第七話 夢を想えば③
――――帝位。
クロノワがその至高の位を夢見たことが一度もない、といえばそれは嘘になるだろう。
帝都ケーヒンスブルグの宮殿に来たばかりの、まだ味方のいない迫害と陰湿なイジメに満ちた日々にあっては、その玉座を夢見ることが多々あった。
「皇帝の力があれば、こんな苦しい思いをしなくていいのに」
というわけである。
とはいえそれはお伽噺の中の理想郷を想うような感覚で、現実の、生々しい欲望からは程遠いものであった。
それにレヴィナスが皇帝となれば、クロノワは完全な邪魔者である。粛清される前に死んだことにでもして、地位と責任を放り出し子どものころに夢見たようにこの世界を旅して回ろうかと、そんなことを考えていた。出来ることならば友人であるイストと共に。あの日、海から昇る朝日を見ながらかわした約束は、クロノワにとって皇帝の座よりも魅力的なものだったのだ。
それなのに、何の因果か帝位などというものが転がり込んできた。
(まったく、悪い冗談です)
そう思わずにはいられない。まったく、望んでもいない人間のところに転がり込んでこなくてもいいだろうに。おかげで起きなくていい厄介ごとが起きてしまった。きっと運命の女神というヤツは娯楽に餓えた暇人に違いない。
そんな、権力というものに執着しそれを欲してやまない連中が聞いたら呪い殺されそうな台詞は心の中にだけ留めておいて、表面上クロノワは淡々とした装いを崩さなかった。それはどうやら傍からみると「王者の風格」とやらに映るらしく、渋っていたクロノワが帝位を受け入れたと、アールヴェルツェや二人の大臣をはじめとする周りの人々は喜んでいた。
クロノワ自身は皇帝の座など望んではいない。少なくとも積極的には。しかし、事がここに至れば彼が立ち止まっていても事態は動いていく。ならば少しでも自分に有利なように事態を動かすためには、能動的に、自分から動くしかない。事はクロノワ一人の問題ではない。彼と共にいて支えてくれる、十五万人以上の命が関わっている。
クロノワの打った手は常識的なものであった。というよりそれしか打つ手がないと言える。つまり帝都ケーヒンスブルグを目指して軍を進める、ということである。
「なにも起こらずにケーヒンスブルグまで行けると思いますか?」
「………なにも起こらなかったとすれば、皇后はケーヒンスブルグにはいないでしょう。ですが………」
少し考えてからローデリッヒはそう答えた。余談になるが、クロノワと共にいる人々は、もはや皇后に「陛下」という敬称を付けることを止めていた。
皇后が帝都から動かなければ、向かってくるクロノワの軍に対してなんらかのリアクションをとるであろう。軍を差し向け進軍を阻むか、それとも使者を送りつけてくるか。
一方で皇后がケーヒンスブルグを離れているのであれば、なんの置き土産をも残していかないというのは考えにくい。最悪の場合、宮殿や帝都の町並みに火をかけるぐらいのことはするかもしれない。
つまり、なにも無い、ということはおよそ考えられない。必ず何かが起こる。その心構えでいなければならない、とローデリッヒは説いた。
さて、帝都ケーヒンスブルグへ向けて軍を動かす一方、クロノワはラシアートに人馬三千の兵を護衛として与えて、アルジャーク帝国の有力者たちの説得に回ってもらった。その内容は、味方をしてくれ、というものではなく、敵対しないでくれ、というもので、これによって多くの者が様子見にまわるだろう、というのがラシアートをはじめとする頭脳労働班の見解であった。
クロノワが馬にまたがる。目指すは帝都ケーヒンスブルグ。そして皇帝の玉座である。
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皇帝ベルトロワの遺体は、火葬にされた。
この時代、エルヴィヨン大陸の一般的な埋葬方法は土葬である。かといって火葬が野蛮視されているわけでもない。この時代、なんらかの理由で土葬が行えない場合には、火葬という手段が用いられた。
遺体というものは、当然のことながら腐敗する。大貴族や王族、皇帝といった人々も、死して死体となればその運命を逃れることは出来ない。長らく放置して腐敗が進めば、死者にとっても生者にとっても面白くはあるまい。埋葬は可能な限り速やかに、というのが一般常識であった。
しかし此度埋葬される遺体は、ただの遺体ではない。アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの遺体である。略式であっても葬儀を行うとすれば喪主が必要になり、レヴィナス以外の者が喪主になるなど皇后には考えられないことであった。
皇后が望む喪主、つまり次期皇帝はいうまでもなく自分の息子、レヴィナスである。しかし彼は今、オムージュ領のベルーカにいた。これは彼の帰還が遅れたから、ではなく皇后の指示であった。
クロノワを喪主に指名するベルトロワの遺書が開封され、未開封の遺書を保管していると思われる二人の大臣の行方が分らないことが判明したとき、皇后はすぐさま戦火を予感した。しかも間の悪いことに、クロノワの下には南方遠征軍が丸々残っている。カレナリアに一兵も残さずに帰還することはないだろうが、それでも十万~十五万程度の軍勢が彼の配下にはいるだろう。
これに対抗するためには、こちらも兵を集めなければならない。おりしも都合よく、レヴィナスからベルーカに到着したという連絡が「共鳴の水鏡」を通して入った。皇后は事情を説明し(といっても自分に都合のいいように歪めてだが)、レヴィナスに兵を集めさせることにしたのである。ベルーカにはアルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールもおり、彼に任せれば戦力はまず心配ないだろう。
ところで葬儀と喪主の件である。
レヴィナスは兵を集めているため、帝都ケーヒンスブルグに帰還するまでにはかなりの時間がかかるだろう。かといってそれまで葬儀を先送りにしては、ベルトロワの遺体はひどく腐敗し悪臭を放つようになってしまう。皇后としてもそれは遠慮したかった。
そこで火葬、である。
火葬すれば後に骨が残る。それを骨壷に収めて保管しておき、後で散骨なり納骨なりすればよい。そしてそれを行う者こそが後継者であると主張するのだ。
実際、こういった「裏技」は歴史上何度も行われてきた。
ベルトロワの遺骨が納められた骨壷を、皇后は両手で大事そうに抱える。遺書が当てにならなかった以上、もはやこれだけがレヴィナスを皇帝にする、その正当性を主張する術に思われた。
さて、レヴィナスが早く軍を率いて帝都に帰還しないかと気を揉む一方で、皇后はクロノワのこともまた気にしなければならなかった。彼の動向を知らせる「共鳴の水鏡」を用いた通信は、ここのところぱったりと止んでいる。それはつまり、クロノワが二人の大臣と合流し皇帝の遺書を見たのだと皇后に予感させた。
この時点で皇后はクロノワのことを「潜在的な敵」から「レヴィナスの帝位を狙う簒奪者」という認識に改め、その危険度を大幅に引き上げた。
(もっと早く処断しておくべきでしたね………)
一抹の後悔が皇后の胸をよぎる。とはいえ帝都ケーヒンスブルグで事態が進行している間中、クロノワは遠くカレナリアにいたのだ。策謀を巡らしその命を狙うには、いささか距離がありすぎたし、また準備不足であった。
クロノワが今どこにいるか、その正確な位置は分らない。しかし目指す場所は、はっきりとしている。すなわち、ここ帝都ケーヒンスブルグである。
(レヴィナスは間に合うでしょうか………)
皇后は軍事に関してはまったくの素人である。十万規模の兵を集め、それを率いてベルーカからケーヒンスブルグに来るまで、どれだけの時間がかかるか皆目見当もつかない。そこで確実な安全策として、皇后が帝都を離れベルーカのレヴィナスのもとに身を寄せる、という案が出た。さらにそこで皇帝の遺骨を散骨なり納骨なりして、レヴィナスを正統な皇帝にしてしまおうというわけだ。
しかし、この案には皇后が拒否反応を示した。
ケーヒンスブルグはアルジャーク帝国の帝都、つまりはその政治的中心である。それに対しベルーカは旧王都であり総督府が置かれているとはいえ、もはや帝国の一都市に過ぎない。
「それはつまり都落ちではありませんか!」
正統な皇帝であるならば、その戴冠式は帝都ケーヒンスブルグで行うべきである。クロノワを恐れるようにして帝都を離れ、辺境の一都市、しかもつい最近まで他国の王都でしかなかったベルーカでアルジャーク帝国皇帝の戴冠式をおこなうなど、レヴィナスにはふさわしくない。あの子の栄光ある統治の最初に、そのような汚点を付けるわけにはいかないのだ。
それは感情に流された言い分でしかなかったが、それゆえにその想いは頑強で、理論的な言い分では太刀打ちできなかった。
しかし事態は皇后を帝都ケーヒンスブルグから追い立てる。クロノワ率いる約十五万の軍勢が帝都に近づいて来たのだ。
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やはり、というか帝都ケーヒンスブルグにいたる街道上で事態は進行した。
「一軍が街道上に柵を築き、行く手を阻んでおります」
偵察から戻ってきた斥候はそうクロノワに報告した。さらに聞けばその一軍の規模は五千程度らしい。
「罠がある、と思いますか」
「いえ、単純に兵の数を揃えられなかっただけだと思われます」
アールヴェルツェはそう断じた。
アルジャーク軍の精鋭のうち二十万近くは南方遠征によってクロノワの配下に組み込まれている。アルジャーク軍の全戦力(オムージュやモントルムの兵は除く)は四十万とも五十万とも言われるが、その半分近くがクロノワの隷下にいるのだ。
さらに皇后側が兵を集め始めたのは、早くとも遺書が開封された後である。兵士の数がもともと少ないことも一因だろうが、時間的な余裕もなかったと思われる。
そうした状況を総合的に判断し、アールヴェルツェは「兵を集め切れなかった」と判断を下したのだ。
「しかしそうなると、戦力差が絶望的であることは皇后も理解しているはず」
なぜ使者をよこすなり交渉の動きを見せなかったのか、と幕僚の一人レイシェル・クルーディはいぶかしんだ。五千対十五万では勝負にならないことくらい、いくら軍事に疎い皇后でも解るだろうに。
「私相手に、下手に出たくなかったのでしょうね」
自嘲気味にクロノワはそういった。皇后が彼への迫害とイジメの急先鋒であったことは、周知の事実である。そんな馬鹿な、と思う一方で、確かにそれならば、と納得してしまう部分もあった。
「この際、皇后の心理状態を慮る必要はないでしょう」
軍務大臣ローデリッヒ・イラニールはそういって脱線した話題を元に戻した。
かりにこの先皇后の側から接触があったとしても、レヴィナスを皇帝にと望む彼女らと我々が歩み寄って妥協点を探すことは不可能である。ならば全軍を持って街道を封鎖している部隊を突破し、勢いそのままに帝都を掌握すべし、とローデリッヒは主張した。他に案が出ないところをみると、皆同じようなことを考えていたようだ。
最後に、クロノワが判断を下す。
「全軍に出撃命令を。目標は帝都ケーヒンスブルグ」
その言葉を合図に、一同は立ち上がり敬礼をしてからそれぞれの部署に散っていく。街道を封鎖している部隊に対し、クロノワの軍が攻撃を仕掛けたのは、そのおよそ一時間後であった。
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それは戦闘などというものではなかった。柵を築き街道を封鎖していたおよそ五千の部隊は戦う前から及び腰で、クロノワの軍と接触するとほぼ同時に壊走を開始した。
なにしろ彼我の戦力差はおよそ三十倍である。よく逃げずに決戦のその場にいたと、むしろ褒めるべきであろう。
壊走する敵部隊を、クロノワは追わなかった。今は敵味方に分かれているとはいえ、彼らも同じアルジャークの民である。無駄な血を流さずにこの内戦を終えられるのなら、それが一番だろう。
(そういえば、これは内戦でしたね………)
今更のように、クロノワはその事実を確認した。例えばオルドナスのような教師から彼は歴史を習ってきたが、内戦というのは総じて愚かしい理由が多い、というのがクロノワの感想であった。その内戦を今自分が演じることになるとは。
(これは早急に終わらせなければいけませんね………!)
クロノワは決意を新たにし、軍を率い帝都ケーヒンスブルグへと駆け上った。その彼の視界に、やがて不吉なものが見え始めた。
「煙………!!」
遠目に見えてきた帝都から、煙が上がっている。まさか、とクロノワは思いつつ馬に軽く鞭をいれ速度を上げる。彼の周りにいる騎兵がそれに続いた。
ケーヒンスブルグに近づいてみると、黒煙を巻き上げて燃え上がっているのは宮殿であった。まだ市街地への延焼は始まっていないらしく、それだけは不幸中の幸いといえるだろう。クロノワはすこしだけ胸をなで下ろした。
しかし、すぐに怒りがこみ上げてくる。
恐らく、ではなく十中八九、宮殿に火をかけたのは皇后であろう。帝都ケーヒンスブルグからレヴィナスのいるベルーカへ逃れるための時間稼ぎか、それとも戦略的意味をこめた嫌がらせなのか。
大局的に物事を見ればそれらしい理由は幾つも思いつくが、しかしクロノワはいい様のない個人的な悪意を感じていた。宮殿に来たばかりの、まだ味方がいなかったあの頃、常日頃感じていたあの悪意だ。
まるで、
「お前にはなにも渡さぬ」
と皇后に言われているようである。
(そこまで……、そこまで私と母が憎いか………!)
ギリ、とクロノワの奥歯が軋んだ。
「イトラ・ヨクテエル!」
少し間が開いてしまった軍勢が追いついてくる。それを振り返ることもせず音だけで感知したクロノワは、一人の武将を呼んだ。
「ここに」
名前を呼ばれた若い武将は、馬を下りてクロノワの前まで進み出、膝をついて頭をたれた。
「隷下の部隊を率いて皇后を追いなさい。ただしリガ砦を越えることはしないように」
クロノワはそうイトラに命じた。市街地への延焼がまだ始まっていないところをみると、火の手が上がったのはついさっきであろう。であればその下手人はまだこの近くにいるはずである。しかし、その下手人が皇后本人であるとは限らない。彼女本人は何日も前に帝都を脱出しているかも知れず、そうなれば見つけ出すには時間がかかるだろう。
ただクロノワは直感的に皇后がまだこの近くにいると感じていた。嫌いな相手の事ほど、良く分るものである。
「御意!」
イトラは短く返事をすると、すぐさま行動を開始した。その背中を見送ったクロノワは、次の武将の名前を呼ぶ。
「レイシェル・クルーディ!」
「御前におります」
すでに馬から下り控えていた彼は、一歩前に出て頭をたれた。
「貴方は住民の避難誘導を」
「御意」
レイシェルもイトラと同じく短く答えるとすぐに行動を開始する。無駄な時間を浪費している暇はないと心得ているのだ。さらにクロノワは矢継ぎ早に指示を出していく。
「アールヴェルツェは残りの兵を率いて火を消してください。市街地への延焼はなんとしても阻止するように。後方部隊は怪我人の手当てを。ローデリッヒ殿は全体の監督をお願いします」
皆、短く返事をするとすぐに散っていく。アールヴェルツェは軍を率いて帝都へ、宮殿へと急ぎ、ローデリッヒは本部とするべき陣を作らせる。周りが忙しく動き回る中で、クロノワは燃え盛る炎と巻き上がる黒煙を睨みつけていた。
**********
結局宮殿は全て焼け落ち、今は石で造られていた部分だけがススにまみれて残っている。ただクロノワが最も警戒していた市街地への延焼はなんとかまぬがれた。一部取り崩した建物もあるようだが、それは必要な犠牲だったのだろう。
火の手が上がる宮殿から持ち出せた物品や資料は、全体から見ればごく僅かであった。アールヴェルツェにしても優先するように言われていたのは延焼の阻止と消火活動であったし、また燃え盛る炎の中に部下を送り込んでまでなにかを回収するようなことはしたくなかったようだ。
日はすでに傾き、東の空はすでに暗くなり始めている。クロノワは今本部として用意された陣のなかで、ローデリッヒと共に上がってくる様々な報告を聞いていた。とはいえ具体的な指示はほとんどローデリッヒが出しているため、クロノワは本当に聞いているだけである。
「陛下がそこに泰然と座っておられるだけで、兵士たちは安心いたします」
そういわれては仕方がない。どうやらローデリッヒの新しい皇帝への教育はすでに始まっているらしい。何もしないでいることに罪悪感を覚えながらも、クロノワはそこにいつづけた。
「だいぶ落ち着いたようですね」
報告に来る兵士が途切れた頃を見計らって、クロノワはローデリッヒに声をかけた。見ればレイシェルが非難させてきた帝都の住民たちも少しずつ帰宅を開始している。山場は過ぎたと見ていいだろう。
「しかしこれからが大変ですぞ」
焼け落ちた宮殿は皇帝の生活空間であると同時に、アルジャーク帝国における政治の中心であったのだ。そこに保管されていた多くの資料が、今回灰になってしまった。水面下の政治的混乱は、この先かなり長く続くと覚悟したほうがいいだろう。
「遷都を考えたほうがいいかもしれませんね………」
この先もケーヒンスブルグを帝都としてつかうためには、兎にも角にも宮殿を修復しなければいけないだろし、他から最低限必要な資料を取り寄せなければならない。しかしそれには膨大な費用と時間がかかる。また近年行われた遠征によって膨れ上がった国土の中では、地理的に見てもケーヒンスブルグは条件がいいとは言いがたい。この機会に遷都を行うのは、いい考えかもしれない。
「報告します!イトラ・ヨクテエル将軍が皇后を捕縛し、帰還いたしました!」
火事とそれにともなう混乱が一段落し弛緩しはじめていたその場の空気が、その報告で一気に緊張した。ローデリッヒが視線をクロノワに向ける。その意味するところは明らかだ。クロノワは無言で頷き、了承を伝えた。
「皇后をここへ」
ローデリッヒが重々しく命じると、二人の兵士に拘束された皇后がクロノワの前に引き出されてきた。
「放しなさい、無礼者!わらわを誰だと思っているのですっ!?」
皇后は身をよじり拘束を解こうとしているが、屈強な兵士に両脇から固められては、自由を取り戻すことは出来そうにない。
喚いていた皇后の目が、クロノワを捕らえる。その瞬間、彼女は動きをピタリと止め、口の両端を吊り上げて壮絶な笑みを浮かべた。拘束された、身動きも満足に出来ない状態にもかかわらずその笑みは間違いなく捕食者のそれで、見るものの背中に冷や汗を感じさせる。
「どこの馬の骨とも知れぬ、下賎な女の子どもが、分不相応な場所にいるものですね。やはり宮殿を焼いたのは正解でした。お前のような下劣な男が座っては至高の玉座が汚れるというもの。お前が座った椅子にレヴィナスも座るなど、考えただけでもゾッとするというものです」
興奮してきたのか皇后はさらに舌を回転させる速度を上げ、侮辱と軽蔑の言葉を吐き出し続ける。その言葉はだんだんと支離滅裂になっていき、それにともない皇后の目は血走っていく。
皇后の吐く言葉がもはや意味をなさなくなると、ローデリッヒはこれ以上は時間の無駄だと判断したようだ。やはり無言のままクロノワに視線を向け許可を求める。クロノワが頷くと、ローデリッヒは皇后を連れて行くように命令を出した。
「放しなさいっ!!」
ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ皇后を拘束している兵士の力が緩んだ。その一瞬をついて皇后はついに拘束を逃れた。そして彼女は………。
「アァアアァアァアァアァァァ!!」
髪の毛をまとめていた簪を抜き右逆手に握り振り上げると、それを突き立てんとクロノワに突進した。誰もが虚をつかれて立ち尽くし、反応が遅れた。
しかしそのなかでクロノワは動いた。彼は腰に吊るした剣の柄に手をかけながら、突進してくる皇后に対しむしろ距離を詰めるように前にでた。
――――一閃。
鞘から抜き放たれた剣は、皇后の体に斜めに走る赤い線を残した。
皇后は「え?」と呆けたような声をもらし、次に赤い雫を口から流した。皇后の動きが止まる。そこへ………。
「・・、・・・!」
何ごとかを小さく呟き、クロノワは剣をもう一振りして皇后に止めをさした。
ドサリ、と音を立てて皇后の体が仰向けに倒れ、その周囲に血溜りが出来始める。その様子をクロノワは肩で息をしながら見ていた。
――――はじめて、人を殺した。
高揚や達成感を覚えることはない。しかしその一方で不思議と罪悪感もなかった。人が死ぬところだけなら何度も見てきたが、それが原因かもしれない。人を一人この手で殺したというのに、頭の中は妙に白けていた。
ただ斬ったときのあの感触は気持ちが悪かった。そしてなにより、皇后を斬ったときに自分がどんな顔をしていたのか、それが怖かった。
「陛下………」
ローデリッヒが声をかけてくる。その時ようやく、クロノワは白くなるほど剣の柄を強く握り締めていた手から力を抜き、軽くふるって血を飛ばしてから鞘に戻した。
目を閉じ、息を整える。次に目を開けたときには、表面上は平静に戻っていた。
「皇后の遺体は丁重に葬るように」
クロノワのその指示にローデリッヒは少し眉をひそめたがすぐに頷いた。あるいはクロノワの自己満足だと思ったのかも知れないが、死体の処したかなど誰が損をするわけでもない些細な問題であろう。
「少し疲れました。後は任せても大丈夫ですね?」
「はっ、お任せください」
ローデリッヒに合わせて周りの兵士たちも敬礼をする。彼らに一つ頷いてからクロノワは自分の天幕の中に入った。
天幕の中の簡易寝台を背もたれにして座り込む。掲げて見た手には、皇后を斬ったときのあの感触が残って消えない。
「………やったよ、母さん。母さんの汚名を雪いだんだ………」
そう呟いてみても、高揚も感動も、何も生まれはしなかった。