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11 冷たい雨にぬれて

 もう最後かもしれない、なんて思ったのに、話す機会は予想外に早くやってきた。

 彼の告白を断った翌日のこと。昇降口から真っ暗な外を眺めて、私は立ち尽くしていた。ざあざあという激しい音と、校内から漏れる光や街灯によって照らされる、視界を埋め尽くす滝のような雨。

 ……こんな日に限って、どうして私は天気予報を見なかったのか。つまりは傘を忘れてしまって、とても困っているというわけだった。今日の朝、雲一つない晴天だからと油断した自分を恨みたい。

 せめて雪だったら、まだ傘を差さずに帰る気にもなれるのだが、三月に雪はそうそう期待できないし、さすがにこの雨の中を帰るなんて無謀なことをする気にはなれなかった。


 とはいっても、もう最終下校時刻が迫っている。見回りの先生がやってくる前に帰らなくては怒られてしまう……あ、先生に、というか職員室に傘を借りにいくのもいいかもしれないな。予備の傘があるかはわからないが、ダメ元で。

 そうと決めれば、と踵を返して。

 私はぴしり、と固まってしまった。


「あ」


 気まずそうな顔の、彼がそこにいた。

 ……わざわざ私がこんな時間まで残っていたのはなんのためだと。顔が引きつりそうになるのをなんとか我慢して、けれど笑いかけることもできなくてそっと視線を逸らす。

 まだ同じクラスだから、今日も顔くらいは見ていた。それでも、顔をちゃんと合わせたのはこれが今日初めてだ。不自然なくらいに、私たちはお互いを避けていた。もっとも、誰にもそんなことは指摘されなかったのだけれど。


 今日は昨日に続き午前授業で、本来ならお昼には帰れるはずだったのだ。

 それにもかかわらず私が最終下校時刻まで学校に残っていたのは、万が一にも彼と帰るタイミングが被らないようにするためだった。私が先に出て彼に抜かされるのも、彼が先に出て、もし友達とかと立ち止まって話していた場合に抜かすのも、どっちも気まずいと思ったから。教室内で顔を合わせないのは案外普通にできるが、そういうときに無視するのはさすがに申し訳ない。

 考えすぎかもしれなくても、万全を期して最終下校時刻まで自習室で勉強しておこう、と思ったのがあだとなった……のだろうか。


「……」

「……」


 沈黙が痛い。今日一日、お互いがお互いを避けていたのはよくわかっている。だからお互い、今どうするべきなのかわからないのだろう。

 しかし、いつまでもこうしてはいられない。職員室に行くためには彼の横を通らなくてはいけないので、じゃあね、くらいは言って何気ない顔で行こう。たぶん、それが一番いい。

 意を決して足を踏み出そうとしたとき、「あの、」とおそるおそる声をかけられた。


「……傘、ない?」


 彼の言葉とは思えないくらいにたどたどしかった。言葉に詰まった後、反射的にうなずいてしまって、しまった、と思う。これはもしかして、彼の傘に一緒に入る流れになってしまうんじゃ。

 ほんの少し身構えて、彼の続く言葉を待つ。


「…………」

「…………えっと、職員室に傘ないかなって、思ってた、ところで。だから、今から、行く、ね?」


 何も言わなそうだと判断して口を開いたが、たどたどしさは私もいい勝負だった。

 ゆっくりと歩き始めて、緊張しながら彼の横を通り抜ける。数歩分の距離が空いたところで、後ろから「奥村」と名前を呼ばれた。


「……俺の傘でっかいから、たぶん二人で入っても平気、だと思うんだけど」


 恐れていた事態が起きてしまった。

 どうしよう、と頭を回転させる。昨日までだったら、なんだかんだ言いつつも駅までならいいかと納得して一緒に帰っていたと思う。……だけど、今日は。でも、かといって断ってしまうのも。

 黙り込む私に、彼は慌てたように傘を差しだしてきた。


「ごめん! そうだよな! 俺走って帰るから、奥村これ使って!」

「え、いや、それは」


 そうだよな! っていったい何に納得したのか。

 手を振って断ろうとしても、ぐいっと更に傘を近づけられて、つい受け取ってしまった。


「それじゃ!」


 そのまま靴を履き替え、走り出そうとした彼に「待って!」と声をかける。

 ……このまま本当に私だけ傘を差して帰るのは、良心がとがめるというか、さすがに人としてやっちゃいけないというか。とにかく、それくらいなら一緒に帰って更に気まずい思いをしたほうがまだましだった。

 先に言い出したのは彼なのだから、断りはしないだろう。それでも念のため笑顔を浮かべて、嫌がっているわけではないという意思表示をしておく。引きつっているだろうが、笑わないよりはいいはずだ。


「一緒に帰ろう、柳沢君」

「……ありがとう」

「むしろ私がお礼を言うところだよ。傘、ありがとう」


 案外普通に話せている、気がする。

 私も靴を履き替えて、彼の隣に立つ。大きなビニール傘を広げたところで、ある問題に気づいた。私たちの身長差だと、どっちが差しても絶対どっちかがかなり濡れる。

 とりあえず昇降口を出る前に、腕を伸ばして私が傘を差してみた。……小雨だったらこれで十分だろうけど、この激しい雨の中だと私濡れちゃうなぁ。それに駅までこの腕をキープするのもきつい。


「あー、そっか。俺が持つな」


 すっと傘を私の手から奪った彼は、当然のように私のほうに傘を傾けて、というかほぼ私にしか差していない状態で歩き出そうとする。しかし私が歩き出さなかったので、不思議そうに立ち止まって振り返った。


「奥村?」

「……これだと、柳沢君びしょ濡れにならない?」

「いいよ、帰ってからシャワー浴びるし」

「でもこの傘、柳沢君のなのに……」

「……奥村が濡れちゃうのは俺が嫌なの。つっても、こんな大雨だと傘差してても濡れないのは無理だろうけどな」


 苦笑いする彼に、何も言えなくなってしまう。

 俺が嫌っていう言い方は……自意識過剰でなければ、私を好きだから、ということなのだろう。これで間違えていたら恥ずかしいが、確認する気にもなれなかった。

 わかった、とおとなしくうなずいて、今度こそ彼と一緒に歩き出す。昇降口から出た途端、重いバラバラとした雨音が傘に響いた。


「奥村は、こんな時間まで何してたの」

「自習室で勉強してた。柳沢君こそ、何してたの?」

「……部活の奴らとトランプしたり?」

「あれ、じゃあ他の子は?」

「先に帰った」

「一人で残ったの?」

「……うん、なんとなく」


 ぽつりぽつりと会話をする。ともすれば、雨音にかき消されそうな会話だった。

 いつものように話せているようで、けれど決していつものようではない。

 どこかから雷の音が聞こえた。びく、と反応してしまうと、彼の空気がふっと緩んだ気がした。隣を見てみれば案の定、なんだか微笑ましそうな顔をしている。彼は私の視線に気づき、慌ててそっぽを向いた。


「……なんでしょうか」

「いや、なんでもない」

「別に、雷怖いわけじゃないからね。いきなりおっきい音したのにびっくりしただけだよ」

「わかってるわかってる」


 そう言いながら、くくっと堪えるように笑う彼。……怖いわけじゃないって言ったのに。

 むっとしつつも、どこかで安心していることに気づいた。もしかしたらこのまま、前のように普通に話せるようになるのかもしれない。それだったら、親戚づきあいも楽だろうから――なんて。きっとそれも、言い訳なんだろうな、と思う。

 私のことを好きじゃなくなった彼と、それでも嫌われずに付き合っていけたらいいなと。そんな、都合のいいことを願っているだけだった。


「あー……やっぱ、好きだなぁ」


 けれど、隣から聞こえてきた声に、息が止まりそうになった。思わずこぼれてしまった、という感じだったその言葉が、胸の中にじわりと重く広がっていく。

 ぎこちなく「何、かな?」と尋ねれば、彼ははっとしたように「ごめん」と謝ってきた。


「……謝らなくて、いいよ」

「……聞こえてた?」

「たぶん」


 そっか、とばつの悪そうな顔をする。

 さっきのように笑ってもらうのは無理にしても、せめてもうちょっと普通の表情をしてほしくて、彼が何か続けようとしたのを少し強引に遮った。


「やっぱり柳沢君、そっち側びしょ濡れになっちゃったね。ごめん、もうちょっと近寄るよ」

「え、い、いいよ、このままで!」

「でも、」

「いいってば!」


 どこか必死な彼に、会話の選択を間違えたかな、と後悔する。確かに、気まずく思っている相手に近寄られるのは嫌だろう。彼がまた私に謝ってしまう前に、どうにか他に話題をひねり出さないと。

 しかし、口をつぐんだ私に何を思ったか、彼はまた謝罪の言葉を口にした。


「ごめん……俺さ、正直今の状況、めちゃくちゃ嬉しいんだよ」


 急にそんなことを言い出した彼に、「え?」と首をかしげる。……このとてつもなく気まずい状況が嬉しい? しかも彼はびしょ濡れなのに? ……なぜだろう。

 戸惑う私を見て、彼は困ったように笑った。


「だって、奥村と相合い傘だぜ?」

「……それが嬉しいの?」

「……やっぱ伝わんないかぁ」


 その声がなんだか泣きそうに聞こえて、ますますわからなくなる。

 小さく、彼の口が動いた。雨の音がなくても、きっと聞こえないくらいだった。そんなふうに言うということは、私に聞かれたくないということなのだろう。だから聞き返さずに、ただ前を向いた。……たぶん、彼のことだから悪口ではないと思うんだけど。何を言われたんだろうな。

 雨はまだ、強く傘をたたき続けている。


「……あのな、奥村」


 呼びかけられて、うん、と相槌を打つ。


「昨日今日じゃ、全然変わんなくてさ」

「……何が?」

「俺が、奥村を好きだって話」


 聞こえなかったふりをしたいが、残念なことにはっきりすぎるほど耳に届いてしまった。上手く相槌を打てなかった時点で、聞こえたことはばれている。


「……ごめん、八つ当たり」


 意味がわからなくて彼の顔を窺う。さっきの声のとおり、少しだけ、泣きそうだった。


「好きな奴と相合い傘とか、めっちゃ嬉しいじゃん? それで更に近づかれたら緊張と嬉しさでやばいんだよ」

「……そう、なんだ?」


 私もきっと、彼のことが好きだけど。……緊張はあっても、特に嬉しくはない。嬉しがる余裕がないくらいに気まずい、といったほうが正しいか。

 だからぴんとこなかったのだが、彼は私の反応を少し違う意味に捉えたらしい。


「だから奥村のそういう反応が、かなりくるんだよな……俺の気持ち、たぶん全然伝わってないんだろうなって」

「そういうわけじゃ」

「うん、ほんとに伝わってないなら、そんな顔してないよな」


 ……私は今、どんな顔をしているんだろうか。 


「……困らせたくないって思ってるんだけど。ごめん、我慢できなかった。今日一日奥村の顔見れなかっただけで、ほんっとつらかったし。だからって奥村本人に八つ当たりするとか……はああ、ごめんな」


 深くため息をつく彼に、「大丈夫」と首を横に振る。


「私のほうこそ、ごめん」

「……それも、かなり、くる」


 彼は力なく言う。

 ごめん、という言葉が、もしかして昨日のことを思い出させてしまった? ごめんね、の一言で彼を振ってしまったのだし……うん、考えなしだった。

 それを謝ろうにも、これ以上謝るのはもっと申し訳ない。

 雨に濡れた手で髪を耳にかけながら、視線をちょっとさまよわせる。上手い言葉が見つからないのを、雨のせいにしてしまいたかった。


「……こんなこと言うの、図々しいかもしんないけど」


 その声に、そっと視線を彼に戻す。


「俺が奥村を好きっていうのだけは、しばらく覚えててほしいなーって。……俺がちゃんと、吹っ切れるまで。それまででいいからさ」


 わかった、とうなずいてしまうのは簡単だった。簡単な、嘘のはずだった。

 でも――吹っ切れるまで、って。いつまで?

 せいぜい一ヶ月くらいならまだいい。だけどもしもっと続くようなら……それは、困ってしまう。だって彼が私を好きなのは錯覚だ。そんなものに、彼の時間や思考を長い間割いてもらうわけにはいかない。もう受験生になるのだから、余計に。

 小さく深呼吸をする。雨のにおいが鼻についた。


「……柳沢君」


 うん、と彼が何かを怖がるような顔で返事をした。

 もうそろそろ、駅が見えてくる。駅に着いたら、今度こそそのときが彼と話す最後かもしれない。だとしたら、言っておくべきだ。……言わなければ、いけないことだ。


「柳沢君の気持ちは、嬉しかったよ。昨日は言えなかったけど、好きになってくれてありがとう。本当に、すごく嬉しかった。でも」


 言葉を句切る。


「……早く、違う子を好きになったほうがいいと思うな」


 彼の顔は、見れなかった。返事もなかった。

 ただ、今までで一番、深く傷つけてしまったことはわかっていた。「柳沢君にはもっとお似合いな子がいるよ」と慰めるふりをして、更に傷をえぐる。

 駅前の横断歩道で足を止める。未だに土砂降りの中、信号の赤い光がぼんやりと見えていた。


 ……好きになってくれてありがとう、と、違う場面で言えたらよかったのに。好きになってくれてありがとう、私も好きです。そう言えたら、よかったのに。

 それはつまり、彼が私を好きになったきっかけが私の力ではないということだから、そんなことはありえないのだけど。


「……好きでいるのも、ダメってこと?」


 隣から聞こえてきた声に、「駄目ではないよ」と返事をする。


「駄目では、ないけど」


 あなたは嫌じゃないの? と続けたら、あの雪の日と同じになってしまう。そんな卑怯な問いは、もうできなかった。

 赤い光が、青に変わる。


「……私のことは、できれば早く忘れてほしいな」


 一歩足を出そうとして、彼が歩き始めないことに気づく。

 そのことに何か思うよりも前に、彼は傘の外に出ていた。腕を伸ばして私にだけ傘を差す彼の表情は、雨のせいでわからない。……雨のせいで、たとえ泣いていたってわからない。


「奥村に、迷惑はかけないから!」


 声を張り上げて、彼は言う。

 ……から? だから、なんだというんだろう。待ってみても、彼はただ私に差し出すだけだった。おそるおそるそれを受け取れば、「またな!」と走って行ってしまった。

 呆然と彼を見送って、信号が再び赤になってしまったことに気づく。

 ……またな、なんだ。そりゃあ、まだ終業式まで数日あるから、同じクラスだとどうしたって会ってしまうけど。


 傘をちゃんと差し直して、信号に目をやる。

 私は、私のことを早く忘れてほしいと言った。それに対して、彼は迷惑はかけないから、と言った。……ということは、迷惑はかけないから忘れない、と言いたかったんだろうか。これだけ傷つけられても、まだそんなことが言えるのか。


 息を吐く。

 彼のおかげで、私はそれほど濡れていないはずなのに。全身が雨に濡れて冷たくなっているような、そんな気がした。



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