第三話 糸のない操り人形⑬
フロイトロース・フォン・ヴァーダーはこの当時まだ八歳で、当然のように子どもであった。しかし子どもであるがゆえに、敏感であったともいえる。少なくとも彼がこのときまだ子どもだったことが、時代と言う水面に一石を投じる結果となったのだから。
彼には姉がいる。つい最近、突然にできた姉だ。きれいで優しい、大好きな姉上だ。そんな大好きな姉上の様子がおかしいと思い始めたのは、二日前からだった。
なにがどう様子がおかしいのか、表現すべき言葉を少年は知らない。強いてあらわすならば「ズレ」だろうか。
ここではないどこかを見ているような気がするときがある。頭を撫でてくれる手からは、今までになかった硬さを感じる。笑いかけてくれても、その目にはどことなく悲しみが滲んでいる。
それを感じるのは、いつもほんの一瞬だ。次の瞬間には、いつもの姉上に戻っている。あるいは気のせいだと思うこともできる。けれどもその一瞬は決してなくならない。それが、言いようのない不安をつれてくる。
「どうして・・・・」
その「ズレ」てしまった理由など、少年は知らない。ただ「ズレ」てしまった結果だけが目の前にある。
そう、理由など分からない。だが、
「寂しそう、だった」
ただ一度、それもほんの一瞬だけ、姉上はとてもとても寂しそうな表情をしたのだ。ともすれば「気のせい」という、ありきたりな理由で埋没してしまいそうなその一瞬は、しかしフロイトの記憶に焼きつき離れることがない。
「笑って、欲しいな・・・・」
あの魔法使いに、自称極悪非道で意地悪な魔法使いに会ったことはその日の夜に姉上に話した。
「諦めるな」
と、言われたこと。そして嬉しかったこと。すべて話した。そのとき、姉上もとても嬉しそうだった。とても嬉しそうに笑ってくれた。
けれどこの二日、姉上の本当の笑顔を見ていない。笑いかけてはくれる。けれどもその笑顔には、どこか影があるように思ってしまうのだ。
「もう一度、見たいな」
あの笑顔を。どうすれば見られるのだろうか。
「歩ければ・・・・・」
歩ければ、歩けるようになれば、アズリア姉上は笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
「きっと」
喜んでくれる。
少年は頷いた。瞳には固い決意が宿っている。不可能に挑む決意を、こうもたやすくできるのはあるいは幼さゆえの特権かもしれない。
少なくともこのとき、舞台の外で放っておかれた一人の少年は、自らの足でその舞台に上がったのだ。
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なにやら物音がして、アズリアは目を覚ました。きちんとベッドに横になって寝ていたわけではない。どうやら色々と考えているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。季節柄肌寒いこともなく、風邪をひいてしまったという心配もない。
ともかく今はこの物音だ。
「何の音だ・・・・?」
物取りだろうか。そう考えてしかし即座に否定した。物音は断続的に、しかし絶えることなく聞こえてくる。そこからは自らの存在を隠す意図など微塵も感じられない。仮に物取りだとすれば、随分と度胸のある、しかし知恵のない愚か者であろう。
しかし万が一の事態を想定し、アズリアは愛用の魔剣を手にして部屋を出た。物音は寝静まった屋敷の中で断続的に響いている。
「どこからだ・・・・?」
音の出所を求めて、耳を澄ます。
「アズリア様」
声のした方に振り向くと侍女長が階段の下にいた。この物音を聞きつけて様子を見に来たのだろう。緊張した様子を見せていないので、何かしらの心当たりがあるのだろう。
「この物音は一体・・・・?」
そう聞く間も、物音は断続的に続いている。
「恐らくはフロイトロース様でしょう。いつもはベルを鳴らしていただけるのですけれど、何かあったのでしょうか」
その言葉でアズリアは現状何が起きているか、おおよその察しがついた。と同時にフロイトの部屋に急ぐ。思ったとおり、扉の向こうからは物音が聞こえている。
「フロイト、どうし・・・・・」
そこまで言って、言葉を失った。
彼の部屋は、当然のことながら明かりはついていない。しかし窓から差し込む青白い月明かりは、中の様子を窺い知るには十分であった。
そう、月明かりが部屋を照らしている。だからかもしれない。目の前の光景は、どこか現実感が薄く、幻想的であった。
それはある意味では予想通りの光景だった。ベッドから落ちたフロイトが、必死にもがいていた。だが、ベッドに戻るためにもがいているのではないと、アズリアはすぐに気がついた。
ベッドのふちに手をかけ、腕の力で体を持ち上げて、少なくとも立っているように見える姿勢をつくり、それから手を離す。だがしかしフロイトの足は主を支えることはなく、彼の体は崩れ落ち床に叩きつけられた。
(いったい何を・・・・!?)
アズリアは混乱した。寝床に戻りたいのであれば、体を起こしてからそのままベッドに倒れこめばよい。いや、それ以前にベルを鳴らせば侍女がやってくるのだ。
では今、彼はいったい何をしているのか。
彼の顔に、悲しみは浮かんでいない。怒りも絶望も焦りも苦痛も諦めも、そこには浮かんでいない。そこに浮かんでいるのは、金剛石の如くに純粋で美しく、そして強固な意志であった。
そこにいたのは一個の挑戦者であった。挑む壁は不可能と言う名の現実。だがそれゆえに、見る者は奇跡を期待するのかもしれない。
そのとき、フロイトロース・フォン・ヴァーダーは己の足で立とうと、必死でもがいていたのだ。そしてその姿はどうしようもなくアズリアの心を揺さぶった。
アズリア・フォン・ヴァーダーは理解している。フロイトロース・フォン・ヴァーダーが歩けるようになると言うことは、彼女が今まで積み上げてきたのもが無駄になると言う事だと、正しく理解している。
(それがどうした・・・・・!それがどうしたと言うのだ・・・・!?)
それでもなお、そんなことが気にならないくらい、彼女もまた期待したのだ。月明かりの下で必死にもがいている少年が、その二本の足で立って歩くという奇跡を期待したのだ。そしてその奇跡を起こすための魔道具は、今彼女の手の中にある。
「・・・・姉上・・・・?」
気が付けばアズリアはフロイトを抱きしめていた。彼の不思議そうな声が腕の中から聞こえる。
「・・・・なんで、泣いてるんですか・・・・?」
そうフロイトに言われて、アズリアは自分が泣いていることに初めて気づいた。いつ泣き始めたのか、まったく分からない。目の前の光景に、意識の全てが集中していた。
気づいてしまえば、後はあふれ出るだけだ。フロイトをさらにきつく抱きしめ、アズリアは泣いた。
(ああ、涙は雪どけ水のようだ・・・・・)
凍てついていた心は融け出し、後は流れていくだけ。
「フロイト・・・・・」
「・・・・はい・・・・?」
なんでこんなことを、と聞こうとしてやめた。字面の上とはいえ、彼が立ち向かったことを、こんなこと、なんて言いたくなかった。だから、
「頑張った、ね」
そういって、泣きながら彼の頭を撫でた。
「・・・・姉上に、笑って欲しくて・・・・」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。そこには締め付けられるような苦しさと、いいようのないくすぐったさが同居している。
「・・・・ありがとう・・・・」
もう、心は決まっていた。
「実はね、フロイト、魔法使いから預かったものがあるの」
言葉は自然と出た。そのせいか、口調がいつもより柔らかい。けれども気にはならなかった。思惑も何も関係ない。素の自分でいられることが心地よかった。
「魔道具『糸のない操り人形』。わたしも試してみたけどあれなら多分、フロイトも歩けるようになるよ」
「本当!?」
腕の中でフロイトが歓声をあげる。それが素直に嬉しい。
「本当。でも今日はもうダメ。しっかりと眠って、明日元気になったら、ね?」
フロイトは不満そうに、
「はぁい」
と返事をする。そのむくれた様子がなんとも可愛い。
フロイトをベッドに戻し、寝かしつける。興奮している様子だったが、やはり体は疲れていたのだろう。すぐに寝息が聞こえてきた。その無垢な寝顔に思わず微笑がもれた。柔らかい髪の毛をもう一度だけ撫でて、部屋を出た。
「アズリア様・・・・・」
部屋の外で見守っていた侍女長が心配そうに声をかけてくる。彼女にしてみれば聞きたいことや言いたいことがたくさんあるのだろう。魔法使いとやらのこと、魔道具のこと、そしてフロイトが歩けるようになったあとのアズリアのこと。
けれどもアズリアは何も言わなかった。ただ彼女の肩に、ポン、と手を置いただけだ。侍女長も、結局何も言わなかった。何か言いたそうにはしたが何も言わず、ただ万感の思いを込めて頭を下げた。
後に彼女はこう語る。
「あのとき、アズリア様は驚くほど穏やかな表情をしていらっしゃいました。そう、まるですべて分かった上で、その全てを受け入れるかのように。その表情を見たら、何もいえなくなりました」