12 嫌いになれたら楽だった
勉強机に向かいながら、視線を上げてカレンダーを見る。上のページにはかわいい柴犬の写真があり、その下には5という文字。
彼はあの日から風邪を引いたらしく、休んだまま終業式を迎え、会うことなく三年生になった。それからは廊下ですれ違う程度だから、もう二ヶ月ほど一切話していないということになる。傘はお礼のお菓子と一緒に、美幸経由で葵ちゃんから返してもらっていた。
――予想は、してたけど。
そのとおりにならなければいいと、期待していた私もいたのだと気づかされた。今までだって私から話しかけたことはないのだから、彼が私を避けるようになれば、話さないようになるのは当然のことだった。
『もちろん勉強の邪魔しない程度には会いにいくつもりだけどさ』
二ヶ月前の彼の言葉が、耳によみがえる。嘘つき、となじるつもりはまったくない。……だって私が悪いのだから。もちろん、と言ってくれるほどに付き合いを続けてくれるつもりだった彼を、傷つけたのは私だ。
集中力が切れてしまって、んん、と一度伸びをする。受験勉強は至って順調だった。もちろん油断をする気はさらさらないが、まあ、何かない限りこのままやっていけば落ちることはないだろう。
もう二時間は勉強したし、ちょっと休憩しようかな。
ベッドに腰かけ、小さくため息をつく。
あれでよかったのだろうか。ふとしたときに、そう考え込んでしまう。何が正解だったかなんて、いくら考えたってわかるはずもないのに。
いや、正解だったのだろう。だって彼は、本当は私なんかを好きになるような人じゃないんだから。私は、外見にも中身にもいいところが一つもない。彼はただ勘違いしているだけなのだ。付き合ってからそれに気づくより、気づかないまま忘れたほうが彼にとっていいにちがいない。
忘れてほしいな、と思う。私のことなんか忘れて、早く違う人を好きになって、そして幸せになってほしかった。
私よりももっと、彼にお似合いな人が絶対にいるから。私よりも可愛くて、優しくて、気が利いて、明るくて……彼のことを、大切にしてくれる人が。
「……」
ぱたりとベッドに横になる。
彼に拒絶されたのは、小学四年生のとき。つまりあれから、一、二、三……七年以上、経ってるのか。今度は何年、引きずるんだろう。長くなきゃいいなぁ、と思いながら目をつぶった。
* * *
翌日の夕方、家で勉強しているとインターホンが鳴った。まだ私しか家にいないので、階段を下りて誰が来たのだろうと確認する。
「……あれ?」
モニターに映っていたのは、葵ちゃんだった。その近くに美幸の姿はない。一人で来るなんて何かあったんだろうか、と少し不安になりながらドアを開ける。
一応周囲を確認してみても、やっぱり葵ちゃん一人だった。
「こ、こんにちは」
「こんにちは、どうしたの? 美幸ならまだ帰ってきてないけど……」
首をかしげると、葵ちゃんは緊張した面持ちで「奏海さんに話があります」と切り出した。
……美幸のこと、だろうか。わざわざ美幸がいないときに来るのだからそうなんだろう、とは思うが、なんとなく嫌な予感がする。美幸のことで相談がある、という表情ではないのだ。美幸への不満、という線もあるが、葵ちゃんなら私に告げ口するようなことはしないだろう。たった数回しか会っていないが、だからこそ、すごく素直で真っ直ぐな子だとわかっている。
だとすれば、きっと。
「……どうぞ、入って」
ほんの少し逡巡して、結局招き入れる。まだ、美幸の話じゃないと決まったわけではない。――もし彼の話だとしても、門前払いは可哀想だった。
お邪魔します、と小声で言って、葵ちゃんは私の後ろをついてくる。
「座って待ってて。紅茶か麦茶、どっちがいい?」
「……紅茶でお願いします」
「あったかいのでいい?」
うなずく彼女にお砂糖とミルクの数を訊けば、ミルクを一つだけ、と返ってきた。ティーバッグで淹れた紅茶にポーションミルクを一つ入れ、スプーンでかき混ぜる。葵ちゃんのほうに視線を向ければ、緊張した顔のままテーブルを睨みつけるように見ていた。
……私も、緊張しちゃうな。
お盆にのせてカップを運び、ことり、と葵ちゃんの前に置く。もう片方を向かいの椅子の前に置いて、私も座る。
さて、と小さく深呼吸をした。
「それで、話って何かな?」
葵ちゃんがお茶を一口飲んだのを確認してから、笑みを浮かべる。私の笑顔に、葵ちゃんの緊張は少し和らいだようだった。
「あの、兄のことなんですけど」
かしこまって口を開く彼女に、うん、と相槌を打つ。……やっぱり、彼のことだったか。
「何があったのかわかんないし、図々しいことだってわかってるんですけど、また前みたいに仲良くしてもらえませんか……?」
「それは、柳沢君に頼まれたの?」
笑顔を崩さないように気をつけながら尋ねれば、葵ちゃんはぶんぶんと慌てて首を振った。
「お兄は関係ないです! ただ、なんか三月くらいからずっと元気ないし……。私がみゆ、き君の話すると、たまに奏海さんのこと訊いてくるんですよ。で、美幸君から聞いた話とか話したらすごい楽しそうで、でもその後すぐ落ち込むので、奏海さんにフラれちゃったのかなあって」
……わからないと言った割に、理由はちゃんと察しているらしい。
すれ違うたびに気まずそうに目をそらすから、まだ私のことを気にしているんだろうとは思っていた。けど葵ちゃんの話を聞くと、それどころかまだ好きでいてくれているように感じる。――馬鹿だなぁ。勘違いなのに、錯覚なのに、気づかないなんて。
何も教えない私のほうが、もっと馬鹿なんだけど。
「お兄がびしょ濡れで帰ってきた日、がそうなのかなって勝手に思ってます。お兄の傘、なぜか美幸君から私に返ってきたので……」
「……ごめんね。直接返せたらよかったんだけど」
正確にはその前日。でも、あえて否定するほどの差はない。
「ってことは、やっぱりあの日だったんですね。ただのビニール傘でしたし、本当にフりたいなら返さなくてよかったんですよ。お菓子まであって……まだ、お兄と仲良くしてくれる気がほんのちょっとでもあるのかなって思って。すっごい悩んだんですけど、このままにはしたくなくて、来ちゃいました」
傘を返すときにお菓子も添えたのは、本当にただのお礼のつもりだったのだが、それが悪かったのか。
黙り込む私に、葵ちゃんはしょんぼりと謝る。
「すみません、やっぱり余計なお世話でしたよね……。お兄って馬鹿だし、絶望的に空気読めないことあるし、女心わかってないし、馬鹿だし」
二度も馬鹿だと言った彼女は、でも、と困ったように笑う。
その笑顔は、彼に似ていた。
「優しいんですよね。妹の私が言っても嘘っぽいかもしれないですけど、ほんと、いい人なんです。だから、奏海さんにも……嫌いになってほしくないなって、思うんです」
――そんなの、知ってる。
彼が優しいなんて、いい人だなんて、ずっと前から知っているのだ。
紅茶を飲み、そのまま視線を落とす。普段は緑茶を飲むから、少し飲み慣れない味だ。ああ、クッキーとか出したほうがよかったかな。でも今更、か。
どうでもいいことに思考を割いて、また一口、お茶を飲んだ。
私は紅茶の独特な甘みが苦手だった。砂糖もミルクも入れなくても、ちょっと甘みがある。飲むとそれが口の中にしばらく残って、不快とまではいかずとも、緑茶と違って気持ちを落ち着かせることはできなかった。自分の分だけでも緑茶を入れるべきだったかもしれない。
「美幸君から、奏海さんがお兄のこと苦手だって言ってたって聞いて……。いや、わかるんですよ! だってうちの兄、ちょっと鬱陶しいですもんね! 奏海さんみたいな大人っぽい人にはもったいないなーって思うし、恋愛的な意味で好きになってほしいとかは間違っても言えないんですけど。……嫌いには、ならないでほしいんです。お願いします」
下げられた葵ちゃんの頭を、ぼんやり見る。
嫌いになれたら、きっと楽だったのだ。
「葵ちゃん」
「は、はいっ」
カップをソーサーに置いて、静かに名前を呼べば、彼女はばっと顔を上げる。
「私、柳沢君のこと嫌いじゃないよ」
「……え?」
「あのね、葵ちゃん。苦手と嫌いは、違うの」
私は彼のことが世界で一番苦手だけど。
それでも、嫌いになったことなど一度もなかった。嫌いだったら、いくら葵ちゃんの話が聞けるからってあんなふうに毎日話したりはしない。だから今のこの状況があるのだ。私が彼を嫌いになれていたら、彼が私への思いを自覚……否、勘違いすることはきっとなかった。
意味がよくわからないのか、葵ちゃんはぽかんとしている。
確かに、苦手と嫌いは近い位置にあるんだろう。けれど、好きと嫌いだって近いんじゃないかと思っている。感情なんて何と何が近くて、そして遠いのかなんて、簡単にはわからないのだ。もしかしたら、感情に距離なんてものは存在しないのかもしれない。人への感情は特に、ちょっとしたことがきっかけですぐ変わってしまうんだから。
「納得できない、かな?」
「……苦手、なのは元からだって聞きました。じゃあお兄を避けるようになったのって、やっぱり気まずいから、ですか?」
「今はもう、避けてるつもりはないんだけどね。ただ、」
言いかけて、口を閉ざす。
葵ちゃんが彼に何でも言ってしまうとは思っていないが、口に出してしまえば、彼に伝わる可能性が零ではなくなるのだ。何を言えば納得してもらえて、なおかつ不快に思われないだろうか。力の話をするつもりはないし、かといって、柳沢君の気持ちを信用できない、と言うのも失礼だろう。
慎重に言葉を探すうちに、何を言いたかったのかわからなくなってしまった。
「……ただ。柳沢君は、勘違いしてるだけだから」
これならぎりぎり、変に思われないかな。
そうっと葵ちゃんの様子を窺うと、彼女は目を瞬き、次第に吊り上げていった。予想していなかった反応に、思わずたじろいでしまう。お、怒らせた……?
「それって、お兄の気持ちが勘違いだってことですか?」
「え、いや、あの」
しまった。実質柳沢君の気持ちを信用できない、と言ったも同然だったか。冷や汗をかきながら何か言おうとするも、葵ちゃんの勢いに負けてしまう。
「お兄が本当は奏海さんのことを好きじゃないって、そう思ってるんですか?」
「ご、ごめんね、葵ちゃんを怒らせるつもりは」
「奏海さん」
決して大声ではないのに、はっきりと力強いそれは私の体を跳ねさせる。
「……きつく言っちゃってすみません。でももうちょっと言わせてください」
彼女は、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「奏海さんがお兄のことを嫌いじゃないなら、ちゃんとお兄の気持ちを考えてほしいんです。勘違いのわけないです。お兄は、奏海さんのこと、好きですよ。なんで勘違いだと思ったのかわかりませんし、もしかしたらお兄の態度とかが原因なのかもしれないですけど、お兄の気持ちを否定しないでください」
偉そうなこと言ってすみません、と葵ちゃんはまた頭を下げる。
……本当に、彼のことが好きなんだな、と思った。大好きな兄の気持ちを否定するようなことを言われたら、そりゃあ怒りたくもなるだろう。そんな意図はなかったにしても、浅慮だった。
自分自身に内心でため息をつきながら、私も謝る。
「こっちこそ、ごめんね」
「いえ、いきなり来て図々しいこと言っちゃってるのは私ですから! だけど今日の会話、お兄に伝えさせてもらいますね!」
にこやかに告げられた言葉に、え、と固まってしまった。つ、伝える、んだ?
「これでアクション起こさないへたれだったら、今度こそすっぱり諦めます」
きりっとした顔で言う葵ちゃんは、もうてこでも動かなさそうだった。はは、と乾いた笑いが漏れる。……伝えられた彼は、どう思うだろうか。
葵ちゃんはぐいっとお茶を飲み干した。
「勉強のお邪魔しちゃってすみませんでした。私、そろそろ帰りますね」
「ううん、大丈夫だよ。またね、いつでも歓迎するから」
未来の妹なんて、家族も同然だし。
そう言えば、葵ちゃんは途端に真っ赤になった。さっきまでの威勢が嘘のようだ。可愛いなぁ、と自然と笑ってしまう。それを見て、葵ちゃんが「わ、やった!」とはしゃぎ声を上げた。……なんでそんな反応? というかこの反応、なんだかデジャブ……?
怪訝な顔をする私に、葵ちゃんははっとしたように口元を押さえた。
「いえ、なんでもないです! ……ふふふ、奏海さんの笑顔って可愛いですよね」
そう思っただけですよ、と葵ちゃんは嬉しそうに言う。
デジャブの正体に気づいて、思わずこっそりため息をついてしまった。そうだ、二ヶ月前の彼の反応とそっくりだったんだ。
もしかして。私が家族の前以外でちゃんと笑えないこと、葵ちゃんにもばれていたんだろうか。
……私、そんなに笑うの下手だったかなぁ。一応ちゃんと笑ってるつもりだったんだけど。葵ちゃんの察しがいいのかな。流石彼の妹、ということか。
むに、とついほっぺたをつまむ。もっと笑う練習をしておいたほうがいいのかもしれない。家族以外と親しくなるつもりはない、なんてもう言っていられないんだから。
玄関まで葵ちゃんを見送って、自分の部屋に戻る。
どんなことを言われたって、私が彼の気持ちを受け入れることはできない。彼はもっと素敵な人に恋をするべきだ。私みたいな奴を好きだと錯覚してしまったことなんて、さっさと忘れるべきだ。
だからどうか、彼が何も行動を起こしませんようにと。ただ、そう願うことしかできなかった。