第十話 神話、堕つ⑱
「神殿も静かになりましたね………」
枢密院を構成する枢機卿の一人、テオヌジオ・ベツァイは沈痛な面持ちでそう呟いた。アナトテ山にある教会の神殿。これまでは参拝者も含め大勢の人々で賑わっていたはずのこの場所は、今は閑散としていて人の気配がしない。
原因は言うまでもなく、アルテンシア軍の再襲来だ。
聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナの活躍により、一度は神聖四国の外へ撤退したアルテンシア軍であったが、つい最近サンタ・ローゼンへと再び侵入し、ここアナトテ山を目指して猛進してきている。
これを迎え撃つべく、十字軍は造営を進めていた防衛拠点にてアルテンシア軍に対して決戦を挑んだ。しかし結果は惨敗。三重にめぐらせていた防衛線はアルテンシア軍に突破されてしまった。
ただ暗い話題だけではない。十字軍皆ことごとく討ち死にかと思われたその時、奇跡的にもアルジャークの騎馬隊が戦場に駆けつけたのである。アルジャーク軍は聖女シルヴィアが率いていた十字軍本隊を回収しそのまま撤退した。
用意しておいた防衛拠点が簡単に突破されてしまったとはいえ、シルヴィアは見事にアルジャーク軍が到着するまでの時間を稼ぎきったのである。
さて、十字軍とアルジャークの騎馬隊は後退を続けてアナトテ山の麓近くまで退いた。その日の夕方近くにはアルジャーク軍の歩兵部隊およそ六万も無事に合流し、これでアルジャーク軍は全軍が揃ったことになる。
アルジャーク軍の到着と聖女シルヴィアの健在は、これまでアルテンシア軍に圧倒され続けてきた教会陣営にとって待ちに待った喜ばしい知らせであった。この知らせを聞きつけたのか、先の戦いで敗走した十字軍の兵士たちも聖女の下に集まり始め、十字軍は五万程度まで戦力を回復させることが出来た。
アルジャーク軍と十字軍をあわせた戦力は、およそ十四万。もちろんアルジャーク軍と十字軍では兵士の練度に差がありすぎるから、この数をそのまま戦力に換算して数えることは出来ない。アルジャーク軍九万が主力になるのだろうが、それでも最低限アルテンシア軍八万弱に対して、数の上での優位は手に入れたことになる。
まあ、なんにしても反撃の準備は整ったのだ。本来ならば喜ぶべきことなのだが、先ほども述べたとおり神殿の中は閑散としていて人気がない。
ただ、ある意味それは当然のことでもある。神殿の近くが戦場になるというのであれば、参拝者の足が遠のくのも当たり前である。
またアルテンシア軍が目指しているのはこの神殿なのだから、ここで働いている女性などは早いうちから避難してもらっている。これは御前街にも同じことが言えた。シーヴァ・オズワルドがこれまで無辜の民に狼藉を働いたという話は聞かないが、しかしだからといって迫り来る敵軍を前に、泰然と腰をすえていられる者などそう多くはないのである。
そしてそれは、教会の中枢とも言える枢密院を構成する枢機卿たちにも、同じことが言えた。
「アルジャーク軍が間に合い聖女を救出したということは、神々はまだ我々を見捨ててはいないということ。にもかかわらず枢機卿の職責にある者がそれを放り出して逃げるとは………」
全く嘆かわしいことです、とテオヌジオは嘆息した。
アルジャーク軍が到着した際、枢機卿の何人かは、
「早く打って出てアルテンシア軍を追い払ってくれ」
と泣きついたようだが、この辺りの地形に明るくないことを理由に断られた。アルジャーク軍はアナトテ山近くの草原を決戦の場として定め、演習などをして兵を慣らしながらアルテンシア軍を待つという。
それはすなわちアルテンシア軍がアナトテ山のすぐ近くまで、神殿の喉もと近くまで迫ってくることを意味している。その事に恐怖した枢機卿たちは我先にと神殿から逃げて行ったのである。またアルジャークへ交渉に赴いたルシアス・カント枢機卿もまだ戻ってきていない。恐らくだが、アルテンシア軍が完全に撤退するまでは神殿に戻る気はないのだろう。
現在、神殿に残っている枢機卿は、テオヌジオとカリュージス・ヴァーカリーの二人である。さらに神子ララ・ルー・クラインも避難の諫言を頑として聞き入れずに居残っている。そしてこの「神子さえも神殿に残った」事実が、逃げ出した枢機卿たちに対するテオヌジオの怒りと失望を大きくしていた。
「テオヌジオ卿、失礼します」
同僚のふがいなさを嘆くテオヌジオの執務室に、鎧を着込んだ数人の男が入ってくる。神殿衛士と呼ばれる、神殿内の警備を担当している者たちだ。
神殿で働いていた多くの人が今は避難している。神子を置いて逃げていった彼らの信仰の弱さをテオヌジオは嘆いていた。逆を言えば、今神殿に残っているのは篤信の信者たちだけである。
「どうかしましたか?」
「例の計画ですが、賛同者が五十名ほどになりました」
そのご報告に、と真ん中に立った壮年の衛士が頭を下げた。彼は長年の間衛士をして神殿を守ってきた人物で、その温厚な人柄から部下たちからも慕われている。
「それは素晴らしいことですね」
「はい。それで、カリュージス卿のことですが………」
自分と同じく神殿に残った枢機卿であるカリュージスに、テオヌジオはひとかたならぬ尊敬と感謝の念を抱いている。そんな彼にも自分の計画に是非とも賛同してもらいたいと、テオヌジオは思っていた。
「カリュージス卿には、私から直接お話をしようと思っています」
問題はそのタイミングですね、とテオヌジオは少し困ったように笑った。彼のその笑みはまるで無垢な子供のように純粋だった。
テオヌジオの見たところ、カリュージスには固い信念がある。彼がその信念を翻すことは決してないだろう。だからカリュージスに計画のことを話す際には、くどくどとした説得は意味をなさない。内容を説明し、それが彼の信念に合致するか反していなければ、カリュージスは賛同してくれるだろう。
しかしもし信念に反しているとすれば、どれだけ説得しようともカリュージスが計画に賛同してくれることはない。それどころか全力を挙げて計画を阻止しようとするだろう。彼にはそれだけの力がある。
カリュージスは元々、神殿内の警備を監督する立場にいる。神殿にいる衛士は全て彼の部下ということになるし、そのうち三分の一は彼の子飼いといっても過言ではない。特に神子の警備など、教会の中枢はほとんど全てカリュージス子飼いの衛士によって守られていた。
衛士たちの多くも逃げ出してしまった現在においても、カリュージス子飼いの衛士たちは全員神殿に留まっており、主への忠誠の高さが窺えた。
この「主」というのが神子ではなくカリュージスである、というのがテオヌジオにとっては少しばかり不満であった。
まあ、それはともかくとして。現在神殿に残っている衛士たちの中で、カリュージスの子飼いは実にその四分の三を占めている。つまりカリュージスがその気になれば、テオヌジオの一味を制圧することなど容易いのだ。
「カリュージス卿に話をするのは、計画を実行に移す直前、あるいは実行に移してからでもいいでしょう」
賛成も反対も、カリュージスならば即決であろうとテオヌジオは思っている。ならばここは秘密裏にことを進め、計画を破綻させるようなリスクは犯すべきではない。
「分りました。ではカリュージス卿に近い衛士たちには………」
「ええ、計画のことは伏せておいてください」
彼らに計画のことを話せば、間違いなくカリュージスの知るところとなる。それに彼らの態度はカリュージス次第だ。個別に全員を説得する必要などない。
「それで、その………、神子さまは………?」
「………一度お話しましたが、良いお返事はいただけませんでした」
「そんな………!」
テオヌジオと話している壮年の衛士が悲痛な声を上げる。彼の後ろにいる若い衛士たちにも動揺が生まれた。テオヌジオの計画には、神子の協力が不可欠だ。その協力が得られないとなると、随分と荒っぽい手段に訴えるしかなくなる。
「もちろんご協力いただけるよう、誠心誠意努力するつもりです」
ですがそれでも神子さまのご協力が得られないのであれば、とテオヌジオは静かに続けた。穏やかなそのたたずまいは、彼の決意と覚悟が固いことを示している。
「その時は、私が罪を背負いましょう」
穏やかな、しかし確固とした声でテオヌジオはそういった。目の前にいる衛士たちを見つめる彼の目は、どこまでも優しげだ。
アルテンシア軍が迫り来るこの状況下、テオヌジオだって少なからぬ恐怖を感じている。ならばこの衛士たちや計画に賛同してくれた人々だって、やはり彼と同じかそれ以上の恐怖を感じているに違いない。
それでも彼らは残ってくれた。それでも彼らは教会を見捨てなかった。それはテオヌジオにとって何よりも嬉しいことだった。
「彼らを救いたい。いや、彼らは救われるべきだ」
テオヌジオはそう思っている。そしてそのための計画だ。
「ともすれば、神々は私を断罪なさるかもしれません。ですがあなた方のことは受け入れてくださるでしょう」
神子の協力が得られなければ、テオヌジオは大罪を犯すことになる。いや、そもそも彼の計画自体が大罪かもしれない。しかし神殿に残った篤信の信者たちを救うには、これしかないとテオヌジオは考えている。
「テオヌジオ卿………」
「もはや現世に救いはありません」
救いのある場所。それは………。
――――神界の門の、向こう側。
**********
「さて、どうしましょうかね………。本当に………」
困ったように苦笑いしながらクロノワは頬をかいた。いや、今のクロノワは割と本気で困っていた。
「どうするも何も、アルテンシア軍と雌雄を決する以外にないのではありませんか」
そう発言したのはアルジャーク軍の若き将軍、レイシェル・クルーディだ。彼のほかにも、アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍を筆頭に、イトラ・ヨクテエル将軍、カルヴァン・クグニス将軍もこの場に集まっていた。
アルジャーク軍の主要人物全てがとあるテントに集まっていた。十字軍の将たちを交えた作戦会議の前に、アルジャーク軍としての方針を決めるために今彼らはこうして集まっているのである。
アルジャーク軍としての方針とはいっても、アルテンシア軍と戦う上で主力となるのは彼らなのだから、ここで決まった方針がそのまま連合軍の方針になるといっても過言ではない。またそうならないとしても、会議の主導権を聖女に、ひいては教会に奪われないようにするためにも、ここでアルジャーク軍の方針を固めておかなければならないのだ。
「まあ、そうなんですけどね………」
だというのに、その方針を決定すべきクロノワの態度がどうにも煮え切らない。理由は簡単だ。何のために戦うのか、また何を目指して戦うのか。それを描ききれないのだ。
教会がアルジャーク軍に求めていることはただ一つ。「アルテンシア軍を追い払うこと」である。ただ、どこまで追い払えばいいのか、それが曖昧だ。
例えばアルテンシア軍をサンタ・ローゼンの外、つまり神聖四国の外へ追い払ったとする。この場合、アルテンシア軍はベルベッド城まで後退するだろう。これで万事解決、アルテンシア軍の脅威は取り払われた、と教会は思うだろうか。
思うわけがない。それどころか三度目の襲来を心配して、ベルベッド城を攻略するようアルジャーク軍に求めるだろう。
さて、ここで考えるべきは国際情勢だ。ベルベッド城があるのはサンタ・ローゼンの隣国フーリギアである。この国はベルベッド城が落ちた際にアルテンシア統一王国に降伏し、さらにはほとんど同盟国のような関係になっている。教会や神聖四国からしてみれば裏切り者と言ってもいい。
そのフーリギアにアルジャーク軍が、いや十字軍の援軍が攻め込むことになれば相手は当然恐怖を抱くだろう。どれだけ「アルテンシア軍が標的である」とクロノワが主張しても、フーリギアはそれを信じるまい。
「アルテンシア軍がやられれば、次は自分たちだ」
と誰でもそう思う。教会と神聖四国が裏切りものであるフーリギアを許すことはありえない。アルテンシア軍が後退すれば、たとえアルジャーク軍がやらずとも十字軍がこの国を蹂躙する。見せしめと富を奪うために。
そうなればフーリギアは国を挙げてアルテンシア軍を援護するだろう。軍を組織しアルテンシア軍に合流することさえするかもしれない。
またフーリギアより先に降伏したシャトワールとブリュッゼにとっても他人事ではない。フーリギアの次は自分たちが標的にされるのだから。やはり軍を組織し、援軍を出すぐらいのことはやってもおかしくはない。そうなればアルジャークは四ヶ国を相手に戦わなければならなくなる。
当然のこととして、激しい抵抗が予想される。アルジャーク帝国の国益に直接寄与しないのに、そのような激しい戦いに挑まなければならないのかと考えると、クロノワのやる気は加速度的に減衰していく。
その上、アルテンシア軍をベルベッド城から撤退させたら、調子に乗った教会はそのまま半島に攻め込んで統一王国を制圧して来い、とか言いそうである。アルジャークの国益にはまったく寄与しないというのに。
「もちろんそこまで教会のために働くつもりはありませんが………」
しかしそういう要請があるのは確実だろう。これを波風立てずに断るのはなかなか難しい。最も良いのはそういう要請をさせないことだが、そのためには次の一戦でアルテンシア軍に甚大な被害を与え遠征を断念させ半島に引き返させるしかない。
相手がアルテンシア軍でなければアルジャーク軍が出張る必要もないだろう。それでもフーリギアなどは十字軍によって蹂躙されるのだろうが。
「そうなったらなったで、またアルテンシア軍が出てくるかもしれませんけど」
同盟国が蹂躙されるのをシーヴァは許さないだろう。なんだか思考が混乱してきたクロノワは軽く頭を振った。
「次の一戦に我々が勝てば戦局が泥沼化する可能性が高い。なんともまあやる気が出ませんね」
「言葉が過ぎるぞ、イトラ」
レイシェルが同僚を嗜める。しかしイトラの言葉は現状を適切に表現していた。次の戦いにアルジャーク軍が勝てば、恐らく戦局は泥沼化してしまう。少なくとも、アルテンシア軍が勝った場合よりはその可能性が高い。
「では、わざと負けますか」
そういったのはカルヴァンだった。本来武人とは負けることを嫌がるものだが、彼は目先の勝利よりも国益を優先するようアレクセイから教えられてきた。戦局が泥沼化してもアルジャークの国益には結びつかない。ならばわざと負けてでも、この戦争をさっさと終結させるべき。カルヴァンはそう考えたのだ。
「それでもいいんですけどね………」
やはりクロノワの態度は煮え切らない。彼としても、わざと負けてさっさと本国まで撤退してしまうのはアリだと思っている。問題はシーヴァ・オズワルドが強すぎる、ということだ。
「陛下を戦場で危険にさらすような策は取るべきではない」
アールヴェルツェが重々しくそう発言した。もちろん戦場に完全な安全圏などないが、それでも負けるつもりで戦えばアルテンシア軍の牙がクロノワに届く可能性が高くなってしまう。
クロノワの死は、アルジャークにとって最大の損害になる。それだけはなんとしても避けなえればならない。
一同は、腕を組んで黙り込んだ。
(結局………)
結局、最初にレイシェルが言ったとおり全力を挙げてアルテンシア軍と戦う以外の選択肢などないようだ。負けたのであればそのまま逃げ帰ればよい。勝ってしまったら、その時はそのときだ。その後どうするかは勝ってから考えれば良い。クロノワがそう判断を下そうとした、まさにその時………。
「勝ってもうまみがないとは、やっかいな戦争に手ェ出したもんだな、クロノワ」
ここにいるはずのない、そしてクロノワにとって忘れようのない声が響いたのだった。
ローブを目深にかぶった三人の不審者。彼らは突然に現れた。まるで最初からそこにいたのに、だれも気づかなかったかのように。
「何者だ!? 貴様!!」
「近衛兵! 何をしている!」
突然の不審者に将軍たちは立ち上がってクロノワの前を固め、さらに警備をしているはずの近衛兵を大声で呼ぶ。なぜ今まで気づかなかったのか。どうやってここまで侵入したのか。
「まかり間違えば陛下が暗殺されていたかもしれない」
全く同じことを四人の将軍は考えていた。怒りと自責と疑問が彼らの中で渦を巻くが、その全てを押しのけ四人の将軍は不審者の挙動に細心の注意を払う。
怪しげな魔道具を持っていることは間違いない。アルジャーク軍の陣の最奥まで来た理由は、要人の暗殺かそれとも情報の奪取か。いずれにしてもそれは秘密裏に行うべきでその能力もあるだろうに、ここで自分たちに姿を見せたということは、それだけ自信があることの裏返しだろうか。
駆けつけた警備の兵士たちが三人の不審者を取り囲み槍を突きつける。もはや逃げ場はない。それなのに、ローブを目深にかぶっているせいなのか不審者たちに動揺は見られない。
殺せ、とアールヴェルツェが命じるよりも早く。
「まったく、君はいつも突然に現れる」
クロノワの、緊張感を感じさせない呆れた声が響いた。それを聞いて不審者の一人が笑ったようにイトラには見えた。
「久しぶりだな、クロノワ」
不審者が目深にかぶったローブを取る。現れたのは若い男の顔だった。
「久しぶりだね、イスト」
クロノワとイスト。こうして二人はモントルム以来の再会を果たしたのだった。