかもしれない。家族以外に使うのはやめておこうと、ただ単純にそう決心しただけかもしれない。
だけど、彼だったから。
今でも心に、こんなにも大きな傷が残っているのだ。
きっとまだ、恋ではなかった。恋になりかけていた何かだった。あえて名前をつけるとしたら、憧れ。
だから私は、彼が苦手だ。世界で一番。