第七話 夢を想えば①
テムサニス国王ジルモンド・テムサニスの率いる十五万の軍勢を撃破したクロノワは、ジルモンドその人と十二万以上の捕虜を得て一度カレナリアの旧王都ベネティアナに戻った。
この時点でテムサニス遠征の半分は成ったようなものだ。ジルモンド・テムサニスの身柄がこちらにある以上、交渉にしろ軍を動かすにしろ、あらゆる面での主導権はアルジャーク側にある。
さて腰をすえてテムサニスの攻略を、とクロノワは考えていたわけであるが、生憎と事態は彼が予想しえなかった方向へ転がっていく。
「皇帝陛下が落馬され、現在意識不明の重体です」
ベネティアナに戻ってきたクロノワを出迎えたのは、そんな政変を予感させる知らせだったのである。
「これは、一度戻るしかないでしょうな………」
今回の遠征の実質的な総指揮を執っているアールヴェルツェ・ハーストレイトは口惜しそうにそういった。それはそうだろう。現在アルジャーク軍は南方遠征のゴールが見える位置に来ており、これからその総仕上げをしようというところなのだ。なのにそれを放り出して帰還しなければならない。アールヴェルツェならずとも口惜しく思うのは当然だろう。
「ジルモンド陛下の身柄を押さえているのです。まったくの振り出しに戻るわけではありませんよ」
最も口惜しい思いをしているであろうクロノワは、そういって部下たちをなだめた。それから指示を出してカレナリアに残す兵士を選ばせる。さらにテムサニスの征服後の統治を担当するはずだった文官たちを集めて、ひとまずはカレナリアで仕事をしてもらうことにした。これでカレナリアにおける文官の人員は二倍になり、混乱の起こる心配もなくなるだろう。
数は少ないが、しかし重要な問題をいくつか片付け準備が整うと、クロノワはすぐさま出立した。
「進むのは街道上です。夜も出来る限り進みましょう」
事態が事態だけに、可能な限り速く帝都ケーヒンスブルグに戻りたい。進むべき一本道がはっきりと分るならば、夜間に行軍しても迷子になるようなことはあるまい。
それにしても、とクロノワは思う。
(まさか帰りの道筋をこんなに急ぐことになるとは………)
つい先日カレナリア軍を各個撃破し王都ベネティアナに向かうときは、急ぐようなことはせずむしろ意図的にゆっくりと歩を進めたというのに。まさか遠征が終わってからの帰途で急ぐことになるとは。何が起こるかわからないものである。
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皇后は苛立っていた。
レヴィナスが帝都ケーヒンスブルグに帰還しないのだ。
無論、視察に出ているというレヴィナスへの使いは、すでに総督府のほうから出されている。にもかかわらず、彼はいまだにオムージュ領旧王都ベルーカにさえ戻ってきていなかった。
これは単純にレヴィナスの居所が分らず、彼を捕まえることが出来なかったから、ではない。実際、皇帝ベルトロワが落馬し意識不明の状態であるというしらせは、皇后から連絡があった日からおよそ五日後にはレヴィナスの元に届いていた。
ではレヴィナスがなにをしていたのかといえば、彼はこの時客人と合っていたのである。
オムージュ領の西に、ラキサニアという国がある。ラキサニアのさらに西は神聖四国である。版図は五二州。事実上神聖四国の属国で、教会の威光を笠に国体を保持しているような国だ。
神聖四国が大陸の中心部にありそのため文明が早期に成熟した、という話は以前にした。そのためか神聖四国には画家や彫刻家など、優れた芸術家が多い。レヴィナスは今現在推し進めている建築計画の仕上げとして、また今後自分が立案する建築計画のために、神聖四国から優れた建築家や画家、彫刻家などを呼び寄せることを考えたのだが、そのパイプ役として目をつけたのがラキサニアであった。
オムージュ領の北部の辺境、とは言っても旧王都ベルーカよりは国境に近いという意味だが、そこにオムージュの前国王にしてレヴィナスの義父であるコルグスが造らせていた避暑用の夏の宮殿がある。計画通りの完成をみているわけではないが、十分にレヴィナスの眼鏡にかなう壮麗な宮殿である。レヴィナスはそこでラキサニアの客人たちをもてなし、神聖四国に口を利いてくれるよう依頼していた。
彼の元に「皇帝が落馬し意識不明の重体である」という知らせが舞い込んだのは、そんなときであった。本来ならばこの知らせを受け取ったらすぐにベルーカへ、そしてケーヒンスブルグへ帰還すべきであったろう。
しかしレヴィナスは迷った。
今彼がもてなしているのはラキサニアの客人たちである。ラキサニア自体はアルジャークから見れば格下の隣国に過ぎないが、そのすぐ後ろには教会と神聖四国が控えている。こちらの影響力は無視できない。しかも今回招いた客人たちの中には、ラキサニアの王族が混じっている。粗略には扱えなかった。
さらにここを切り上げてベルーカに戻るとすれば、その理由を説明しなければならない。皇帝が意識不明であるなどという話は、今はまだアルジャーク帝国の外には漏れて欲しくない情報だろう。無論馬鹿正直に話すつもりなどないが、しかし皇太子である自分が客人を放り出してケーヒンスブルグに戻るとなれば、その理由はおおよそ予想がついてしまう。つまり皇帝か皇后になにかあった、ということだ。
恐らく大使館などから情報はいっているのだろうが、ここで自分が動けば事の重要度が一気に跳ね上がってしまう。皇太子が急いで帰還するとなれば、皇帝か皇后の命に関わることだと公言しているようなものだ。
迷った末、レヴィナスは残ることにした。なによりも格下相手に取り乱すところを見られるなど、彼の美意識が許さない。
とはいえゆっくりとしていられないのも事実である。レヴィナスは部下に命じて予定を調整させ、予定よりも早く客人たちの相手を終えてベルーカに戻ることが出来るようにした。
こうして彼は彼なりに早く戻るための努力をしていたのだが、皇后からすればあまりにも遅かった。
「まったく!あの子は何をしているのですっ!?」
皇后にしては珍しく、レヴィナスに対して怒りを表した。もっともその怒りをぶつけるべき相手はいまだ帝都ケーヒンスブルグに帰還していない。皇后に仕える侍女たちも、彼女の怒りの理不尽なしわ寄せを恐れてその視界に入ろうとしない。結局、彼女の怒りはただ空回りするばかりであった。
皇帝の容態は相変わらずである。相変わらず意識不明で、少しずつ悪くなっている。
人間はモノを食べなければ生きていけない。そして意識不明の皇帝は食物を摂取するという、命をつなぐ上で不可欠なことを満足に行えないでいた。
水分に関しては、なんとかなった。スプーンで水をすくって口元に持っていたところ、ちゃんと飲んでくれたのだ。これでひとまず脱水症状をおこす恐れはなくなった。
ただ水だけでは明らかに栄養が足りない。固形物は食べられないため、侍従医たちは暖めた牛乳に蜂蜜を溶かし、それを冷ましてから水と同じ要領で皇帝に与えた。これによって皇帝ベルトロワは餓死をまぬがれたわけであるが、それでも意識のない彼は緩慢に死へと向かっている。
「もはやいつ死んでもおかしくない」
それは口にすることさえ恐れ多いことだが、しかし宮殿内の人々にとっては自明の理となっていた。
ベルトロワが生にしがみ付く様を、皇后は冷めた様子で見ていた。
「さっさと死ねばいいものを」
と思う一方で、
「もう少し生きていてくれたほうが、都合がいい」
とも思っている。
本来ベルトロワは落馬したときに死ぬはずであった。少なくとも、それが皇后の書いたシナリオだった。ベルトロワが意識不明とはいえ生き残ったことは、彼女にとっては誤算であったが、心のどこかでほっとしたのも事実である。
死んでない以上落馬は事故であって、暗殺ではない。実際は暗殺未遂なのだが、それに気づいている人間はいないだろう。みな意識不明の皇帝に気を取られ、事件のことなど忘れ始めている。
(あの人が勝手に死ぬだけ………。わらわが手を下すまでもない)
ベルトロワがいつ死んだとしても、それはごく自然なことの成り行きで、それを暗殺されたと考える人間などいない。暗殺しようとした皇后のことが明らかになることなどないのだ。
(あと一手、あと一手なのです………!)
あとはレヴィナスを摂政にし、皇帝の崩御を待って晴れて帝位に就ければよい。
しかしここに来てまたしても誤算があった。レヴィナスの帝都ケーヒンスブルグへの帰還が遅れていることだ。いっそのこと本人不在のまま、ことを進めてしまおうとも思ったが、摂政位への任命は本人が帰ってくるまで待つことになるだろう。根回しは進めているが、やはり本人がいないと話が進まない。
(早く、早く帰ってくるのです、レヴィナス………!)
そしてもう一つ誤算が。クロノワである。
当初皇后は、クロノワはテムサニスでかの国の軍と交戦中であると見ていた。しかしその予測は大きく外れた。「皇帝が意識不明の重体に陥った」という知らせがカレナリアの王都ベネティアナにもたらされた時、クロノワはちょうどそのベネティアナに帰還する途中であったのだ。
これが何を意味するか。それはつまりクロノワは皇后が想定したよりも早く、この帝都ケーヒンスブルグに帰還するということである。しかもカレナリアを平定し、テムサニス国王ジルモンド・テムサニスを捕虜にするという功績を手土産にして、だ。
(レヴィナスが彼奴に遅れたら………?)
それでも問題はない。ないはずである。なぜならレヴィナスは皇太子であり、皇帝によって後継者として公認されているのだから。
しかし、しかししかししかし………。
もし皇帝が目を覚まして、その時その場にいないレヴィナスではなくクロノワを後継者に指名したら………?今回の功績を盾にクロノワを担ぎ上げる一派が現れたら………?そうでなくとも、レヴィナスが先手を取らなければこの先クロノワが大きな顔をすることになるかもしれない。
そんなことは、認められない。そんな未来像は、彼女の夢の中には描かれていないのだ。
「万難を排しておく必要がありますね………」
皇后の目は、狂気に染まっていた。
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皇后の至上目的はレヴィナスを皇帝の座につけることである。その先、つまり自分が皇太后として権勢を振るうことなど、彼女はまったく望んでいない。言うまでもなく外戚、つまり自分の実家が政に口出しすることを許す気など、毛頭ない。
皇后の望みは自分の息子であるレヴィナスが皇帝となり、その威光をあまねく帝国全土に広げることである。あの美しい子ならば自分自身にふさわしい素晴らしい国を作り上げるに違いないと、皇后は確信していた。それを一番近い場所で目撃すること。それが皇后の「夢」であった。
そのためならば。あの子のためならば。身を挺して万難を排し、あらゆる災いから守ろう。あの子を支え、あの子の行くべき道を整えよう。たとえ最後の一人になろうとも、あの子の味方でいよう。おくるみに包まれたレヴィナスを抱いたときに、皇后はそう誓ったのだ。
(これは愛………。わらわは誰よりも深くあの子を愛している………!)
あの子のためならば、皇帝であろうとも殺してみせよう。そうすれば遺書が開封され、そこには皇太子であるレヴィナスを喪主に、と書かれているに違いないのだから。
――――皇帝暗殺。
それは決して人に知られてはいけない。知られたが最後、皇后であろうとも大罪人として断罪され、レヴィナスはその子どもとして帝位継承の争いで大きなハンデを背負うことになるだろう。
皇帝を暗殺すること、それ自体は現状ならばそれほど難しくはない。ベルトロワの寝室に見舞いに行き、侍従医たちに席を外させてから首を絞めるなりすればいい。
問題はその後である。皇后が退室した後、侍従医たちがすぐに戻ってくれば彼らが皇帝の異変に気づくだろう。そうなった時に真っ先に疑いを掛けられるのは、その直前までベルトロワと二人っきりでいた皇后その人である。
そうなっては、まずい。ではどうすればいいか。答えは簡単である。皇帝が死んだ直後に侍従医たちが彼の遺体に近づかなければいい。そして、少なくとも死後数時間たってから皇帝が死んでいることに気づく。その時、特に外傷などがなければ自然と息を引き取ったと判断するだろう。
そのためには、どうすればよいか。
(さて、そろそろ参りましょうか………)
ハーブティを飲み干したティーカップを受け皿に戻し、皇后は立ち上がった。窓の外を見ればすでに日は沈み月が昇っている。良い頃合だろう。
目指す行き先は皇帝の寝室。皇后は努めていつもより優雅に歩を進めていく。
皇帝の寝室に入り、看病をしている侍従医たちを下がらせる。パタリ、と扉のしまる音がして、寝室は静寂に包まれた。ベルトロワが横たわるベッドの四隅を囲うように置かれた蝋燭が燃える音だけがしばし響く。
誰も見てはいない。皇后は足音を立てぬようゆっくりと、しかし毅然と頭を上げベッドに横たわるベルトロワに近づいていく。
「貴方が悪いのですよ?」
どこの馬の骨とも知れぬ下賎な女に子どもなど産ませるから。その子どもを呼び寄せなどするから。レヴィナスの代わりにその子どもを使おうとするから。
「どうせ、愛してもいなかったのでしょう?」
ならば放っておけばよかったのだ。いかに皇室の血筋であろうとも、ベルトロワが認知しなければ意味などない。そうすればすべて丸く収まったというのに。ベルトロワがここで死ぬこともなかったのに。
「貴方の跡目は、レヴィナスが立派に継ぎますわぁ」
ベルトロワの頬を撫でながら、皇后は彼の耳元で囁く。その手を枕の一つに伸ばす。そして羽毛の詰まったその柔らかい枕を、皇后はベルトロワの顔に押し付けた。
手に力と体重を込める。
抵抗はない。それが現実感を薄くする。まるで人形を相手にしているようだ。
今自分はどんな顔をしている?
笑っている?
泣いている?
悲しんでいる?
悦んでいる?
静かなはずの室内に、自分の鼓動の音がやたらと大きく響く。
蝋燭の火に照らされた皇后の影が、壁に映っている。炎が揺れると、影も揺れた。その姿は人を襲う悪魔にも似ていた。
時間の感覚が麻痺している。どれ位たった?一瞬のような気もするし、一時間こうしているような気もする。皇帝はもう死んだのか?それともまだ生きているのか?
意を決し、腕から力を抜く。枕をどけて、ベルトロワの息と脈を確認する。
「………!」
思わず、歓声が漏れそうになる。胸の奥から湧き上がるものは何だ?罪悪感?まさか。これはまぎれもない歓喜だ。
「ああ………!ようやく、死んでくださりましたね………」
蕩けるような笑顔を浮かべ、皇后はベルトロワの遺体に頬擦りする。生きている間はもはやなにも感じない間柄だったが、死んでしまった今はこんなにも愛おしい。
目蓋が重くなってくる。緊張が解けたことでハーブティの効果が一気に現れたのかもしれない。
枕を元の位置に戻し、遺体が横たわるベッドにうつぶす。睡魔はすぐにやってきた。
「ああ、レヴィナス………」
愛しの息子が至高の冠を頭に載せるその瞬間を思い描き、皇后は眠りに落ちた。
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皇后が目を覚ますと、寝室の明りは消され、ただ月明かりのみが部屋の中を照らしていた。体を起こすと、毛布が肩から滑り落ちた。誰かが気を利かせてくれたのだろう。
今は何時だろうか。夜半過ぎか、それとも未明近くか。いづれにしても、騒ぎが起きた様子はなかった。
(上手くいったようですね………)
侍従医たちは皇帝のそばで突っ伏して眠る皇后に気を使うばかりで、ベルトロワが死んでいることには気づかなかったようだ。
手を伸ばしてベルトロワの頬に触れる。彼の遺体はもう随分と冷たくなっていた。
――――死んでいる。
死んだ。死んだ。死んだのだ!皇帝は死んだ!
皇后の唇が魔性の笑みを作る。少しでも気を抜けば歓喜の声が漏れてしまいそうだ。いや、声を出すのはいい。だが今出すべき声は………。
静まり返った宮殿に、皇后の金切り声が響き渡った。
その夜、アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークは崩御した。歴史書によれば、その死因は落馬事故の後遺症であるとされている。