2 鐘が鳴っても
感情を押し殺すことは得意なつもりだった。
家族とはいえ、昔から他人の感情を自分へと無理やり移してきたのだ。自分の感情くらいコントロールできないと、他人の感情にすぐ押し流されてしまう。心が読めるわけではなく、漠然としたものしか伝わってこないから、なおさら気持ちが悪かった。自分の感情として感じているのに、確かに他人の感情なのだ。それをやり過ごすためには仕方のなかったこと、だと思う。
だってこんな力、ばれるわけにはいかないじゃないか。きっとお母さんたちは私の力を知っても納得するだけだろうけど、怖かった。あの子と同じように、私を拒絶するんじゃないかって。
いわゆる、トラウマというやつなんだろう。
その原因となった『あの子』が今目の前にいて、私に話しかけている現状をどう切り抜けようか。
ぐるぐると、意味もなく頭が回転するのがわかる。思考するそばからすべてが消えていって、何も残らなかった。
彼と関わるのはすごく怖いし、返事をしようと考えるだけで緊張で泣きそうだったが、そんな様子はおくびにも出さないように気をつける。――大丈夫、怖くない。それに、緊張もしてない。大丈夫、大丈夫。
うん、大丈夫だ。落ち着いてる。
無意識のうちに唾を飲み込んでから、答えるべく口を開く。
「確かに美幸っていう弟はいるけど……それがどうかした?」
小さく首をかしげれば、彼はなぜか嬉しそうに顔を輝かせた。彼の顔をまともに見たのは久しぶりだった。
「あっ、やっぱ? 俺妹いるんだけど、奥村美幸って子と付き合ってるって聞いてさ。一つ上のカナミって名前の姉ちゃんがいるって話だったから、もしかしてと思って」
そういうことか、と内心嘆息する。
彼の名前は柳沢晃。美幸から柳沢葵ちゃんの名を聞いたときに、確かに引っかかったのだ。けれどそこまで珍しい名字でもないから、とスルーしてしまった。柳沢と聞いた時点で警戒しておくべきだったのかもしれない……なんて、無理な話だが。
葵ちゃんの兄ということで確定だなと思いつつも、「じゃあ」とびっくりした顔を作ってみせる。
「美幸から聞いてた葵ちゃんって、あなたの妹さん?」
「そうそう!」
「わあ、偶然だね」
一応それは、本心だった。
弟の彼女がクラスメイトの妹だなんて、そんな偶然がありえるのか。美幸が好きになったからには、葵ちゃんは素敵な子にちがいないけど……もし美幸が葵ちゃんと結婚したら、私はこの人と親戚になるのだ。その未来を想像して、ほんの少し気分が重くなった。
まだ高校生なのに結婚を想像するなんて気が早い、と普通の人なら思うかもしれない。でも私は、美幸なら、と思うのだ。きっと彼になら、最初の恋人と末永く幸せに暮らすことも難なくできるはずだ。
さて、それで、彼は何を目的に話しかけてきたんだろうか。妹と弟同士が仲良くしてるんだから、関わりを持っておこう? それくらいならまだいいけど、親しくなりたいと思っていたら困る。
表面上はともかく、私はもう、家族以外の誰かと親しくなるつもりはないのだから。
「葵、全然美幸……あ、美幸くんって呼んだほうがいい?」
「ううん、どっちでも大丈夫だよ。もし美幸と会う機会があったら、最初は美幸くんって呼んだほうがいいだろうけど」
美幸はあの容姿のせいで、やっかみを受けることも少なくなかった。逆に、親しくもないのにやけに絡んでくる人もいたらしく、馴れなれしい人が苦手なのだ。
葵ちゃんは、どうやって警戒心の強い美幸とお付き合いするに至ったんだろうか。いつか聞いてみたいな、と目の前の彼のことを一瞬忘れながら考える。忘れられたのは本当に一瞬で、彼の声にすぐ現実に引き戻された。
「おー、おっけー。でさ、葵が美幸の話してくんないんだよ。葵が付き合うくらいなら変な奴じゃないだろうけど、兄としては心配なんだよねー」
「ああ、それはわかる」
「だろ!? だから奥村から美幸の話色々聞けたらなって。奥村だって、葵のこと気になんない?」
……この人ってこんなにぐいぐい来る人だったっけ。かすかな違和感に戸惑う。
そりゃあ、葵ちゃんのことは気になる。シスコンブラコン気味であることは自覚済みだし、お姉ちゃんの今の彼氏のことだって根掘り葉掘り聞いたのだ。本心としては、葵ちゃんのどんな小さな情報でも聞きたい。でも美幸はそういう恋話を好まないから、いつか実際に会ってみるしかないな、と思っていた。
会う前に彼女のことを聞けるのなら、それは助かる。
助かる、けど。
……いや、躊躇うのはやめておこう。ここでこの提案を突っぱねるのは不自然だ。
「私も葵ちゃんのこと、教えてほしいな。美幸のことも教えられる範囲で教えるから」
「よっしゃ!」
「そんなに喜ぶなんて、もしかしてシスコンだったりする?」
ふふ、と笑いながら言えば、彼はガッツポーズをしていた手を開いて照れ臭そうにうなずいた。
「いやもう、めっちゃかわいいんだよ! なんていうか、こう言うと引かれるかもだけど、存在してるだけで奇跡みたいな? ちょっとツンデレ気味だけど、そこもかわいい」
……軽いノリで言ったのに、予想外にガチなやつだった。天使みたい、とは私だってお姉ちゃんや美幸に対して思うことはあるけど、存在してるだけで奇跡、とは流石に思え……いや、思えるな。ぎみ、ではなく、私も立派なシスコンブラコンかもしれない。
意外な気づきを得たところで、そのまま笑って会話を続ける。
「あはは、年子でそんなに可愛がるのって珍しいね」
「だよなー。ま、でも奥村だってそうだろ?」
「うん? 確かに年子っていえば年子だけど」
「じゃなくて、年子なのにそんなにかわいがってる、っていうの」
とっさに記憶を辿る。学校で美幸の話をしたことはほぼない、はずだ。せいぜい一個下の弟という情報しか口にしていないはず。
「……そりゃあ、可愛いもん」
なのになんで。
私が美幸のことが大好きだと、この人は知っているんだろう。
「弟とか妹ってそれだけで無条件にかわいいよなー」
「下の子だけじゃなくて、お姉ちゃんも可愛いよ」
「おお、姉ちゃんもいんの? そういうことも含めてさ、あー……そうだなぁ、今日の放課後空いてたりしない?」
ひく、と顔が引きつりそうになる。放課後のお誘い? なんのために? 別に美幸と葵ちゃんの話なんて学校ですればいいのに。
というか、今日初めて喋ったような人を放課後誘うってなに。男女二人で出かけるとか、デートだと思われるじゃん。深く考えてないだけなのか、遊び慣れてるのか。きっと前者だろうな、と思いつつ、言葉を濁らす。
「今日はちょっと……」
「そっかー。じゃあ日曜は?」
「休日もちょっとっていうか、そもそも基本的に家の仕事は私がすることになってるから、誰かと遊ぶ時間はないかも」
ごめんね美幸、と心の中で謝った。家事は美幸だって手伝ってくれているのに、私だけがやっているような言い方をしてしまった。
でもそうでもしないと、断る口実にはならないだろう。
私の言葉に、彼は「えらっ」と目を丸くした。
「うーん……だったら昼休みかぁ」
「そうしてくれると助かるかな」
だったらじゃなくて初めから昼休みを指定してほしかった。今だって昼休みなわけだし。
ちらりと時計に目をやれば、予鈴まであと三分。そろそろ会話を切り上げてもいいだろうか。
「それじゃあ、明日から葵ちゃんのこと色々教えてね」
うん、とうなずいた彼は、ふと思い出したように自分の顔を指差した。
「柳沢晃です、よろしく」
「え、うん、奥村奏海です。よろしくね」
なんで今更自己紹介されたんだろう。同じクラスで半年も過ごせば、いくらなんでもクラス全員の名前くらい覚えられる。私の名前を知らなかったのかな、と一瞬思って、だけど彼は『オクムラカナミ』という名前を聞いて私に声をかけたんだった、と思い出す。
……逆に、私が彼の名前を知らないと思われた? 確かにあなたと呼んだだけで名前は口にしなかったけど、今の短い会話でそこまでの判断はつかないんじゃないだろうか。
「奥村ってさー」
そこで彼は言葉を止めて、私の顔をじっと見た。首をかしげて次の言葉を促すと、「や、なんでもない」とにっと笑顔が返ってきた。
じゃあな、と席に戻った彼に、小さく長く息を吐く。……きもちわるい、きもちわるいきもちわる、ううん大丈夫、気持ち悪くない。全然、これっぽっちも。
深呼吸を一度して、次の授業の準備をする。
気持ち悪くない。別に不快じゃない。怖くない。そういう感情を、私が持つ必要はない。
だって私は、感情を押し殺すことが得意な、はずだから。
えずきそうになるのを堪えるために、拳を強く握って手のひらに爪を立てる。最近……大分昔から、体調が悪いのだ。きっとそう。家族以外の人と話した後に気分が悪くなるのは、偶然だ。――偶然じゃない、とは流石にもう、わかっていたけど。
でも大丈夫、私はちゃんと、普通に話せてるし、ちゃんと笑えてる。それは確かだ。押し殺すのは無理でも、外に出さないようにはできている。
まるで呪いだった。魔法なんか使えないのに魔法使いに憧れて、そしてもう、憧れることすらできやしないのだ。
呪いをかけられてしまった。他でもない、私自身に。
たすけて、と言ってしまいたかった。何から助けてほしいのかも、誰に助けてほしいのかもわからないのに。
ぼさぼさな癖毛を、指先で弄る。艶のない黒髪、短い睫毛、パーツが全て小さく地味な顔。顔の小ささだけはまあ、それなりに誇れるものかもしれないが、細い体と相まってどこか不気味だ。
愛想はいい、けれど決して親しくしようとしない。
こんな私の呪いを、誰が解く? 呪いを解いたって、その人に何の利益もないのだ。
魔法使いに憧れたのが、そもそも間違いだったのだろう。物語のキーパーソンになんて、私がなれるはずもなかった。
――こんな中途半端な力、いらなかった。
予鈴が鳴った。少し濁ったその音に、私にはこれくらいの音がお似合いだよな、と自嘲する。
たとえどれだけ鐘が鳴っても、私の呪いは解けないのだ。そんなの、当然だった。