第三話 糸のない操り人形⑪
アルジャーク帝国にはいわゆる貴族という階級は存在しない。しかしそれは名門や名家の存在を否定するものではない。いやむしろ貴族というものがいないからこそ、名門名家といった存在がより目立つようになった、といっていい。
例えばガンドール家。かのアルジャークの至宝、アレクセイ・ガンドールを輩出したこの家は、武門の名家として知られ、これまで幾人もの著名な武人や将軍を世に送り出してきた。
他にもさまざまな名門名家がアルジャークには存在している。文門の名家や有名な塾はこれまでに優秀な官僚たちを幾人も歴史の表舞台に送り出してきたし、政治や武芸のみならず芸術にも同様のことが言える。固有の領地を持たない彼らは、優秀な人材を輩出することでアルジャーク内での地位を確立してきたのだ。
そういう意味では、帝国学術院を卒業し官僚の道に入った彼も、名門の出身といえる。さらには名家の生まれでもある。彼の家は代々役人となる者が多いのだから。ただ、あまり有名であるとはいえないが。
「ここにおられましたか、先生」
そこは宮廷の敷地内にある図書館だ。アルジャーク帝国最大の図書館で、その蔵書数は三十万冊とも言われている。一般にも開放されているのだが、難しい歴史の専門書が並ぶこの辺りには人影はただ二人分しかない。
一人は、クロノワ・アルジャーク。先日モントルム遠征を成功させ、そして旧モントルム領の総督に任じられた第二皇子だ。
もう一人の男、そのクロノワが「先生」と呼ぶのは、オルドナス・バスティエ。アルジャークの歴史を編纂する官僚で、かつて彼の史学の教師を務めていた男だ。
「これはクロノワ殿下、それともモントルム総督閣下とお呼びしたほうがよろしいですかな?」
彼の口調にはおよそ愛想というものが感じられない。しかしクロノワはそのことを不快には思わなかった。むしろその口調は懐かしくさえある。
「どちらでもかまいませんよ」
「では殿下、遠征の成功と総督就任の義、おめでとうございます」
無愛想な口調のままオルドナスが祝辞を述べる。きっとこんなときまで無愛想だから出世しないのだろう。もっとも本人は気にしていないどころか、
「無用な気苦労を負うことがなく、むしろ幸いです」
とでも言うだろう。恐らくは無愛想なままに。
「ありがとうございます。先生もお変わりない様で安心しました」
「それで、このしがない歴史家に何か用ですかな」
そのあまりにも率直で単刀直入な物言いにクロノワは苦笑した。そしてまた、同時に安心する。
(本当にお変わりない・・・・)
宮廷で暮らし始めた当初、クロノワに味方はいなかった。それは彼に学問を授ける教師たちも同様で、ひどい者などはあからさまに侮蔑してきた。
史学を担当していたオルドナス・バスティエもまた、クロノワの味方ではなかった。しかし、敵でもなかった。彼は周りの喧騒にはまったく影響されず、ただ己の知識をクロノワに授けることにのみ集中した。クロノワに味方ができ、そして徐々に増え、それにともなって教師たちの態度が変わっていっても、彼の態度は一切変わらなかった。そのことを寂しく思いもしたが、
(それが、先生を信頼する最も大きな理由ですしね・・・・)
この頑固で偏屈な史学者をクロノワは心から信頼していし、またその信頼に足る人物だと見定めている。それで十分だ。
「独立都市ヴェンツブルグの執政院に九つ目の椅子を用意し、そこに座る人物の選出をモントルム総督に一任されていることはご存知ですか」
「ええ、存じております」
「つまり私が決めるわけですが、その執政官の椅子、先生に座っていただきたい」
そういった途端、オルドナスの眉がピクリと不快げに動いた。
「先生のその鉄面皮を崩せただけでも、この話を持ってきて良かったですよ」
クロノワは嬉しそうだ。
「先ほども申し上げたとおり私はしがない歴史家です。ここで書物を相手に仕事をしているのが分相応と言うものでしょう」
遠まわしにオルドナスはかつての教え子の申し出を断った。その顔が不快げに、いやバツが悪そうに見えるのは、あるいはクロノワの思い過ごしかもしれない。
「ヴェンツブルグはこれから大きく発展します。いえ、させます」
そうクロノワは言い切った。そう、己の野望のためにはヴェンツブルグを発展させねばならない。
「先生にはそのための下地作りと、成長にともなう混乱の抑制をお願いしたいのです」
これから先、ヴェンツブルグに集まる人とモノと金は急激に増えていく。それらを受け入れるため準備をしなければ、ヴェンツブルグは容易く無法地帯になってしまう。また準備をしていても混乱、とくに喧嘩や窃盗などの軽犯罪の増加は避けられないだろう。そのための対策も必要だ。
「私は歴史家です。政治家の真似事などとても。ましてそのような激動期であればなおのこと私には荷が重いでしょう」
オルドナスは頑なに拒否する。それをクロノワは不快には思わない。しかしだからといってここで引き下がるつもりもなかった。
「過去、急激な成長を遂げた国や都市は数多くあります。成功したもの、失敗したもの、先生はそういった事例をたくさんご存知なのではないですか」
オルドナスは何も言わない。それを見てクロノワは話を続けた。
「そういう成功した政策をヴェンツブルグで再現していただきたいのです。もちろん実情に合わせて、ですが」
「・・・・・私が持ち合わせているのは知識だけ。それで政を行えるとは思えません」
ただの謙遜ではない。自分の知識とこれまでの実績を鑑みるに、提案を述べることはできても、それを実際の状況に合わせて臨機応変に変化させるなど、自分にはできないと冷静に判断したのだ。
「それは他の執政官たちに任せればよいでしょう。先生に足りないものを彼らが補い、彼らに足りないものを先生が補う。それでよいのではありませんか」
「さて、他の方々が私の話を聞いてくださればよいのですが」
いきなりやってきたよそ者に、彼らが良い感情を抱くはずもない。そんな状況では少なからず腹芸が必要になるだろうが、その「腹芸」こそがオルドナスの最も苦手とする分野なのだ。
「心配ありませんよ。先生はアルジャーク帝国が派遣する執政官なのですから。権力と後ろ盾は使うためにあるんです」
そういうとオルドナスは、あまりに素直な物言いに苦笑した。
「やれやれ、どこでそのような考え方を学ばれたのやら」
「そうですね、先生からは教わりませんでした」
二人は顔を見合わせて笑った。その笑いを収めてからオルドナスが問うた。
「なぜそこまでヴェンツブルグに拘るのですか」
「陛下が不凍港を欲しておられること、先生もご存知のことと思いますが」
クロノワはまず一般論を答えた。しかしオルドナスはそれでは満足しない。
「では、貴方が拘る理由をお聞きしたい」
彼の目は鋭いく、真実だけを求めている。クロノワ・アルジャークと言う人物を、改めて見定めるために。
「・・・・・・私はかつて友人とある約束をしました」
それはイストとかわしたあの約束だ。
「いつか一緒に世界を回ろう」
何も知らない子どもが気まぐれにかわした口約束。そういってしまえばそれまでの話だ。けれどもイストはその約束を覚えていたし、クロノワも心のどこかでその夢が実現することを願っていた。
「けれどもその約束は、結局果たされることはありませんでした」
あの頃とは、立場が違う。責任が違う。そんな言い訳をクロノワはしたくない。
「だから、と言うのは変かもしれません。けれどもそれが正直な気持ちでもあります。自分のいる世界を広くしよう。そう、思ったんです」
オルドナスは何も言わない。そしてその視線の鋭さも変わらなかった。ただ、静かに見定めようとしている。そうクロノワは感じた。
「私はこの世界を狭くしてみせます。ヴェンツブルグは、そのための一歩です」
クロノワが自分の野望についてはっきりと宣言したのは、このときが二度目で、彼が二人目であった。
「どうやら、壮大な野望をお持ちのようだ」
オルドナスはかつての教え子が志している野望について、おおよそを悟った。「世界を狭くする」というその言葉と、ヴェンツブルグという立地。成功すれば、歴史的な事業になるだろう。
「浅学のこの身、どこまでお役に立てるか分かりませんが、執政官の話、お受けいたしましょう」
「ありがとうございます」
こうしてクロノワは己の野望を理解し、そのために働いてくれる最初の人物を得たのである。後にオルドナス・バスティエはこう述懐している。
「歴史を調べ、そして記録するだけの官僚だった私が、あの時歴史を作る側に回ったのだ。まったく、人生と言うヤツは数奇なものだ」