外伝 ロロイヤの遺産2
ロロイヤの遺産を探しに行くと思い立ったものの、カスイはすぐに旅に出られたわけではなかった。大陸に向かうちょうどいい船が出るのを待たねばならなかったのだ。そのため彼女の出立は思い立ってから二日後になった。
「ソウ、スイのこと、お願いね?」
そう言ってヒスイは旅支度をすっかり整えたソウヒに少しだけ心配そうな顔を向けた。まだまだ子供だと思っていたのに、こうしていきなり旅に出ることになってしまった。しかも、巻き込まれて。
「まあ、姉さんなら大抵のことは何とかすると思うけどね。勢いで」
ソウヒは苦笑しながらそう答えた。彼にしてみれば自分の知らないところで姉であるカスイの旅に同行することになったのだが、彼の顔に不満は見られない。勢いの有り余った、というか勢いだけで生きているかのような姉に振り回されるのは、彼にとってはもう日常茶飯事だった。ただ、「大変だ、大変だ」と言いつつも結構楽しんでいるというのが、両親の共通見解である。
「だから心配なんじゃない。あの子ったら、本当に行き当たりばったりなんだから……」
「それは僕にはどうしようもないです、はい」
ソウヒがぬけぬけとそう答えると、ヒスイは頬に手を当てて嘆息した。彼女がため息を付きたいのはカスイか、それともソウヒか、あるいは両方か。
ソウヒの身長は一六〇センチ弱。柔和な顔立ちと細い身体のせいで気弱な性格に思われがちだが、実際には随分と図太い性格をしていた。まあイストの息子で日頃からカスイに振り回されているのだ、ある意味当然だろう。
「……なんでもいいけど、ちゃんと帰ってくるのよ?」
「それはもちろん。ただ、とりあえず姉さんが起きてこないことには、帰ってくる以前に出発もできないという……」
そう言ってソウヒが乾いた笑みを浮かべると、ヒスイのほうも苦笑を浮かべた。そう、ソウヒが準備万端に旅支度を整え出発を待っているこの場にカスイの姿はない。まだ寝ているのである。
「…………寝坊したぁぁぁあああ!!!」
突然、大きな声がしてバタバタと廊下を走る音が聞こえドカドカと階段を下りる音がした。そして寝巻き姿のカスイが居間に飛び込んでくる。完全に寝起きで、寝癖なのか髪の毛が盛大に跳ねていた。
「ソウ、なんで起こしてくれなかったのよ!?」
「姉さん、起こしたら起きるの?」
「起きない!」
もはや何も言うまい、といわんばかりにソウヒは力なく頭を振った。彼の姉は今日も平常運転である。
「お母さん、ご飯!」
「先に顔を洗ってきなさい」
「そんな時間ないわ! 早くご飯!」
「ダ・メ・で・す。先に顔を洗ってきなさい」
母と娘の視線が擦れる。数秒で降参したのは娘のほうだった。「うう、お母さんの意地悪ぅ!」と言い捨てて、目に涙を浮かべながらカスイはまたバタバタと走って洗面所に向かう。バチャバチャと水を使う音がして、カスイはまた走って戻ってきた。心なし、さっきよりも顔がキリリとしているように見える。彼女が戻ってくると、食卓の上にはちゃんと朝ごはんが用意されていた。
「さっすがお母さん! いただきますっ!」
満面の笑みを浮かべながらカスイは朝食を頬張る。そんな娘の様子に苦笑しながら、ヒスイは櫛を持つと彼女の後ろに立った。
「ほら、頭を上げて。髪の毛を整えてあげるわ」
そう言ってヒスイは寝癖だらけのカスイの髪の毛を整えていく。最近はようやく自分でやるようになったが、少し前までは毎朝こうして娘の髪の毛を漉いたものである。それが明日からはやってあげようと思ってもできなくなる。そう思うと、やはり少し寂しかった。
「ご馳走様! ソウ、行くよ!」
「姉さん、その格好で行くつもり?」
朝食を食べ終えすぐにでも飛び出そうとするカスイに、ソウヒは呆れた口調でそう指摘した。彼女はまだ、寝巻き姿のままである。「ちょっと待って!」と言い残すとカスイは再び走って自分の部屋に向かった。
二階からはバッタンバッタンと部屋中をひっくり返すかのような音が聞こえる。「また片付けなくっちゃだめねぇ」とヒスイはどこかうれしそうに嘆息した。音が止んで少しすると、身支度を整えたカスイがまた走ってやってきた。
「ソウ、行くよ! コハク、お土産買ってくるからね!」
「うわ、姉さん、引っ張らないで!」
「……いってらっしゃい」
慌しく出て行く姉と兄に、末の妹であるコハクはイスに座ったまま手を振った。
「二人とも、気をつけるのよ~!」
港に向かって走るカスイとソウヒの背中に、ヒスイはそう声をかける。二人は振り返らなかったが、それぞれ手を上げて大きく振った。「分かった」という合図だ。
「……騒がしいな。行ったか」
玄関で二人の子供を見送るヒスイの横に人影が立った。夫であるイストだ。ヒスイは彼の横顔をチラリと見ると、目をふしてポツリと呟いた。
「……大丈夫かしら、あの二人」
「戦争をやっているわけじゃないんだ。まあ、大丈夫だろう」
大陸の中央部でアルテンシア統一王国とアルジャーク帝国が相対したその戦争を最後に、およそ二十年の間大陸では国同士が争う戦争は起こっていない。アルジャーク皇帝クロノワも統一王国国王シーヴァも、二人とも内政に力を入れており大陸の今の情勢は非常に安定していた。
「でも、大昔の魔道具職人が遺した遺産を探しに行くのでしょう? 危険はないの?」
「危険はないと思うぞ。ただ……」
「ただ?」
「ただ、ろくでもない結末になりそうな気はするな」
苦笑を滲ませながらイストはそう言った。ロロイヤは初代のアバサ・ロットだ。彼もまたその名を継いでいたから分かるが、歴代のアバサ・ロットはみな性格のひん曲がった連中ばかりである。ならばその初代が困った変人であることは、もはや確定事項である。
「そのうち疲れた顔をして帰ってくるさ。笑い飛ばす準備でもしておけばいい」
それだけ言うと、イストは禁煙用魔道具「無煙」を吹かし、白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出しながら工房のほうへ向かった。子供を心配する様子の見られない彼の態度にヒスイは少しだけむっとしたが、すぐに諦めたかのようにため息をついた。
(これが経験の差なのかしらね……)
実際に大陸中を旅して回っていたイストからしてみれば、旅をすることに関してヒスイほどの危機感を覚えないのはある意味当然なのかもしれない。どのみち、子供たちはもう旅立ってしまった。ヒスイにできることはない。
「さて! わたしもやることやらなくっちゃね」
二人がいつ帰ってきてもいいように。それが家に残る者のできることだろう。さし当たってヒスイは、散らかっているであろうカスイの部屋の後片付けから始めることにした。
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大陸の南端、シラクサの北にある貿易港「カルフィスク」。アルジャーク帝国が持つ、大陸東部では最大の貿易港である。帝都オルスクに最も近い港は独立都市ヴェンツブルグだが、規模を見ればカルフィスクの方が圧倒的に大きい。このカルフィスクがシラクサから見た場合、大陸の玄関口になっている。
今さっきシラクサからついたばかりの船から、二人の男女が降りてくる。シラクサの民族衣装である、ロングコートに似た筒型の長衣を羽織って腰帯で止めている。一目見て、シラクサ人であると分かる二人だった。とはいえ、カルフィスクでシラクサ人を見かけることは、もう珍しくもなんともない。クロノワが海上交易に力を入れてきた結果だった。
二人の男女はまだどちらも若かった。どちらもまだ十代だろう。年上なのは少女のほうだろう。二人とも顔立ちがよく似ていたから、姉弟なのかもしれない。
シラクサからやってきたカスイとソウヒである。初めて足を踏み入れる異国に、ソウヒは胸を高鳴らせる。だが彼以上に喜んで大騒ぎしそうな姉のカスイは、意外にも静かだった。
「姉さん、ほら見てよ。街の様子が全然違う」
大陸に来たんだ、とソウヒは興奮したようで呟く。そんな彼の後ろから「そ、そうね」と力のない声でカスイが返事をした。ソウヒが苦笑しながら振り返ると、そこには船酔いで顔を青くした姉の姿があった。
シラクサからカルフィスクまで、船でおよそ三週間。海が時化ることもなく、船旅は順調だった。ただし、快適とは言いがたかったようだ。少なくとも、カスイにとっては。船に乗っている間、カスイはずっと船酔いに苦しめられていた。そして陸に上がっても気持ちの悪さはすぐには治らず、こうして青い顔をしていると言うわけだ。
「それで、姉さん。これからどうする予定なの?」
清々しいまでの笑顔を浮かべながら、ソウヒはそう尋ねた。彼の目は未知への好奇心で輝いている。げっそりとした青い顔で、死んだ魚のような目をしているカスイとは対照的である。
「ソ、ソウ……、あんたねぇ……。アタシが死にそうになってるのよ? 少しは労わりなさいよ」
「そんなことより早く今後の方針」
全身で「具合が悪いです」と表現しているのに、それを「そんなこと」と切り捨てられてカスイは涙目になった。あまりの扱いの酷さにカスイは不貞寝したくなったが、そんな事をしたらこの弟のことだ、本当に一晩ここに放置されかねない。さすがに今日くらいは揺れないベッドの上で眠りたい。カスイは涙を堪えて考えておいた方針を口にした。
「まずはアルテンシア半島、統一王国を目指すわ」
アルテンシア半島は大陸の西端にあり、北西に向かって半島の先を伸ばしている。かつてこの半島には数々の都市国家が乱立したが、それを統一し一つの国家とせしめたのがシーヴァ・オズワルドである。
「統一王国? なんでまた?」
「世界樹の森について知っていそうな人に会うためよ」
世界樹の森についての記述があったロロイヤの覚書きは、「狭間の庵」の資料室に保管されていた。そして「狭間の庵」は代々アバサ・ロットに受け継がれてきたものだ。ということは歴代のアバサ・ロットであれば、この覚書きを読んだことがあるかもしれない。実際、イストは読んだことがあると言っていた。
彼は世界樹の森を探そうとは思わなかったようだが、歴代のアバサ・ロットの中には探してみた人もいるかもしれない。ただ、生憎とその手の記録は「狭間の庵」の資料室には残っていなかった。まあ、あそこは魔道具関連のレポートを保管しておくのが本来の用途だから、当然と言えば当然だが。
つまり、世界樹の森を探す上での手がかりは、まず第一に歴代のアバサ・ロットその人たちである。しかしカスイが知っている元アバサ・ロットは、父であるイストを除けば一人しかしない。それは彼の師匠であるオーヴァ・ベルセリウスだ。
そしてイストから聞いた話によれば、オーヴァはシーヴァのところに身を寄せている。とはいえイストは〈大崩落〉の少し前に彼と別れてから、およそ二十年間なんの連絡も取っていない。今もまだ彼がシーヴァのもとにいるのかは不明だが、なんにしても手がかりは今のところこれしかない。それに、行ってみればなにか分かることもあるだろう。だからまずは統一王国へ、アルテンシア半島へ行くとカスイは言った。
「じゃあ、まずはルティスだね」
頭の中に世界地図を描きながらソウヒはそう言った。ルティスは大陸の西側にある、この世界でも有数の貿易港である。そしてアルジャークと統一王国の交易の拠点になっている港でもあった。その関係で、カルフィスクとルティスを行き来する船は多い。
そう、カルフィスクとルティスは共に貿易港であり、そこを行き来する手段は船になる。つまり、船旅だ。
「まだ時間もあることだし、船を探してくるよ」
「いぃ~やぁ~! 船はいやぁ~!」
ほとんど悲鳴を上げながらカスイは歩き出そうとしたソウヒの腰にしがみ付いた。シラクサからの船旅の間、船酔いで散々な目に遭った彼女は必死である。この上、明日からまた船に乗るようなことになれば軽く死ねる自信があった。
「姉、鬱陶しい!」
腰にしがみ付いて行かせまいとする姉をソウヒは鬱陶しげに引き剥がそうとする。だがカスイは離れない。さっきまでゲッソリしていたのは嘘だったのではと疑いたくなるくらい、彼女は力一杯ソウヒにしがみ付いていた。
「だいたい、船を使わないのならどうするのさ?」
「歩く!」
「却下」
「じゃあ走る!」
「……それを本気で言える姉さんをある意味尊敬するよ」
そう言ってソウヒは嘆息した。しかしながら結論は変わることなく、次の日、ソウヒは嫌がる姉の首根っこを引っつかんで、あらかじめ話をつけておいたルティス行きの船に乗った。カスイは最後まで抵抗したが、しかしその抵抗も本気ではなかった。姉が本気で抵抗すれば、ソウヒにそれを抑え込む術などないのだから。
彼女とて、頭の冷静な部分ではこれが一番良いと分かっているのだ。陸路を行けば時間がかかるだけではなく危険が多くなる。シラクサの人間が珍しい地域も多い。それに比べ海路は、特にアルジャークが管理する海路は安全で、またシラクサの人間にもなれている。客観的に考えれば、海路が使えるのに陸路を行くなんてありえないのだ。
幸いと言うべきか、外洋に比べて陸地近くの海は波が低い。そのため大陸の縁に沿って進むカルフィスクからルティスまでの船旅は、シラクサからのそれに比べれば比較的快適だった。
「ここがルティスかぁ……。華やかな街だねぇ……」
ルティス、というのは本来「ルティス島」のことである。ただ、今では対岸の街も含めてルティスと呼ばれている。
華やかな街、というソウヒの感想は的を射ていた。実際、かつては「世界の富はルティスに集まる」と言われたほど、ルティスは栄華を誇っていた。今は流石にそこまでの栄華はないが、それでもアルジャーク帝国の重要な交易拠点として栄えている。
ルティスについてもう少し説明しておこう。ルティスはもともと、オークトランドという国の一部である。それが、教会と結びつくことによってその後ろ盾を得、半ば独立した貿易港としての地位を確立していった。
しかし〈大崩落〉が起きて状況が変わる。権威を失墜させ瓦解した教会に変わってルティスの新たな後ろ盾となったのがアルジャーク帝国だった。
ルティスには「ルティスの至宝」と讃えられる美しい令嬢がいた。総館長の娘で、名をマリアンヌと言う。クロノワは彼女を側室に迎えることでルティスと姻戚関係を結び、この世界有数の貿易港をアルジャークの勢力圏に引き込んだのである。
さらにクロノワはルティスをオークトランドから独立させている。オークトランドの宗主権を認める形で自治都市にしたのだが、こうして半ば独立していたルティスを完全に独立させたのである。
オークトランドの側にもメリットがある。ルティスはアルジャークと統一王国の交易の重要な拠点になっている。そのため、人・モノ・金が桁違いに集まってくるのだ。そしてそれらのものが陸路でルティスを目指した場合、必ずオークトランドを通ることになる。これは大きなメリットと言えた。
少し先の話になる。アルジャーク帝国の歴史の中で、初めて大掛かりな海洋進出を果たしたのは言うまでもなくクロノワ・アルジャークである。その功績を讃えられ、彼は死後に「海帝」と諡号された。
ただ、クロノワが始めた海洋交易事業を完成させ、アルジャーク帝国の海における立場と権益を揺るがないものにしたのは、彼の息子であると歴史家たちは評価している。その息子の名はレイネオール。クロノワとマリアンヌの間に生まれた子供だ。
そして彼がアルジャークの海洋交易事業の指揮を取るために拠点としたのが、母の故郷でもあるルティスだったのである。アルジャークが統一王国に対して、少なくとも海上においては優位を保ち続けることができたのは、レイネオールの築いたもののおかげだと言われている。
加えて、地理的な条件もあってレイネオールは統一王国とのパイプ役も兼ねることになるのだが、そのことについて本人は後年「誤算だった」と苦笑気味にこぼしたそうだ。
閑話休題。ルティスのことはこの程度でいいだろう。〈大崩落〉によって世界のありようが変わっても、ルティスが重要な交易拠点であることは変わらなかった。そのおかげでルティスは栄え、街並みはそれ自体が観光名物になりそうなくらい綺麗だった。だからソウヒがその街並みを見て「華やか」というのはまったくその通りなのだが、残念なことにその街並みを楽しめていない人間が彼の隣にいた。
「うげぇ……。ぎもぢわるい……」
青い顔をしながら乙女らしからぬだみ声でカスイはそう言った。言うまでもなく、船酔いである。どうやら彼女の身体は船旅と徹底的に相性が悪いらしい。
「呪ってやる……、呪っているわ……!」
嫌がる自分を無理やり船に乗せた弟を、カスイは恨みがましい目で睨んだ。しかしソウヒはどこ吹く風である。あまつさえ、こんな言葉を返した。
「僕は生まれてこのかた、ずっと姉さんに呪われているんだと思っていたよ」
まあ、なにはともかく。二人はルティスまで来た。アルテンシア半島は、もうすぐそこである。
ではまた来週。