第六話 そして二人は岐路に立ち⑪
ベニアム・エルドゥナス率いるカレナリア軍左翼を撃破したアルジャーク軍は、次にその矛先を街道上に陣取る本陣へと向けた。カレナリア軍の主将イグナーツ・プラダニトが率いる本陣の数は十二万。それに対しクロノワ率いるアルジャーク軍は、緒戦での戦死者や負傷者を除いてもまだ二一万を越える兵力を温存している。加えてクロノワは左翼の陣からカレナリア軍の配置図を入手していた。
イグナーツは右翼との合流を急いでいたが、後方から兵糧が送られてくる関係上動くに動けない。右翼に伝令を出して、本陣の位置で合流するしかなかった。
だが結局は間に合わなかった。
右翼と合流する前にアルジャーク軍に強襲されたカレナリア軍本陣は、数で押され崩壊した。さらには本陣と合流するために近づいてきていた右翼もまた、立て続けに襲われ壊滅。こうしてアルジャーク軍は理想的な各個撃破を実現し、カレナリア軍二五万は消えてなくなったのであった。
「今回の戦いに勝因などありませんよ。ただ敗因があるだけです」
クロノワの策略を賞賛する人々に、彼はそうそっけなく答えた。カレナリア軍の敗北で致命的だったのは、イグナーツがせっかく集めた戦力を分散させたことだ。実際アルジャーク軍は軍事的になんら突飛なことをしたわけではなく、その失策に最大限付け込んだだけである。
イグナーツが戦力を分散させたのは、先行してくるであろうアルジャーク軍の騎兵隊を気にしたからである。いや、策略家としてのクロノワの影を気にした、といったほうがいいかもしれない。
気にさせる、その種をまいたのはクロノワかもしれないが、それを己のうちで肥大化させていったのはイグナーツである。となればやはり彼の「深読みのしすぎ」こそがカレナリア軍の敗因であり、アルジャーク軍はその敗因を最大限利用したにすぎない。
まさしく、「敗因なくして勝因なし」である。
討ち取られたカレナリア軍主将イグナーツ・プラダニトは、劣勢の中でも良く戦っていた。兵を鼓舞してまとめ上げ、戦場の流れを見極めてよく戦った。局地戦とはいえ有利に立つ場面もあり、アールヴェルツェをはじめとするアルジャーク軍の将官たちを唸らせていた。
「優秀な将というのは、敵にもいるものなのだな」
戦いの後の食事時、イトラと雑談していたレイシェルは、ふとそんなことを呟いた。彼らにとって優秀な将というのは、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールをはじめとする先達たちがまずそれに当たる。しかし身内に優秀なものが多くいると、それ以外が馬鹿に見えてくることがある。まるで敵には戦術も戦略も、なにも考えていないように思えてしまうのだ。
だがそれは敵を侮っているだけであり、敵には敵の戦術があり戦略があり思惑があるのだ。若い二人は致命傷を負う前にそのことに気がついたのであった。
しかしイグナーツがどれだけ頑張ろうとも全ては延命に過ぎぬ。むしろ彼が有能であったからこそ、延命に延命を繰り返すことができ、多くの兵士の命が失われることになった。結果論とはいえそう書くことができるのは、戦場の皮肉かもしれない。
戦場で倒れたイグナーツは全身傷だらけであり、どれが致命傷か分らない有様であった。胴体から切り離した彼の首はカレナリア国王の下に届けられ、体はカレナリアの国旗に包まれて丁重に葬られたのであった。
イグナーツ率いるカレナリア軍を完全に撃破したアルジャーク軍は、そこで二手に分かれた。クロノワはレイシェルに一軍を与えると、港や海軍拠点の制圧を命じたのだ。いうまでもなく、海路で補給物資を運んだ際の玄関口にするためである。もっともこちらは大した抵抗に遭うこともなく、じつに簡単に終わった。イグナーツは使える戦力をすべてかき集めて決戦に臨んでおり、逆に言えばそれ以外にまともな戦力は残っていなかったのである。
制圧した港や海軍拠点をレイシェルは大過なく収めた。無用な流血を避け、また部下には暴行と略奪を硬く禁じ、民衆の敵愾心と恐怖を鎮める。その一方で妨害行為や混乱に乗じた犯罪などには、断固とした態度で臨んだ。
彼は住民を必要以上に萎縮させることなく、また経済を停滞させることなく、補給の玄関口を整えていった。補給部隊を指揮しているグレイス・キーアやヴェンツブルグの執政官オルドナス・バスティエとの連携も見事で、この先アルジャーク軍がカレナリア国内で補給に窮することはまずないであろう。
拠点を制圧したカレナリア海軍については、ひとまず全ての乗員を陸に挙げ武装を解除させた。仕官以上の者については拘束したが、それ以外の兵士たちは名前を登録した上で解放した。海軍はクロノワが直々に再編するということをレイシェルも知っており、これ以上は自分の分ではないと判断したのだ。
「流石はレイシェルだ。俺には真似できぬ」
後にレイシェルの処置について聞き及んだイトラはそう言って友人を賞賛した。無論、彼の手腕はクロノワにとっても満足のいくものであった。
「海岸部はレイシェルに任せるとして、私たちはゆっくりと行きましょう」
兵糧も十分にあることですし、とクロノワは笑った。イグナーツが後方部隊から受け取った補給物資は、今やすべてアルジャーク軍の手中に収まっている。カレナリアの血税を丸ごと横取りした形になるが、捨て置いて腐らせてしまうよりはよほどいい。
クロノワ率いる本隊は街道上をカレナリア王都ベネティアナに向けてゆっくりと行軍した。これは示威行動であると同時に、送られてきたイグナーツの首を見たカレナリア政府から、なんらかの接触があるのでは思ったからだ。
無論、なにも動きがなくてもかまわない。アルジャーク軍が王都ベネティアナに到着してしまえば彼らは嫌でも動かざるを得ず、その時対応がまとまらず混乱していれば、恐慌状態のまま降伏へと傾いていくだろう。
なによりも、もはやカレナリアにまともな戦力は存在しない。南のテムサニスとの国境付近には、国境防衛のための砦である「ルトリア砦」がありそこにはある程度の兵が詰めていると思われるが、それを動かすとも思えない。動かしてしまえば南の国境ががら空きになるし、なによりも戦力の差がありすぎる。砦の戦力をおよそ一万と見積もっても彼我の戦力差はおよそ二十倍以上で、戦わせるだけ金と命の無駄である。
そんなことはカレナリア政府も重々承知しているはずで、つまり王都ベネティアナに向かうまでの間に野戦を仕掛けられることはまずないといっていい。ならば悠然と構えて歩を進めればよい。
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結局、カレナリア国王エルネタード・カレナリアは降伏を選択した。
実際それ以外に選択肢などないだろう。カレナリア国内にアルジャーク軍に対抗できるだけの戦力はもはや存在しないのだ。ならば敵軍と事を構えるためにはよその国の軍をアテにするしかない。
南のテムサニスか西のオルレアンか。だが今更助けを求めたところで時間的に間に合わないであろう。となれば国を捨て亡命するしかない。
しかしどちらに助けを求めたとしても、アルジャークに抗することができるとは思えない。アルジャーク帝国の版図は去年の大併合によって二二〇州となり、そしてこの度カレナリアを併合すればその版図は二八三州となる。テムサニスにしろオルレアンにしろ一国で対抗するのはまず不可能である。
さらに言えば亡命を受け入れた国は、それを理由にアルジャークから侵攻を受けるだろう。あまりにリスクが高く、そもそも亡命を受け入れてもらえない可能性のほうが高い。国境を越えた途端に捕縛され、そのままアルジャーク軍に引き渡されたとあってはいい笑い者である。
であるならば他者に運命を預けることなく、王者の誇りを保持して降伏を選んだほうが体面は良い。幸いなことにアルジャーク軍の総司令官はクロノワ・アルジャークである。彼はモントルム遠征の際に、降伏した王族を処刑することはなかった。降伏しても命が残るのであれば、それは最上の選択ではないだろうか。
降伏を伝える使者が陣に到着したのは、アルジャーク軍が王都ベネティアナにあと一日程度のところまで迫ったときのことであった。カレナリア政府内でどのような駆け引きと水掛け論がなされ、何人が胃の痛い思いをしたのかなどクロノワの知ったことではないが、とにもかくにも王都への攻撃布陣を整える前に相手が降伏してくれたことにクロノワは胸をなで下ろした。
(まあ降伏勧告はするつもりでしたが………)
純粋な軍事拠点への攻撃ならば否やはないが、人々が生活している都市への攻撃はクロノワの気分を重くさせる。率いているのが大軍である以上、どれだけ徹底しても戦場となる都市で略奪や婦女子への暴行が行われるのは目に見えており、それでは住民との間に軋轢が生じ占領後の統治に支障が出てしまう。
いや、そんな頭でっかちな理由はどうでも良いのだ。ごくごく単純な感情的問題として、クロノワは略奪や暴行といった戦場での行為が大嫌いで、それを制御することができないであろう自分の無能さに腹が立って仕方がないのだ。
軍規を犯した者を処刑し粛然とさせてみても、それはどこか自分の無能を棚上げした八つ当たりじみていて、さらにクロノワの気を重くさせた。
余談になるが、純軍事的な観点から考えると略奪や暴行を禁じることに大したメリットはない。そういった行為を黙認していれば兵士たちの士気は自然と上がるし、傭兵を雇う際に大金を用意する必要がない。
「戦って勝手に奪え」
と、つまりはそういうことだ。だから歴史的に見て、略奪や暴行を完全に禁じていた軍というのは少数である。
しかし今回はエルネタードが早期に降伏を決意したため、王都ベネティアナが戦場になることはなかった。双方にとって幸運な事と言えるだろう。すでにエルネタードの名で勅命が発せられているのか、王都内に混乱は見られなかった。ただ住民の多くは都市の中を往くアルジャーク軍に不安そうな眼差しを向けている。侵略者を歓迎できるわけもなく、こればかりは仕方がないだろう。
王都ベネティアナの王城に入ったクロノワの意識は、すでに次のテムサニスへの遠征に向いていた。占領したカレナリアの統治については、事前の予定通り連れてきた文官たちに任せればよい。略奪と暴行の禁止については、重ねて厳命していたが。
やっておかなければならない幾つかの大きな仕事を片付けると、クロノワは王城の地下にある「共鳴の水鏡」のある部屋へと向かった。
「お待たせいたしました、クロノワ殿下」
「いえ、お気になさらずに」
通信の相手はカレナリアの南の国境を守るルトリア砦の指揮官、ロフマニス・コルドムである。
「私がこの場にいることから分ると思いますが、エルネタード陛下は降伏を選択されました」
「承知しております。すでに話だけは聞いておりますので」
ロフマニスの態度は堂々としていた。敗戦国の将であることに引け目を感じている様子はなく、その立ち振る舞いは自然で目には力があった。
「正式な勅書が届き次第、カレナリアの国旗を降ろし、門を開けるつもりです」
その言葉からは己の職責に忠実であろうとするロフマニスの気位が窺えた。
「ロフマニス殿、カレナリアの国旗はまだ降ろさないでいただきたい」
クロノワはごく自然にそういった。しかし言われたロフマニスは明らかに動揺を見せた。
「それは………、どういう、意味でしょうか………」
カレナリアの国旗を降ろさないということは、アルジャーク軍と敵対するという意味である。それをクロノワが言い出すということは、つまりアルジャーク軍はどうあってもルトリア砦を攻撃するつもりなのか。降伏して砦を明け渡すといっているのに、アルジャーク軍はあえて戦って奪うというのか。
砦の兵を預かる身としては看過できないことだ。
「少しばかり悪巧みに付き合ってもらおうと思いまして」
ロフマニスの動揺にクロノワはもちろん気づいていたが、特に斟酌することもなく普通の調子で言葉を続ける。
「我が軍はこれからテムサニスへ遠征をします。詳しい日程はまだ決まっていませんが、近いうちに宣戦布告もなされるでしょう」
そのクロノワの言葉にロフマニスは今度こそ言葉を詰まらせ息を呑んだ。クロノワは、いやアルジャーク帝国は今まさにカレナリア王国を切り取ったばかりではないか。にもかかわらずその矛先をすぐさまテムサニスへと向けるのか。
それを強欲というべきなのか、覇気と称するべきなのか、ロフマニスは判断を付けかねた。それに今彼が考えるべきはそのようなことではない。
「それでテムサニス遠征と我が砦がカレナリアの旗を降ろさないことに、どのような関係があるのでしょうか」
彼が今気にかけるべきは、隣国の行く末やアルジャークのあり方などではない。彼が命を預かっている砦の部下たちのことだ。
「ルトリア砦が旗を降ろしていない状態でアルジャーク軍が南に進路をとれば、多くの人は『ルトリア砦攻略のための行軍だ』と判断するでしょう」
それはそうだろう。繰り返しになるがカレナリアの国旗を降ろさないということは、それはつまりアルジャークに敵対するという意思表示である。カレナリアという国を平定し安定した統治を行うためには、そのような反乱分子を放って置くわけには行かない。
「つまりテムサニスは、アルジャーク軍が国境に迫って来ても警戒を示さない」
まったくの無警戒、ということないだろう。偵察を活発にするぐらいことは、当然してくるはずだ。しかしそれ以上の事はしないだろうと、クロノワはふんでいた。
「なるほど。確かにテムサニスは軍を召集しており、いつでも動かせる状態ですからな」
テムサニスはアルジャークがカレナリアに宣戦布告した辺りから軍を召集し始め、現在では十五万規模の軍が臨戦態勢で待機している。これはどこかを侵略するための軍ではなく、アルジャークのカレナリア遠征による火の粉が飛び火してきた場合、それに対処するための軍だ。
この軍の初動が遅れれば、アルジャーク軍はテムサニス遠征において先手を取ることができる。
「我が軍がルトリア砦に接近したところで砦は降伏。ルトリア砦討伐軍はそのままテムサニス遠征軍に早代わり、というのがこちらのシナリオです」
そこまで説明を聞くと、ロフマニスは納得したように頷いた。クロノワの言う“悪巧み”とは、降伏するタイミングを次の遠征に利用させてくれ、とつまりはそういうことだ。アルジャーク軍に、というよりはクロノワにルトリア砦を力ずくで攻略する意思がないことを知り、ロフマニスは安堵の息を漏らした。
「承知いたしました。遠くからでも良く見えるように、大きな白旗を用意しておきます」
冗談をいう余裕も戻ってくる。クロノワも軽く微笑んで「それではよろしく」といい、通信を切った。
しかし、クロノワの思惑は外れることになる。ルトリア砦がカレナリアの国旗を降ろさないことに真っ先に反応したのは、南のテムサニスだったのである。