亜芙蓉
屋敷の離れの書庫で、当主の次男が一人、詩作に耽っていた。
すると屋敷から、薄絹の衣を纏った女がひっそりと抜け出して行くのを見た。離れの小窓から見える女は、上等な生糸を綿密に織り上げた反物に、名人が濃く溶いた墨を奔らせた様な、端正な顔立ちをしていた。
――楊貴妃とは、まさしくこの様な女を言うのではないか
細く、仄明るい月に照らされた衣は艶めかしくはためいて、夜を誘う。
――あの肢体に触れる事ができたなら
衣から零れる香が漂ってくる気さえする。薄絹の下の白玉に触れたいと身は焦がれる。
――息絶え死せるとも、良い
真新しい竹簡に膠の文字が躍る。紐を組み通す事も忘れ、留まる事なく文字を綴る。女が何処の者か、何故屋敷にいたのか、何故屋敷から去るのか。問うに至らず、追う事すらできず。その残り香で心身を満たす事も、情欲を散らす事さえも忘れ、ただ文字を綴った。
上質な乳香の中に潜む不快感を伴う臭気に、王節は眉を潜める。微かながらも確かに存在を主張するそれは、王節の兄である王樂の居室から燻っていた。
「ああ、子蘭か」
王樂の纏う若草色の衣は紛れもなく女人のそれであり、顔には白粉がはたかれ、紅が引かれている。若い盛りは疾うに過ぎ、いくらか老齢の兆しが見えはじめた肌を覆い隠すために厚く濃く塗られた面は、王節の目にはひどく滑稽に映った。
「どうしたんだい、随分と面白くなさそうな顔をして」
「これは、亜芙蓉ですか」
王節は眉間に皺を寄せ、強い調子で兄に問う。
「いいや、違う。香を少し、新しい物に変えたのだ。好かない匂いかい」
問いに首を振って否定すると、酩酊した瞳を細め、微笑む。
「帝からお達しだ。臣として、行かねばなるまい」
「臣として赴くと言うのであれば、相応の様相がある筈です。何故」
「なぜ。お前はいつもそう聞くね。わかっているだろう、わからない筈もないだろう。良いか、お前には関係がない話だ。私は臣としての務めを果たしているだけなのだ」
外套を深く被れば、もはや誰一人としてその女が王樂だと思う事はないだろう。覚束ない足取りのまま屋敷の外へと足を引きずる。抱えた小袋から翡翠の煙管が覗いていた。
――王家は、この地に古くから根付く商人の家柄である。祖先が築きあげた莫大な財産や土地、皇族との関係は、今代に至っても確固たる物として存在している。皇族という大きな後ろ盾から高位に昇る血族も多く、先代にいたっては太傅まで昇り詰めた。先代が逝去し、新たな当主として選出された先代の長男も、その人柄から帝に寵愛され高位を賜っている。
その長男を、王樂、字を子蓮と言った。性格は温和で、丸みのある柔らかな声に加え、月が恥じて面を伏せる程と万人が賞賛する、豊頬の美男子であった。弱冠を過ぎ年若く美しい妻を娶ったが、子を成す間もなく戦が起こり、互いの国が分かたれたため、郷里を懐かしむ妻を不憫に想ってか、離縁し生家に帰した。それ以来妻を娶る事もなく、臣として、身を粉にし社稷を重んじ生を紡いでいる。
とは言えど、王樂自身に政や軍事の才はなく、ただ弁舌をもって帝を癒す事ばかりで、何の益になるとは声高に触れ回れぬ。家元の商事も直接に手を差す事はなく、次男である王節にすべてを任せきりにし、戦が終わったその後も、帝の傍に侍り後宮の女たちと同じくして閨に足を運ぶ。国を営む金の大半を担う商家の当主であるため、誰も表だっては口にしないが、今代の王家の者達は金と身で官位を賜ったと、真しやかに囁かれた。長女王叔、次男王節は、その様な火元のある囁きの舞う中、確かな才を元手に日々せわしなく手を動かしていた。
王樂の去った後、王節は腹底からせり上がり口から這い出んとする嫌悪感を圧し留めようと口を強く手で押さえながら、履物も履かず、帝の閨より一等遠くにある厠に向かおうと、庭へ足を降ろした。半ばまで来て、耐え切れず回廊の隅に立ち止まり、呻き声を上げる。戦を終え、様々な処理を終えた平穏そのものであるこの頃で、この時分、ふらふらと城内を出歩く者はいない。夜着で歩けば身震いをする寒さの中、ついに座り込む。露を忍ばせた庭の草が、冷えた石畳が、王節の足を深々と冷やした。
半刻と地に足をつけ呆けていると、王節の後方より人の気配がし、足を擦る音が近づいてくる。
「義兄上、義兄上ではありませんか」
王節の義兄弟である陳叡が、書簡を抱えて立っていた。王節は生気のない顔のまま振り返ったが、陳叡の姿を捉え、取り繕おうと首を振る。
「士徳ではないか。斯様な時間に、どうかしたのか」
「叡は急ぎの書簡を纏めるに、書庫へ出向いておりました。義兄上こそ、この様な場所でどうなさったのですか」
書簡を抱えなおすと、王節に視線を合わせるようにしゃがみこむ。
「室に籠り詩作に耽っていたのだが、思うところあって月を見に出た」
「それにしては、随分顔色が悪く見えます。王少府の事でしょう」
「回りくどく、物をはっきりと言わない気の優しい義弟を持つと気苦労がなくて良いな」
不躾ともいえる問答を、王節は笑って流す。陳叡は書簡を抱いたまま、王節の隣に座りこむと、王節と同じ様に月を見上げた。
陳叡、字を士徳と言う。年少の頃前宰相に認められ、小間使いとして従事し多くの法を学んだ。志学の年にもなると宰相直々の弟子として奉公し、先年没した宰相よりその地位を受け継ぎ、異例とも言える昇進を遂げた。人の心身を第一とする善政は民から厚い支持を得たが、古くから仕える臣は陳叡を拒み、排除しようと声を高くした。帝の計らいにより近頃ではその様な事もずいぶん少なくなったが、今なお陳叡を快く思わぬ臣は少なくない。
王節は、士官する前の陳叡を知っていた。前宰相に届ける香を見繕い、それを宰相の元まで運ぶのが小間使いの陳叡であったため、よく見かけ、他愛ない話などしていたのだ。陳叡は庶民の出にもかかわらず目が良く、商人ですら見分ける事が困難な不純物の多い紛い物の香を探し当て弾いた。ただの顔見知り、客の小間使いと商人という間柄が、士官が同時期であり、実績を伴わないにも関わらず与えられた位が高く、同僚となじめず孤立していたという共通項、様々な因果を経て、義兄弟と呼び合う深い関係に至っていた。
「長く外気に当ると、冷えますね。義兄上は、寒くありませんか」
「初めは不思議と寒さを感じなかったのだが、今は身に堪えている」
「では、屋内へと参りましょうか。ここからなら義兄上の室より、叡の室の方が近くあります。夜分も遅くなりますが、こちらで、少し休んでいかれてはいかがですか」
「そうだな、厄介になろう」
王家の者が城内に滞在している時に使用する居室群は、ある時より帝の閨のすぐ傍に位置する室を配当されている。目の前の離れが情事の場であるため、時折嬌声などが響く程で、色事を極端なまでに嫌う王節にとって、居室は心休まる場所ではなく、庶務がない日は書庫に入り浸る事の方が多くあった。陳叡はそれを承知しており、時折この武官らしからぬ潔癖な義兄を、比較的閨房から遠く、書庫に近い自身の居室に招いていた。
「世話人に命じて、茶を入れさせていた所です」
「悪いな。酒に付き合う事ができればよかったのだが」
「義兄上が下戸なのは承知していますが、叡もこうして一晩と起きている時は酒を飲みません」
「そういうものか」
「そういうものです。それに酒は、心を溶かすと共に考えも溶かします。こうして書を綴る時には向きません」
書庫から持ち帰った竹簡や書簡を文机に広げ、竹札に書き写す。膠を多く溶いた墨の、独特の匂いが部屋に漂う。本来、あまり好ましい匂いではないはずだが、今の王節にとってこの香りが、王樂の炊く乳香の匂いよりもよほど、心穏やかになる匂いだった。
王節は暫く、手の中で茶を飲み終り空になった茶器をもてあそんでいたが、手持無沙汰から卓に茶器を置き、壁一面に備え付けられた書棚から、特に陳叡に断りを入れる事もなく、幾らかの竹簡を抜き出し、床に寝そべり紐解き始めた。
花枝細草看山眠 花枝に成る草は山を看ながら眠る
桃葉香飛晩更硬 桃の葉の香りが飛び夜を更けさせ
忽覚故人藍尾酒 故い朋と語らった藍尾の酒をにわかに想わせる
湖波玉頬夢依然 湖の波に写る玉の様な頬 まだ夢の中にいるようだ
「遠からず、また戦があります」
陳叡は書を書く手を止め、静かに言った。
陳叡が示唆した戦が起こる気配もなく、一月が過ぎた。武人である王節が平時成す庶務は閻人のそれより僅かであるため、折を見て城下のはずれにある生家に戻っていた。
「兄上は帰られないのね」
「帝の応対の為、城にいらっしゃいます」
「そう。良かったと言うのは失礼ね。さあ節、帰ったのだからその長ったらしい服は脱いで、家の事を手伝ってちょうだいよ」
王樂の所存を聞き、王叔は複雑そうな顔で眉を寄せた。整った顔が緩み、簡素な服の袖が揺れる。
王叔、字を丁姫と言う。王樂の妹、王節の姉にあたる、王家の長女である。豪奢に着飾る事を嫌い、衣は色味が薄い物を纏い、髪は一つの飾りでまとめており、質素な出で立ちが王樂に劣らぬ美しい面をいっそう引き立てている。隣国の商家に嫁ぐが、戦で夫を亡くし、男児もおらず夫の弟が当主になったため、敵国の女である王叔は居場所を失い、娘の芳珠と共に王家に帰った。それ以来、普段報告を聞き指示を飛ばすだけで、実商は召使いにまかせきりの商いを総括する女主人の地位をせしめている。
姉に言われるままに朝服を脱ぎ、平服に着替えた王節が厨を覗くと、王叔は厨女と夕餉の支度をしていた。
「市に出掛けますが、何か入用の物はありますか」
「そんな、わたくしが参ります」
厨女があわてて袖を振ると、王叔はそれを笑って止める。
「いいのよ、行くって言っているのだから。大蒜がもうなくなるわ、二山お願い」
「大蒜ですね、わかりました。他には何かありますか」
「足りているから大丈夫よ。気を付けていってらっしゃい」
王節はそう聞き頷くと、軽く拱手し、戸口へ消える。再び、厨に女ばかりの華やかな色が戻った。
城下に出れば、夕餉の支度に奔走する他家の召使いや、同じように暇を持て余す平服姿の官吏とすれ違う。王節も、士官する以前は家を継いだ兄の補佐をするために市場を見て回ったが、士官し部下を束ねる立場になってからは来ることもなくなっていた。懐かしい喧騒と雑多な食物の匂いの混ざる中、目当ての大蒜を探し彷徨う。実のところ、大蒜より何より、怪しげな露天商が売る無名の詩家の詩集や他国で流行りの干菓子などを見繕う事を主とする、極々私用の買い回りで、城に来る商人の扱う品とは一味と違う品揃えに、王節の顔もほころぶ。
――もう少し大きな物入れを持つべきだったか。流石に一年と歩かねば、何もかもが変わってしまう。
道の脇の岩に腰掛け、ようやく手にした平穏を噛みしめる。前の戦が終わってから、三月が経つ。王節が士官した直後、王節自身驚くような勢いで武功を立てた戦よりはいくらか小規模だったが、それでも一つ年をまたぐ。一年と言えば長く聞こえるが、膨大な広さを持つ大陸で行われる、国同士の戦。一年で終わる戦の方が珍しいほどであった。
はちきれんばかりの物入れから干し棗の包みを取出し、開けると一粒口に含む。思えば、昨晩まで詩を読み耽る事もままならなかったのだ。戦が終わり、国に帰ったからといってすぐ安穏と過ごせると言った事は有り得ず、字の書ける者は皆、武人であっても容赦なく事後処理に駆り出される。その様な中で、何も申し付けられず毎夜とは言わずとも帝の元に出向き、朝方帰り昼ごろまで寝ている兄を想うと、王節は喉の奥に苦い物が込み上げる心持になった。王節の位が上がると、兄の位も上がった。しかしその兄は、ただ女の真似事をしているだけで、筆さえ持たぬ。自身が戦場で満足に寝る事さえままならないとしても、兄は。
脳裏をまとまらない考えが占領しはじめ、頭痛が悪化した頃、初めに出し忘れていた干し棗の種を噛みくだき、仄かな苦みを感じ我に返る。何気なくと座った場所は安い妓楼の目の前であり、店先で客を待つ老婆が怪訝そうな顔で、妓楼に入るでもなく妓楼の前に座り込み、菓子を頬張るだけの男を見つめていた。とんだ場所に座ってしまったと急ぎ腰を上げると、心地よい声が耳に入ってきた。
花枝細草看山眠 桃葉香飛晩更硬
王節が陳叡の部屋を訪れた際に開いた、無名詞。聞き覚えのある内容に思わず妓楼に惹かれ、店の入り口にいた客引き婆に詰め寄る。
「あの声はここの者ですか」
「物好きなお人だね。どん亀、客だよ」
「違う、ただここの者かと訪ねただけで」
有無を言わさず背中を押され、階上の奥の部屋に押し込められた。王節が右往左往している内に、酒の入った甕と料理が運ばれてくる。王節が一言言おうと口を開ける前に、給仕はいそいそと姿を消した。取り残された王節は、何か言おうとして開けた口から深いため息を吐き、肩を落とす。よりによって、自身が一番苦手とする部類の店に半ば無理やり入れられたのだ。迂闊だったとはいえ、まさかこんな事になろうとは、当の本人も予想だにしていなかった。女が来る前に客引き婆の所まで行き、金を払い早々に逃げ帰る事も考えるが、心の底にある一分の好奇心が、王節をその場にとどめていた。今まで聞いたどんな声よりも、心地よく、耳が解されていく声。あの詞を吟じていた女とは、どんな者か。戸を叩く音がし、王節は期待のままに戸口を見やる。
「漣でございます」
女を見た王節は、その体制のまま静止した。目を見張るほどの、醜女だった。ともすれば、給仕の方がいくらも美しい。元より女の顔など似た物と、優劣を気にした事もない王節が目を見張る程の、醜女である。浅黒い肌に、縮れた赤毛。目は魚の様にぎょろつき、肉はついておらず、胸元の空きの広い衣のせいで、余分と貧相な体に見えた。
「こ、これより一刻半、よろ、しくおねがい、いいたします」
態度も落ち着きがない。よほど慣れていないのか、甕を持つ手はこれ以上ない程震えていた。なんとか王節に杯を持たせようと、ちらちらと杯と王節の顔を醜女の視線が行き来する。
「私は酒を飲まぬ」
「へえ」
「だから甕を降ろせ。料理も食わぬ。避けておけ」
「で、でもお」
おずおずと甕を抱え込む。王節はこの楼閣に入ってから二度目の深いため息を吐くと、料理の乗った卓を室の隅に避け、女の手から甕を奪い、それも料理と共に隅に据える。
「食わぬ、飲まぬと言っているだろう。そうして、妙に怯えて縮こまるのを控えろ」
「は、はい、では、りょおりもお酒も、お飲みにならないのです、ね、ね」
怯えた顔のまま、立ち上がり衣の腰ひもに手をかける。王節はまた、今度は威嚇するように睨むと、女の腕をつかみ、そのまま下に引き座らせた。
「私は、色も好かん。何も言わぬ内から動かずとも良い。ただ二、三問いに答えよ」
「へえ、は、い。でも、どうして、旦那様」
「問いに答える以外口を開くな」
「ひ、は、はい」
苛立ちを隠す事も忘れ、怯える醜女に向き直る。
「今しがた、花枝細草の詩を吟じていたのは、お前か」
「はい」
室に来て初めに発した声を聞いて、間違いないと確信はしたものの、どうにも信じがたく感じていた王節だが、疑いようのない答えに頭を抱える。
「あの詞を、どこで見たか覚えているか」
「わた、くしがつく、作りました」
王節の目の色が変わる。
「お前が、まさか、そんな。偽りを申すでない」
「いいえ、わた、わたくしが作りました」
未だ、すべてを信じ切れずにいる客の様子を見てか、女はますます萎縮する。王節は唸り、はっとして女を見据えたかと思うと、今までとは少し違う様子で問いかける。
「即興で、何か詞を作れるか」
「はあ、いま、いますぐに、ですか」
「そうだ。題は、鳥で良かろう」
王節の態度がいくらか変わった事を察知してか、一時様子をうかがっていた女だが、やがてたどたどしくも明瞭に、詞を口にし始めた。
春衫雪汁妍酒成 春に纏う衣は雪溶け水を美酒にした
迎我雲端亦偶然 また偶然にも雲の端は私を迎え
林鳥翠微三弄笛 林の鳥はうす緑の笛を三度吹く
浮香春日枕書眠 ふいに春の香る日、書を枕に眠っていた
巧拙を問えば、見栄えはすれど稚拙な部類の詞、けれど、どこか妙なひっかかりを覚える。その突起に魅了され、もうひとたび耳にしたいと欲が沸く。花枝の詞と、感ずる所は同じ。王節は強く頷き、女の手をとった。
「疑って、すまなかった。良い詩だ」
「いいえ、いい、いいえ、そんな、いえ」
「名をなんと言う。お前は、この後もここにいるのか」
女の頬は紅潮し、王節の眼差しから目をそらそうと目を泳がせる。
「れ、漣です。漣に他に、行くところな、など、ございま、ません。ですから」
「そうか。いつになるかわからぬが、また来よう。それまでにいくらか新しい詩を、作っておいてはくれぬか」
「……はい」
王節は楼に来て初めて口を緩ませると、機嫌良く楼閣を後にした。女は幾度か王節に掴まれた方の手にふれ、頬を寄せるなどしていた。王節が生家に足を踏み入れる頃には、すっかり日が傾き、厨に帰れば既に夕餉の良い匂いが漂っていた。
「遅かったわね。随分嬉しそうなご帰陣、至極結構でございます。大蒜、結局あの子に買いに行かせたんだから」
腕組み呆れ返る王叔の前で、王節の物入れの中の大蒜は、所在なさげに縮こまっていた。
それから王節は、頻繁に妓楼に足を運んだ。漣と名乗った妓女は、徐々に王節に心を開き、いくらか落ちついて話すようになった。ただ、吃音は生来の物であるため、治るものではなかったが、それも王節にとって些細な事であり、愚直なまでに純朴で、心根の優しい所を、好ましく思っていた。
「胡弓をやってみてはどうか」
「こ、胡弓、で、すか」
この日、王節は初めて漣に物を贈った。詞家は、自作の詩を胡弓や瑟の演奏に合わせて吟じる事も多く、自らが演奏者である事も多くあった。
胡弓は、美しい音を出す事がまず困難で、安定した音色を奏でられるようになるまで、五年かかると言われていた。音階ごとに割り振られた字が変わり、楽譜を読む事さえ、慣れるまで膨大な時がかかる。瑟を弾ける詞家は多くいたが、胡弓を美しく奏でられる詞家は、僅かであると言われていた。
「お前は何かと覚えが早い。やってみる価値はあるだろう」
「将軍様が、おっしゃ、おっしゃるなら………」
王節が城に帰り、顔を出す事が減っても、日夜修練を重ね、また詞も多く作った。会うたびに驚かされる楽しみと、自分が見出したという仄かな悦。愛着は愛情に変わり、いつしか王節は、漣にのめり込んで行った。
かつて水を弾いた白磁器は、霞み、触れれば粉が舞うほど厚く白粉がはたかれていた。小鹿の様だった足は撓み、白魚の指先は小さな亀裂が幾数本と走る。墨で染めた絹糸を束ねた髪は、次第に艶を失い、白糸が覗いていた。
王樂が帝の玉体に寄せられたのは、妻とした女を郷里に帰したその翌晩であった。とても妻まで娶った男の物とは思えない、まるで漸く少女の殻を破ったばかりの様な風貌の王樂を、帝は一目気に入った。
「妻を廃し、朕の手中の物となれば、お前に司徒の、弟に司空の座をやろう」
今のままでも何ら不自由はない地位。しかし、司徒となれば今以上の声望と羨望を得られる。王樂も一人の男だった。自らに才がないことは十分に承知し、相応の身分で安穏と生きながらう事を決め、見込みのない野心を飲み心底に埋め見ぬふりをしていた、一人の男だった。
司徒。己の才では、到底手の届かぬ高位。自らより優れた弟であっても、手が届かない高嶺である。王家の商人としてではなく個としての史を持つことができる、またとない機会に、王樂の心音が止まった。男が男を抱くという事は、なんら珍しいことではなかった。先帝にも二人、後宮の女達よりよほど麗しい男妾が居た。身一つ、それだけで史家の筆が自身の名を綴る。
「どうか盟を、違えませぬように」
王樂は微笑むと、花びら一片程に薄く小さな唇をいっそう細めた。
はたして、溺れたのは帝ではなく王樂の方であった。一族の長として、子を成す為に義務的に行う情事と似通うところは一つとしてなく、ただ喜びを求めるためだけに指を絡める。一族の者へ対する仁愛はあれど、他者へ対する熱情を抱いたことのない王樂は、その陽と陽とを交える享楽にたちまち魅了された。帝の玉体に触れ、天子の指先が己が肌を這う度に、喉の奥から悦びが溢れる。戯れに女人の衣を纏ってみれば、美しいと褒めそやされ、玉帯や簪を賜った。王家の人間ではなく、ただの個として、特等の宝物の如く扱われる天運を与えられたと、血温に飢える胸を温め、腐らせていった。
翡翠の煙管から亜芙蓉を飲む王樂の白い頬に手をかけ、帝はつまらなそうに笑った。
「朕は、亜芙蓉を飲む男を嫌う」
「そうでございますか」
「お前もその一人だな」
王樂は煙管から口を離すと、頬を撫でる帝の手を自らの手で包み、頬を摺り寄せ胸元に寄せる。
「いいえ、違います」
「何が違うと言うのだ」
「徽は、女でございます」
「女か」
「はい。わが君の、女です」
不意に、帝は王樂の手からすり抜け、夜着の裾を引きずったまま、寝所の入口まで行き、戸に手をかける。
「お前も、私も。年をとったな」
冷めた様に笑うと、王樂に退室を促した。狼狽えその場で言葉にならない言葉を垂れ流し続ける王樂にしびれをきらし、曲者をつまみ出すと同じく外に控える侍従を呼び、嫌がる王樂の両脇を固めさせ、無理やりに外に放りだす。
「なんと醜い男か」
帝は、寝台の傍にひっそりと控えていた内官に、後宮で一番若い女を連れよと申し付け、一人異様に広い寝台に寝ころび、鼻奥で笑った。
生家から城に戻れば、居室中に亜芙蓉の香りが沁みついていた。香で包み隠せぬほどの芳香。奥の室から弱々しい呻き声がした。王節は声のする方、奥の間まで足を進める。口を開けば咳き込むほど、靄がかかって見えるほどの濃い香の煙に胸を悪くしながら、室の中央でぐったりと横たわる兄を見つけ、駆け寄り抱き起す。
「兄上、聞こえますか、兄上! 今医官をお呼びします、どうかお気を確かに、誰かおらぬか――」
「子蘭、か」
意識がある事を確認し、胸を撫で下ろす。奥の間、兄の居室の寝台には、盆の上に煙管と練香が積み上げられている。床には裂かれた衣が、床に叩きつけられたのか割れた髪飾りや紅入れなどが散乱している。
「何が、何があったのですか兄上」
数日、顔を合せなかっただけの事。数月と顔を合わせていなかったかと見紛うばかりの兄の変容ぶりに、王節は困惑した。次いで、賊でも入ったかと思える室の状況。憶測が王節の内を駆け巡り、不安を掻き立てる。
「――…………」
王樂の口が動き、開ききらず薄目を開けた状態の瞼の端から、ほろりと滴が零れる。口の動きから、王節は王樂が言わんとする事を理解した。また、この惨状の理由も、何故兄がこうなったかも、理解した。
「どうなさいましたか」
「医官を呼べ、亜芙蓉の吸いすぎだ」
呼びかけに応じた門兵が居室入口に立ち止まり声を張り上げる。門兵も、この室の異臭に思わず口を覆った。王節の指示から異臭の根源を把握し、医官の元へ走る。亜芙蓉の多量摂取による中毒者はそう珍しいものでもなかった。
わが君に、お会いしたい。王樂が発した一言は、王節の心根に冷や水を掛けた。よくよく見れば、床を染めている衣はすべて女人装の時の衣であり、髪飾りも紅入れも、兄が夜分帝の元へ赴く時に身に着けていた物しか無い。薄々感づいていた不和。思っていたより少しばかり早くはあるが、わかりきっていた結末。王節は苦しそうに胸を上下させる兄を見て、おもしろい見世物を見せられている様な心持になった。落しきらずまばらに肌にまとわりついた白粉が、兄の加齢を誇張している。不自然に着崩れた豪奢な衣から除く浮いた肋、ひどく、ひどく滑稽だった。
亜芙蓉は、偽りの幸を生ず。亜芙蓉を練り込んだ片を蒸した煙を嚥下すれば、この世では得られがたい幸福感と悦楽を手にした。多くの貴族が、官吏が、皇帝が亜芙蓉を愛し、称えた。しかし、亜芙蓉が一度切れれば、この世で得る筈もない痛みと、失望を得た。飲むごとに、悦を得られるために要する片は増え、浸っていられる時間は短くなってゆく。亜芙蓉は、心身を蝕む毒でもあった。長く付き合ううちに、頬はこけ、肋は浮き、目からは生気が消えうせる。その後は、死する他ない。
王樂が舐ったのは、そういう物であった。
「王将軍、よろしいでしょうか」
「医官を連れてきたか」
「いえ、急ぎ、お伝えしたい事がございます。城下の本家へお戻りになられていると聞きお尋ねしたのですが、いらっしゃらずこちらにお伺いしました」
「御託は良い。要件を述べよ」
「はい、今朝がた、陳宰相が血を吐き、倒れられました。心労と過労から来る病だそうですが、今は意識が戻り、安静にしておられます」
一時、呼吸を忘れ茫然とするが、意識が戻っているという事実に、ほうと息を吐いた。
「無事であるなら良い。所用済ませ、後ほど伺う」
「はっ、そうお伝えします」
力強く拱手すると、小走りに報告へ行った。その背を見ながら、王節はよくもこう一度に幾つも事が起きる事があるものだと頭を抱える。深刻さから言えば陳叡の様子を見に行きたいと言うのが本当のところたが、兄を医官に見せ、平癒とするまではここを動く訳にもいかず、医官の一早い到着を祈った。
医官は着くなり、慣れた手つきで触診すると、いくらかの薬包を渡し足早に去っていく。王節は王樂の口に医官に命じられた薬を流し込み、世話人を手配すると、一目散に陳叡の居室へ向かう。長い回廊を走り抜け、息を切らせながらたどり着くと、牀に低い卓を持ち込み、平然と筆を動かす陳叡の姿があった。
「義兄上。そんなに慌てて、どうなさったのですか」
「お前が血を吐き倒れたと聞き駆け付けたのだが、ああ、また、お前こんな時にまで」
「手を動かさねば落ち着かぬのです。大事ありません。叡が吐き出したのは血の塊で、塊として出る内は死ぬ事はありません。安静にしていれば病は遠のきます。」
「ならば、その卓を退け一刻も早く体を休めろ。お前を欠いては、国が回らん」
国が、と聞き陳叡は寂寥を浮かべる。
「そうですね。しかし、今描いている文物は、無くして国が回らぬ、大事の物なのです」
「私が肩代わりする事は不可能か」
「そうであれば、とうに部下に任せています。……義兄上、これを終えれば後は暫く休みます故、何卒手を離していただけませんか」
筆を進めるのを止めようと、手首をつかんだままになっており、そう言われて王節は不満げに手を離した。
「終わり、お前が寝入るまで見届けよう」
「そうですか、それは心強いです。では、どうせなら、茶のひとつでも入れてくださいよ」
「義兄をこき使うか」
「特別好いていない者がいる所では、落ち着くに落ち着けないため、世話役を置いていないのです。まさか義兄上、病人にもてなしを求めますか」
薄らと冷や汗が引かないままの顔色の悪さは、確かに病である事を表している。にもかかわらず、何時もと変わらず回る口に、王節は苦笑する。同時に、これだけ口が回るならと、安堵もする。立ち上がると、茶を入れるため、居所に備え付けてある小さな厨にも満たない炉の前に腰掛けて、湯を沸かし始めた。洗い場に伏せてある茶器一式を卓に並べ、湯が沸くのを待つ。湯が沸けば、うろ覚えの手順でのろのろと茶を作る。
「さあ、飲め。味の保障はせん」
「味はさほど気にしません。気持ち、味がつけば良いのです。白湯はあまり好みませんので」
「そうか。なら良いが」
陳叡は、普通の物より少し大ぶりな茶器に入った舌を焼きそうなほど熱い茶を、一度に飲み干す。ああ、と地の底から響くような声を上げると、茶器を王節の前に差出し、次を注げと催促する。
「お前なあ」
「何か問題がありますか。さあ、終わりましたよ」
止めの点を打ち、筆を置く。軽くのびをすると、竹簡一式を置いた卓を王節に押し付ける。
「ここを出る時でかまいませんので、顕大将軍に渡してください」
「顕殿にか。わかった。今すぐにでなくて良いのだな」
「はい、急ぎではありますが、本日中で良い物ですので。それにまだ、墨が渇いていません。義兄上、茶をもう一杯注いでください」
王節は、先ほどから目の前に差し出されている茶器を受け取ると、残りの茶を全て注ぐ。今度は一度に飲み干さず、少量を啜った。その後、何を話すでもなく、暫く沈黙が続く。茶を啜る音だけが穏やかな時を奏でていたが、陳叡はどこか思い悩み言い淀んでいる。
「どうしたのか、と聞いてくれないのですか」
「なんだ、突然に、しおらしいな。どうかしたのか」
「はい、どうかしました。以前、近く戦があるとお伝えしましたよね」
王節の手が止まる。陳叡は俯くと、茶器を降ろし王節を見やる。
「隣国に放った斥候が二人、殺されました。帰った者はすべて、隣国が水面下で戦の準備をしていると言います」
手に力がこめられ、眼が霞んでいた。
「また、義兄上に会えぬ日々を紡がねばなりません。義兄上がいなくなってしまうかもしれないと、眠れぬ日々を、紡がねばなりません。義兄上がいなければ、師がいない今、叡は独りになってしまいます。」
幼子が、母との惜別を嘆くように泣きじゃくる。王節はどうすれば良いかわからず、押し黙り、ただ陳叡が涙を零すのを眺めていた。
「国を支えるべき宰相が、分別の効かぬ子供と変わらぬ我儘を言っているのです。情けなくもなります。しかし叡は、叡は、義兄上と離れとうございません。けれど、戦が始まれば、義兄上は帝の拝命を賜り、戦場へ向かわれます。武人であるかぎり、避けられぬのです。それでも、叡は義兄上に、戦に行ってほしくありません」
自分ばかりが出来の良い義弟に支えられていると思っていた王節は、弱々しく胸の内を吐き出す陳叡の姿に、愛しさと、なんともいえぬ息苦しさを感じた。
「士徳」
義弟の項垂れる頭に掌をのせ、二度三度となでつける。袖で涙をぬぐってやれば、余計に溢れ出す。もう齢は二十を越し、体も疾うに大人になっていると言うのに、王節の目に映る陳叡は、出会ったばかりの頃、まだ幼さの抜けない少年の面影を携えていた。
室を訪ねた当初行っていた通り、陳叡が寝入るのを見届けると、王節は床に広げた竹簡を手に、顕嶺の居室に向かう。顕嶺は、先主が帝位を継いだ時より国に仕える、老将であった。
「顕将軍はいらっしゃるか」
「はい、おられます。如何用で御座いましょうか」
「宰相から言伝を預かってきた。直接にお会いし、可否を伺いたい」
「わかりました。お呼びしますので、少々お待ちください」
暫くして、平服姿の顕嶺が姿を見せる。王節は深く頭をさげ、頭上より高く拱手して見せると、脇に抱えていた竹簡を差し出す。
「宰相からです」
「うむ。今朝がた倒れられたと聞いていたが、流石の事。内密な話になる。中に入れ」
顕嶺に促され、内に入ると顕嶺は世話人を外に出し、欄窓には布をかけ、薄暗くなった室内で灯を灯す。
「座れ。お前の事だから、宰相から何か聞いているだろう」
「何かと言う程ではありませんが、戦が近いという事は聞いております」
「そうだ。隣国との戦が近い。それで、この書には武具と防具、馬の調達について。それに、調練の日程について書いてある。」
中身を広げる事なく言い切り、言い切った後で竹簡を紐解く。ぱたぱたと音をたてて広がる竹簡には、確かに寸分たがわない内容が記してある。
「察してくれるか」
「言われずとも、王家、王家に連なる商人は、国のため帝の為、惜しむことなく財貨を差し出します。明日には調達をはじめるよう、今晩中に触れを出せる事でしょう」
「すまない。以前の戦の分を取り戻していないだろうに。この戦が終われば、残るは小国のみ。王家の恩に報いられる時が、くるだろう」
「恩を返す、返さないなどとは言いません。国に身を捧げるは、臣として当然の事。どうか頭をお上げください」
顕嶺は重々しく頷くと、王節に返信を書いた絹布を渡す。
「確かにお受け取りいたしました。宰相にお渡しします」
再び拱手し、顕嶺の居室を後にした。
当主の肩書きを負う兄から、ただ一言好しという了承をとろうと王節が居室に戻ると、牀に兄の姿はなく、まだ編まれていない竹簡の一辺に、生家に行き芳珠を迎えると書きつけてあった。あまりに突拍子のない文字列に首をかしげたが、生家に行くという事が判明し、馬を駆り生家への道を急いだ。馬で一刻、徒歩では二刻かそれ以上。あの様子で馬に乗れるはずもなく、歩いたとしても牛歩だろうと、さほど急ぐでもなく馬を走らせる。
家につけば、異様な光景が広がっていた。閉められた戸を精一杯に開こうと四苦八苦する兄の背が見える。王節が呼びかけても返答はなく、ただ口の中で独り言を繰り返している。
「兄上、いったい何を」
「子蘭、そこにいるの」
屋内から王叔の声が響く。王節が返事をすると、王叔は兄を戸から剥がせと叫ぶ。状況を飲み込めないままに兄の肩に手をかけると、口の中で木霊していた言葉が、外に漏れだした。
「芳珠を、帝に献じよう、私ではお慰めできないのだ、芳珠なら年頃だ、美しく、若い。王家がこの国でいきるためには、誰かが帝と繋がりを持たねば、芳珠、芳珠が良い。芳珠を帝に献じよう。私はもう用済みだ、芳珠が良い。芳珠を帝に献じよう。芳珠なら美しい、後宮の糠の様な下劣な女たちに帝の玉体を触れさせるくらいなら、芳珠が良い。芳珠を帝に献じよう。芳珠、芳珠出ておいで。はずかしがらないで、伯父さんが芳珠にきれいな衣をあげよう。帝から賜った美しい髪飾りもやろう、芳珠が良い、丁姫、いるのだろう、芳珠を呼んでくれ、芳珠を帝の正妻にしてもらおう。大丈夫、この私が帝に頼めば、今の妻など廃して芳珠が、王家の女が皇后になるのだ。帝にお近づきになれるのだ。芳珠、嬉しいだろう。芳珠、芳珠が良い、芳珠、芳珠帝、帝、わが君、わが君に私を合わせてくれ、私を、私をわが君に」
非力な兄では、つっかえのされた戸を一人で開ける事はできない。裏口に回る事さえ思い浮かばないのだろう。王節は譫言を繰り返す兄を見て、恐ろしい気持ちや寒気よりも、哀れだと思う気持ちが勝つ事に気が付く。戸を引こうとする兄の手をとり、首を振る。
「兄上、帰りましょうか」
「子蘭、そうか、お前でも良い。お前はまだ若い。器量も悪くない。そうだ、私が髪や髭を整えて、白粉をぬってやろう。私と同じ、母上とよく似ているのだから、帝はきっとお前を気に入られる。そうだ、芳珠も一人では不安だろう、お前が芳珠と共に帝を」
王節は王樂の腹に、十分に加減して拳をいれる。怯んだ王樂のこめかみを軽く小突くと、体は力を失う。
「姉上、兄上を城に連れて帰ります」
中からすすり泣く声が聞こえてくる。王節は何も言わず、意識のない兄を馬に乗せ、落ちぬよう腰ひもを一本解き、兄の胴体を鞍にくくりつける。馬の腹を蹴り、城への帰路を急いだ。
「兄上、お忘れですか。節も、兄上と五歳と変わらぬのですよ」
意識のない王樂が答えるはずもない。王節の瞼の裏に、ふとあの夜見た天女の様な兄の姿が浮かぶ。あれからもう、幾年絶つか。思えば、兄を心底嫌っていながら、どこかであの日の事が忘れられず、兄であって兄ではない、あの夜屋敷から抜け出していった女に恋い焦がれていたのだと、王節はようやく、気が付いた。
まもなく、祭事もままならぬ日々が来るだろう。そう予見して、ふとあの妓女の事が脳裏に浮かんだ。生家にいる間は毎日と足を運んだが、暫く顔を出せそうにもない。戦に行くまでに一度でも、漣の顔を見に行きたいと、王節の心の隅がじわりと疼いた。
戦が、すぐそこまで迫っていた。徴兵からはじまる不穏な空気に民は怯え、城内も緊張ばかりがはりつめて、武官は皆、兵卒の調練に回された。王節もまた、兵たちの調練を行っている。兵たちは皆、王節が士官した年よりも若く、使い物になるかどうか、見当がつかなかった。秀でた者がいないでもないが、それでも今から調練していたのでは半端な所で駆りだされ、下手な自信から無謀を働き、すぐさま斬られてしまう事が明白だった。
「顕将軍、隣国が出立したという噂は本当ですか」
「いや、まだのようだ。しかし向こうが出ないからと、手をこまねいて待つ訳にもいくまい。数日中には出立となるだろう」
顕嶺を筆頭とした、王節を含む数名の将は、それぞれ数千の兵を与えられ、国境での迎撃を命じられていた。国境までは遠く、糧秣も相当量を必要とする。しかしそこを守りきれば、隣国を攻め滅ぼすとはいかずとも、国を守る事はできる、要の地だった。
「前の戦より、長引くだろう。今の間に、言葉を交わしたい者がいれば、会っておく方が良い」
「そうですね。顕将軍は、どなたかいらっしゃるのですか」
「息子はまだ私が若い頃、戦の中で流れ矢にあたり死んだ。妻は前の戦の最中、儂が帰らぬうちに死んだ。もう、兵たち以外に顔を合わせたいと願う者もおらんよ」
落莫の過去を話す老将の顔は、不思議と穏やかであった。
顕嶺に背中を押され、王節は生家に出向き姉と姪に贈り物をし、暫し語らった。その後城下に寄り、上等の筆を数本と、肌理の細かな木簡を数冊、珍しい菓子、櫛、衣、思いつくかぎり物を買い、かの妓楼を訪れる。客引き婆には先に普段より多くの金子を払い、漣を呼ばせた。料理と酒ははじめから断り、胡弓のみ用いらせた。
「久しいな。息災であったか」
「は、はい、漣は毎日、日の、あるうちは、うちははた、はたらき、日が落ち、れれば詩を、詩を吟じ」
「胡弓はどうだ」
「いい、いいえ、まだ、うまくは」
王節が一を教えると、漣は五を編み出した。器量の悪さと吃音ばかりが目立ち、何もできない愚鈍の様に扱われていた漣が、胡弓を弾かせれば楼の誰よりも美しい音色を奏でる。客は相変わらず王節一人だが、主人の憐れみから店に置かれていただけのどん亀、漣の目覚ましい成長に、客引き婆も、他の妓女も、誰も漣をどん亀と呼ぶことはなくなっていた。
「そうだ、市で珍しい菓子を買ったのだ。ひとつ、食べてみよう。酸いものは嫌いか」
「す、す好きです」
「良い筆や、書き味の良い木簡も見つけた。翡翠の櫛も、金糸を縫い込んだ衣もある。すべて、漣に贈ろうと思い城下を買い歩いたのだ」
物入れから次々に物を取だし、漣の前に並べて見せる。普段であれば、菓子と新しい竹簡や木簡で終わる所を、高価な品物が次々に差し出され、漣は目を白黒させ、不安そうに王節を見つめた。
「要らない物は、持ち帰ろう。全部でも良い、好きな物を選べ」
「し、し子蘭、様」
「なんだ」
「こん、急に、こん、こんなに、たくさん。漣は、子蘭様におか、お、お返しするも、のが、ございません」
いたたまれなさから縮こまる漣の様子に、王節は笑みを零す。贈り物の中の一つの櫛を手にすると、漣の手をつかみ、握らせる。
「そう、恐縮せずとも良い。私が悪かった。突然こんなに物を渡す物で、驚いたろう」
「し、い、いいえ、子蘭さ、まは何も、悪くなど、な、わた、しがただ、も、もう、しわけなく、なりま、す」
「ふむ、では、漣は私に、礼をしようと思うのか」
「で、でき、できることならしたく、おも、います。しかし、わたし、わたしでは、何も」
「何も、などという事はあるまい。私が何を望むか、当ててみよ」
王節が漣に要求する事は、決まって一つ、初めてこの妓楼を訪れた時から変わらずただの、一つしかない。
「……詞、です、か」
漣がそう口にすると、王節は静かに頷く。
「そうだな、題は別れにしよう」
題を聞き、漣は王節が何を言おうとしているか、察してしまった。別れとは何を指すのか、誰と、誰の別れになるのか。
少し間を置いて、漣の唇が動き出した。
花枝桃葉景依然 花の枝に桃の葉、景色は昔のまま
雲淡垂楊未肯眠 雲が淡い色になり楊を揺らしてもまだ眠りはしない
微雨晩風軽舞蝶 小雨が降ろうと夕暮れの風が吹こうと蝶は軽やかに舞う
流鶯帰雁一帆懸 枝を巡る鶯帰ってゆく雁一つの船が帆をかけた
王節は何も言わずにただ頷くばかりで、漣も何も言えずにいた。
「噂で、聞いているかもしれないが、近く戦がある。私は、ここから遠く離れた場所の守備に回らねばならん。いつこの地に帰る事ができるかも、分からぬ」
二人は身動き一つせず、ただ静かに俯いているだけだった。ただ互いに互いが愛おしく、離れがたいという感情を圧し留め、行かねばならぬ人の、送らねばならぬ人の喉元を閉めてしまうことのないよう、押し黙って、心を殺していた。
「漣は、こ、ここでいつ、まで、も待って、おります」
漣は変わる事のない眉尻を目いっぱいまで下げた情けない笑いを王節に向けた。王節の頬を撫で、それ以上何も言うまいと、震える口を結ぶ。
王節の想いが決壊した。漣を掻き抱き、行きたくない、離れたくないと咽の奥から絞り出す声で咽び泣いた。漣は王節の腕を優しく拒み、笑う。
「もう、夕刻、です。いつも、このぐらいに、帰られ、ますよね」
漣は贈られた衣を羽織って見せ、背に回された腕を優しく拒むと、王節の背を押した。
翌々日、顕嶺の軍が城を立った。城下の見渡せる丘の上、王樂は独り佇んでいた。
隣国は、国境の城を落とす事に全力をあげた。国境が要なのは、こちらも隣国も同じである。
まずはじめに、顕嶺と、数千の兵が伏兵に合い、抵抗する事もできず死んだ。このことにより、指揮権は顕嶺の次に位の高い将に映る。次いで、副将を務めていた二人の将が流矢に没し、錯乱した第二の指揮官は歩兵に首を掻ききられ、死んだ。
顕嶺率いる軍の中で、王節に指揮権が回ってくるまで、時間はかからなかった。
「戦える者は、あとどのくらいいるか」
問いかけて帰ってくる答えは、五十に満たない。城の中は負傷者と屍が、健常な兵よりも多く存在した。籠城策をとったが、糧秣はすでに底をついている。援軍は望めず、外からは、降伏を促す声がする。
古の将に、似た状況に陥り、降伏した将がいた。人となりを知る者が死に絶えても、百年と次代を経ても人々から蔑まれ罵られ、愚者の先導と呼ばれていた。
「選んでよい。今から私を殺し、その首を掲げ隣国で地位を得て安穏と暮らすか、私の道ずれとなって犬死にするか」
王節の言葉に、城内の兵は口を噤む。
「我らは、王将軍の麾下の兵、将軍が命じれば如何様にでもします。選べ等と酷な事をおっしゃらないでください」
初めに声を上げたのは、志学の年の頃か、それよりも下か。若く、気力に満ちた兵だった。その声に続き、どの兵もみな、同じ事を言った。王節は兵らの顔を一人一人見て回った。どの兵も皆、王節より若く、死なせる事が惜しく、煌々とした顔をしていた。
「将兵よ聞け、今から十銅鑼を鳴らす内に門を開ければ、罪は問わず、我が国で重用しよう」
隣国の将が声を張り上げ言った。銅鑼がひとつ鳴る。
「ここで斬り死にすれば我らは顕大将軍らの様に、忠臣として奉られるだろう」
二つ目の銅鑼が鳴る。
「皆、まだ若い。私は皆より長く生きたつもりでいたが、それでもまだあと二十年、三十年と生きる事を望んでいる」
三つ。
「私は生きたい。佞臣と踏みにじられ、汚物を擦り付けられても、生きたいと思う」
四つ。
五つ。
「降伏を宣言する。良いな。今からでも遅くはないぞ」
六つ。
七つ。
八つ。
九つ。
王節の号令により、門が開かれる。門外で控えていた隣国の兵は一歩も動かず、弓を構えている。
「剣を折るのだ」
王節が、自らの腰に携えていた剣を岩に叩きつける。兵らも皆、それをまねて剣や矛を折り、手離し、踏みつけた。
「我らはここに降伏いたします。指揮官王節の首をもって、兵らの助命を乞います」
王節と五十名あまりの兵は降伏した。隣国の将は、王節の判断を賢明かつ仁義にのっとった正道と賞し、すべてを不問とした。国境の城は、ことごとく隣国の物となり、異なる色の旗が起立した。王節降伏の報せを受けた陳叡は、口から血を吹き出し、昏睡した。
隣国が戦果を上げ、勢いを保っていたのはこの戦のみであった。その後は攻め入れど追い返され、押し返され、激戦の末手にした国境の城をすべて奪われ、じわじわと戦線を後退させていった。
終に、都まで戦場となる。敵国の将兵らが、最後の門を開く寸前に、帝が自らの首と引き換えに民と将兵らの助命を乞うが、聞き入れられず、隣国で位を持つ者、すべてが処断された。
亡命者、降伏者は殺さず捉えられ、見せしめとして民の眼前で処刑される事となった。
みせしめにされる将兵は、皆目をつぶされ、足先を絶たれ、掌に穴をあけ、そこに荒縄を通された。歩くことすらままならない罪人を、処刑人は背を蹴り髪を引き、台の上に登らせる。
その中に、王節の姿があった。もはや、何の念もなく、ただ早く首を断たれたいとさえ願っていた。処刑人が鉈に油を吹きかける。一人、また一人とあの時共に降伏した兵の命が絶たれて行く。兵の呻き声を耳に、王節は静かに頭を垂れた。
花枝細草看山眠
桃葉香飛晩更硬
忽覚故人藍尾酒
湖波玉頬夢依然
王節の耳に、確かに聞き覚えのある詞が聞こえてくる。幻かと疑ったが、そうではない。漣だ。胡弓の音さえ、蘇る様で。焼かれた咽で、名を呼んだ。王節の胸に、既に捨てきったとしていた生への執着が蘇る。
――漣
もう一度、あの声に触れる事ができればと、叶う筈もない願が頭を霞める。処刑人は、躊躇する事無く鉈を振り下ろす。
詩を吟じていたのは、王樂であった。何処で知り得たか、何故知り得たか。知る由もない。
王節は、死んだ。時に、三十七歳であった。