第十話 神話、堕つ⑯
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これも読んでくださる皆様のおかけです。
物語もそろそろ佳境。どうぞ最後までお付き合いください。
シルヴィア・サンタ・シチリアナに聖女の称号が授与された、という情報をアルテンシア軍が得たのはベルベッド城に到着してからのことだった。
「だとすると、あの襲撃部隊を指揮していたのはやはりシルヴィア姫か………」
そう呟いたのはヴェート・エフニート将軍だった。補給部隊の護衛に向かうも一足遅く、煙に紛れて遁走していく敵部隊の姿は今でもはっきり覚えている。あの時も「もしかしたら」と思っていたが、どうやらその勘は当っていたらしい。
「そのシルヴィア姫が聖女、か」
何を大げさな、とも思うがこうして実際にベルベッド城まで後退してきているのだ。敵の思い通りになってしまったことは否めない。
(あと一日、いや数時間早く後方部隊と合流できていれば………!)
今日のような展開にはなっていなかっただろう。そう思うと、どうしても悔いが残る。そしてそれは、シルヴィア姫に初めての勝利を献上してしまったガーベラント公も同じであろう。
二回の敗北とベルベッド城までの後退。このなかでアルテンシア軍が失ったものはそう多くはない。人的損害は軽微だし、物資の損失も取り返しのつかない量ではない。手ごろな拠点を確保し、敵の拠点はあらかた破壊してある。戦略的に見て、アルテンシア軍の優位は揺らいでいないのだ。
しかし教会と十字軍の受け止め方は違う。どれだけ小さくとも勝利は勝利。再襲来するのだとしても、敵軍を神聖四国の外に追い出したことは事実。それを前面に出して強調し、戦力的な不利を隠そうとしている。
虚構に縋り付いて大騒ぎしているようにも見えるが、その大騒ぎの度合いが半端ではない。教会という、国家とは異なる一種神秘的な権威がそれを主導しているせいで、根拠が貧弱でも信者たちはそれを疑わない。停止した思考と集団心理のおかげで、馬鹿騒ぎは目下拡大中だ。
まあ、敵陣営の人間がどれだけ騒ごうがかまわない。それより問題なのは、その騒ぎが大きすぎるせいなのか、「聖女」が実像よりも大きく見えてしまうことだ。現に将軍であるヴェートでさえ、「聖女」の名を前にして身構えてしまう。一般の兵士たちの動揺はまだ表には出ていないが、それでも各自が焦りのようなものを感じていることだろう。
そんな中、変わらずに泰然としているのはシーヴァ・オズワルドただ一人である。
「いつの間にか魔王になってしまったな」
聖女にまつわる一連の話を聞いた後、シーヴァは面白そうに笑いながらそういった。さらに主君を魔王呼ばわりされて憤る臣下たちを、彼はこういって宥めた。
「魔王なれば魑魅魍魎のほうから我を避けていくだろう。我が軍に災厄は降りかからぬと教会が保障してくれたようなものだ」
以来、シーヴァに聖女を気にした様子はないし、彼のほうからその話題を振ってくることもない。淡々と再進攻に向けた準備を行っている。
実際のところ、兵士たちに表立った動揺が見られないのは、シーヴァのこの泰然とした態度によるところが大きい。兵士たちの中には、
「陛下が気にされないのであれば、そういうことだ」
などと自分に言い聞かせて落ち着こうとしているものもいた。
まあ、それはともかくとして。ベルベッド城に戻ったアルテンシア軍は、十分な休息を取り万全の準備を整えてから進攻を再開した。ただし今度は見せ付けるような、意図して速度を落とした進軍ではない。もちろん兵が疲れ果てて戦闘に支障が出るほどの速度は出さないが、それでもシーヴァが「全力で」と宣言していたように、疾風と呼ぶに相応しい速さであった。
もっとも、最古参の兵士たちによると、
「革命の初期に比べればまだまだぬるい」
ということらしい。
遮るものも敵対する軍勢もいない国境を破り、アルテンシア軍はサンタ・ローゼンに再び侵入する。シーヴァが破壊しつくした、もとは砦であった廃墟の脇を通り抜け鉄の軍勢は疾駆する。
目指すはアナトテ山。
「そこで決着をつける」
シーヴァはそう決めていた。
**********
――――アルテンシア軍、動く。
その報告がもたらされた時、十字軍の幕僚たちは殴られたわけでもないのに腹に衝撃を感じた。
(ついに来たか………)
慌てふためく幕僚たちの中、最も落ち着いていたのは十字軍の総司令官にして聖女たるシルヴィアだった。しかしこれは彼女の胆力が特別に優れていたためではない。幕僚たちが、ベルベッド城まで後退したアルテンシア軍がそのまま撤退してくれるのはでは、という淡い願望を抱いていたのに対し、シルヴィアは必ず再襲来すると覚悟していた。彼女と幕僚たちの差は、そのまま心構えの差であるといっていい。
実際、こうして早い段階でアルテンシア軍の動きを察知できたのもシルヴィアの備えがあればこそだった。彼女は斥候を出してベルベッド城を監視させていたのである。また国境近くに伝書鳩を用意しておくことで、かなり速く情報の伝達がなされた。
(アルジャーク軍は、間に合わなかったか………)
アルテンシア軍が再び動き出すまでの間にアルジャーク軍が到着するというのが、シルヴィアが思い描く最上のシナリオであった。しかし今現在、アルジャーク軍はまだ十字軍と合流してはいない。つまり十字軍は単独で、迫り来るアルテンシア軍を迎え撃たねばならないのだ。
(まあ、まだアルジャーク軍が間に合わぬ、と決まったわけではないが………)
聞くところによれば、随分と近くまでは来ているらしい。もしかすると、ラキサニアを抜けてすでにサンタ・シチリアナに入っているかもしれない。アルテンシア軍との決戦までに合流してくれれば、シルヴィアの作戦は成功したことになる。
(結局アルジャーク軍頼みというのが、情けないかぎりじゃがの………)
聖女だのなんだの言われたところで、精兵が湧いてでてくる魔法の壷などシルヴィアは持っていない。肩書きばかりが大きくなって中身が伴っていないのが、今のシルヴィアと十字軍の実態であった。
「まあ、嘆いてばかりいても仕方がない」
幕僚たちに冷静さが戻ってきた頃合を見計らって、シルヴィアはそういった。今はアルジャーク軍が来ると信じて戦うほかない。
「参謀長、営塁の建設はどうなっておる?」
アルテンシア軍がベルベッド城に撤退していった間、シルヴィアは何もしていなかったわけではない。御前街から街道を西に三十キロほど行った地点に最終防衛線とも言うべき拠点を築かせていたのである。
実は、防衛用の拠点を築くのとはべつに、街道を駆け上ってくるアルテンシア軍に対して奇襲を仕掛ける、という案も出ていた。ただこの案は、十字軍に実行能力がないために採用されることはなかった。実際、未熟なシルヴィアでは十万近い軍勢をシーヴァに気づかれないように移動させることなど出来ない。途中で発見されて逆に奇襲を受けるかもしれないと思うと、その案は採用できなかったのである。
そのため街道上にアルテンシア軍を迎え撃つための防衛拠点を造ることになったのだが、この短期間で出来ることなど限られている。柵を立ててその前に壕を掘り、さらに土嚢や石を積み上げて防塞を作った。いかにも急造な拠点であり、当然のことながら立派な城壁などない。もっとも、立派な城壁があってもシーヴァに破壊されて終わりだろうが。
「すでに計画の八割ほどは完成しております」
参謀長の答えにシルヴィアは頷いた。それだけ完成していれば、時間稼ぎぐらいは出来るかもしれない。
「兵士たちに準備を整えさせるのじゃ。一時間後に出る」
シルヴィアの言葉を合図に、出陣を伝える号令が鳴り響く。厳しい戦いになる。それは十字軍の全員が分っていた。しかしそれを最も重く受け止めていたのは、聖女シルヴィアであった。
**********
「なかなか立派な拠点を築いたものだな」
馬上から望遠鏡を覗きこみ街道を塞ぐ形で造られた十字軍の営塁を見て、シーヴァはそう呟いた。敵拠点の存在自体は斥候の報告によって知っていたが、こうして実際に見てみると、短期間で作られた割にはなかなかいい規模である。
「人数に物言わせて急造したのでしょう」
ヴェートの言葉にシーヴァも頷く。繊細で精密な作業があるために熟練の職人が必要になるわけでもない。十字軍の戦力のうち数万を投入して、もしかしたらさらに周辺からも人手を集めて造り上げたのだろう。こういう時、聖女という存在は便利だ。
「ですがそこに籠っているのは所詮弱兵。今日中に片が付くでしょう」
ガーベラント公が冷たく言い放つ。斥候の情報によれば現在の十字軍の戦力は十万弱。聖女効果もあってか、数的優位は回復したことになる。しかし言ってしまえばそれだけで、兵の質は下がり続けている。
目の前の敵拠点には壕があり、柵があり、防塞がある。しかしそれだけではアルテンシア軍の侵入を完全に防ぐことなど出来るわけがない。そして一度侵入してしまえば、その後の趨勢はアルテンシア軍に傾く。
「時間も惜しい。いくぞ」
「はっ!」
アルジャーク軍が援軍としてアナトテ山に向かってきている、という情報はシーヴァも得ている。ことさら恐れるつもりはないが、十字軍などよりはるかに手ごわい相手であることは間違いなく、できることなら戦いたくない相手ではある。
(到着するより前に神殿を制圧してしまえば、アルジャーク軍が戦う意味はなくなる)
そんなことを考えながら、シーヴァは全軍に前進を命じた。アルテンシア軍が近づくと、すかさず柵の向こう側から万に届くかという数の矢が一斉に放たれる。それを見たシーヴァは「災いの一枝・改」に魔力を食わせ、威力の低い漆黒の魔弾を幾つも打ち出しそれらの矢を叩き落していく。主君の活躍に兵士たちは歓声をあげた。
十字軍に呼応するようにアルテンシア軍からも矢が放たれるが、柵があるため思うほどの効果はでない。こういう場合、矢の射掛け合いではやはり防御側に分がある。今アルテンシア軍の被害が少なく済んでいるのは、ひとえにシーヴァのおかげだ。
弓矢が飛び交うその下をシーヴァは馬を駆って敵陣に接近していく。そして柵を射程に捉えると魔弾を撃ち出して、その柵を後ろの弓兵ごと吹き飛ばす。柵の前には深い壕が掘られているが、シーヴァは馬を止めない。そのまま馬を疾駆させ、巧みな手綱さばきで壕を飛び越え敵陣に突入した。
主君の後ろに続いて、アルテンシア軍の騎兵部隊が次々と壕を飛び越え敵陣に突入していく。彼らは何も言われずともそこからさらに左右に別れ、柵のすぐ近くにいる敵兵を駆逐し味方の突入を援護する。
まだ柵の外側にいるアルテンシア軍の歩兵たちが、壕に丸太を二本まとめた即席の橋をかけ、柵をよじ登って陣内に突入していく。さらにゼゼトの戦士たちがその怪力をいかんなく発揮して柵を引っこ抜きそれを壕に橋として架けると、兵士たちは歓声をあげながら敵陣に突入して行った。
柵の内側には、土嚢や石を積み上げて造られた防塞が幾つも並んでいる。そして二つの防塞の間には、その隙間を生めるようにして柵が立てられていた。いわば第二防衛線である。そこから十字軍の兵士たちが出てきて、次々に壕を乗り越えて侵入してくるアルテンシア兵に襲い掛かる。たちまち乱戦になった。
「なるほど。考えたな」
馬上から戦況を俯瞰しつつ、シーヴァはそう呟いた。敵味方が入り乱れて乱戦になってしまえば、おいそれと「災いの一枝・改」は使えない。その魔道具は強力すぎて、味方を巻き込んでしまうからだ。防塞に籠らずあえて打って出てきたのは、「災いの一枝・改」を封じるためと見てよさそうだ。
「着眼点は間違っていない。だが………」
だがこの場合、襲い掛かったほうより襲われた方が強力であった。当初こそ数の差と援護射撃のおかげで十字軍は優位に立っていたが、突入してくるアルテンシア兵の数が増えるにつれ、趨勢の天秤はあっけなくアルテンシア軍のほうに傾いていった。
ただ、戦いにくいのは事実だ。柵や防塞が邪魔で騎兵が思うように動けない。実際、シーヴァと共に突入した騎兵部隊は、主君の周りを囲うようにして待機している。また防塞に籠っている敵兵ももちろんいて、アルテンシア軍はその防御を一撃で突き崩すことはできず、優勢ながらも粘り強く戦うしかない。
今のところ、突入した後のシーヴァは黙って戦況を見守っているだけだ。しかし有能なアルテンシア軍の部隊指揮官たちは、言われずとも何をすべきかを理解しそして行動している。
アルテンシアの兵士たちは盾を構えて矢を防ぎながら柵へと近づき、格子状の隙間からやりを突き入れて後ろの敵を串刺しにしていく。さらに防塞を乗り越えてその内側に侵入し、そこにいる十字軍兵士を蹴散す。
アルテンシア兵の接近を許した十字軍の弓兵たちは悲惨だった。矢をつがえるよりも速く槍で顔面を強打され、地面に倒れたところを別の兵士に突き殺される。弓を捨てて剣を抜くものもいたが、彼らは接近戦の訓練など受けていない。たちまち斬り捨てられて死体をさらした。
防衛線を突破したアルテンシア兵たちは、主君のために道を作る。邪魔な柵を撤去して騎兵が通れるように道を明ける。それを確認したシーヴァは「災いの一枝・改」を背中に戻して槍を受け取り、無言で馬の腹を蹴って駆け出した。周りを固めていた騎兵部隊がそれに続く。
まとわり付く雑兵を槍で払いのけ、横たわる死骸を馬のひずめで踏みつけながらシーヴァは突き進む。そうするとすぐにまた柵が横一列に立てられているのが見えた。ただ、後退する味方に配慮したのか、その柵の前に最初の場合のような壕が掘られてはいない。
(無用心だな。利用させてもらうぞ!)
シーヴァは槍を逆手に持ちかえると、そのまま投擲する。柵の格子状の隙間をすり抜けたその槍は、柵の後ろにいた一人の兵士の顔面を貫通し、さらにその後ろにいた兵士までも仕留めた。
それを見た十字軍の兵士たちに動揺が走る。その一瞬の隙を見逃さず、シーヴァは加速して柵に肉薄した。
背中に手をやり「災いの一枝・改」を引き抜く。そのまま魔力を喰わせて、シーヴァは黒き風を呼んだ。
黒き風の直撃を受けた柵と、その後ろにいた敵兵が吹き飛ぶ。さらにシーヴァは壕がないのをいいことに、黒き風を巻き起こしながら柵に向かって並走し、柵と兵士たちをなぎ倒していく。あっという間に防衛線は破られ、巨大な口が開いた。
シーヴァが力技でこじ開けたその突破口を、すぐさまアルテンシア軍の一軍が隊列を整えて駆け抜けていく。その先頭にガーベラント公の姿を認めたシーヴァは、一瞬だけ頬を緩めた。
(乱戦のなか兵をまとめて、間髪入れずに突破口を駆け抜けるか。さすがだな)
ガーベラント公が率いているのは、全部で一万弱の戦力だ。ただこれは先鋒とも言うべき部隊で、少し遅れてアルテンシアの全軍がこれを追いかけていくだろう。
ガーベラント公を見送ったシーヴァは、合流して先陣を駆けたい気持ちを押さえ、周りにいる騎馬隊を指揮して残った敵を駆逐していく。飛び出した部隊の後ろを襲われないようにするためだ。馬を駆って駆け巡ると、十字軍の兵士たちは瞬く間に散らされてそのまま逃げていった。
敵の多くは歩兵だ。騎兵隊ならばこれを追って殲滅することもたやすい。しかしシーヴァは逃げていく兵をことさら追おうとは思わなかった。今重要なのは敵軍を殲滅することではなく、ここを素早く突破することだからだ。
遁走した敵兵が聖女シルヴィアの下に合流して、再びアルテンシア軍の前に立ち塞がるかもしれないが、大規模な防衛拠点をここ以外にも用意しているとは思えない。純粋な野戦ならば、十字軍を破ることは赤子の手を捻るようにたやすい。
柵を取り除けあるいは防塞を乗り越えて、乱戦を制したアルテンシア兵がぞくぞくと集まってくる。それらの兵を素早くまとめ隊列を整えさせると、シーヴァはガーベラント公を追って駆け出した。
さてシーヴァがこじ開けた突破口のその向こうには、十字軍の本隊と思しき一軍がいた。その数、およそ三万。そしてそこには聖女シルヴィアがいる。
ガーベラント公は思わずほくそ笑んだ。彼はかつて一千の兵でシルヴィア率いる三千の兵と戦ったことがある。彼はその時そこでの戦闘に意味を見出さず撤退したが、あろうことかそれが聖女シルヴィア誕生のきっかけになってしまった。
(今度は退かぬぞ………!)
ガーベラント公は好戦的に笑う。今彼が率いているのは一万弱の兵だ。それに対し敵は三万。規模は十倍近くになったが、奇しくもあの時と同じく三倍の敵を相手にすることになる。
「聖女を捕らえるぞ!それでこの戦いは終いだ!」
ガーベラント公は声を張り上げてそう指示を出す。下手に聖女を殺せば、教会は喜んでその死を利用するだろう。しかし捕らえることが出来れば、その影響力を封殺し同時に敵の意気を挫くことができる。そうすればこの先、十字軍がアルテンシア軍の前に立ち塞がることなどなくなるだろう。
「突撃!!」
あの時とは違い明確な戦意をたぎらせて、ガーベラント公は突撃を命じた。
**********
(早い………! 早すぎる!)
最後の防衛線が黒い暴風によって吹き飛ばされ、さらにアルテンシア軍の一軍がそこから飛び出してきたのを見たとき、シルヴィアは氷刃を差し込まれたかのような寒気を感じた。
急造とはいえ、防衛線は三重になっていた。それがこうも容易く喰いちぎられるとは。十字軍の弱さだけでは説明できない速さである。
(結局、なにもかも無駄だったわけじゃ………)
シルヴィアは自嘲気味に心の中で呟いた。
祖国を守りたいと思い、戦場に立った。有効と思える作戦を考えて実行し、そして一定の効果を上げもした。
その結果、聖女に祭り上げられたのは不本意ではあったが、それでもその肩書きの力はシルヴィアが祖国を守るために有用でもあった。信者たちの協力も得られたし、十字軍の戦力も回復できた。国の異なる兵士たちを鼓舞し協力させるのに、確かに「聖女」という肩書きは便利だった。
だが、その結末はどうか。
聖女として、また十字軍総司令官として、全ての力を注ぎ込んで準備してきた三重の防衛線はアルテンシア軍にあっけなく食い破られてしまった。戦力として残っているのは、シルヴィアが自ら率いているこの本隊のみである。
その本隊に、アルテンシア軍が襲い掛かろうと迫ってきている。数はおよそ一万弱でこちらの三分の一程度。しかし総合的な戦力では向こうのほうが上だろう。しかもシルヴィアがこれまで直面したことのない戦意と殺気をたぎらせ、猛然と近づいてくる。その圧力たるやすさまじく、シルヴィアはまるで見えない手に体を押さえつけられたかのように感じた。
血の気が引いていくのがわかった。背中に寒気を感じ、唇と手足が震える。逃げられるものならば、逃げたかった。
「………全軍、戦闘用意」
しかし、シルヴィアに逃げるという選択は許されていない。なぜなら彼女は聖女なのだから。「教会のために命を賭せ」と命じられているのだ。明確な言葉によってではない。人々から向けられる態度と期待によって、シルヴィアはこの短い間にそれこそ数え切れないくらい、命じられてきたのだ。
シルヴィアと同じくらい顔を青くした兵士たちが、しかしそれでも逃げ出さず命令にしたがって戦闘隊形を整えていく。
(彼らはなぜ逃げないのだろうか………)
兵士たちの様子を眺めらながら、シルヴィアは回りきらない頭でそんなことを考える。聖女のために命を賭けようと決めているのだろうか。あるいは聖女ならばこの逆境をはね返し奇跡的な勝利を収められると信じているのだろうか。それとも聖女と共に戦って死ねば、天上の世界へいけると信じているのだろうか。
『勘弁してくれ!』
シルヴィアはそう叫びたかった。命を賭けるほどの価値がないことぐらい、シルヴィア自身が一番良く知っている。ここから逆転する秘策など、自分には考え出せない。天上の世界に連れて行くことなど、自分には出来ない。
聖女とは結局、シルヴィア・サンタ・シチリアナという一人の小娘でしかないのだ。つい最近まで一兵卒さえ率いたことのない小娘なのだ。歴史や地理は好きだったが、戦術を専門に学んだことなどない。弓と馬術に秀でてはいても、本格的な軍事訓練など受けたこともない。
戦争などとは程遠い世界にいた、一人の少女なのだ。
肩書きが変わったからといって、中身が変わるわけではない。いや、そもそも肩書きとは中身がそれに相応しくなってから与えられるはずのものだ。しかしシルヴィアはそういうものをすっ飛ばして聖女になってしまった。「聖女」の肩書きはシルヴィアを置き去りにして肥大化し、もはや一個の人格となりおおせてしまっている。
「暴れ馬の背に括り付けられてしまったようなのものじゃ」
珍しく一人になれたとき、シルヴィアはそんなふうに漏らしたことがある。独り歩きを、いや暴走を始めた「聖女」の肩書きは、多くの人を自らの幻想に巻き込んでいる。そしてその幻想は、ついに現実さえも動かしてしまった。
しかし、幻想は幻想でしかない。避けようのない現実、変えられない現実を目の前に突きつけられたとき、人は痛みとともに思い知らされるのだ。
「ああ、はかない夢だった」
と。
そして今、その現実が目の前に迫ってきている。アルテンシア軍という名の現実が。
十字軍の戦闘隊形が整う。盾を並べて槍を突き出し、拒絶の意志を表明する。弓兵部隊は弓矢を引き絞り、攻撃の合図を待っている。
(すまない。そして、ありがとう)
そんな兵士たちの姿を見て、シルヴィアは心の中で謝りそして感謝した。結局、幻想にしかなれなかったことへの謝罪。それでも自分に付き合ってくれることへの感謝。ごちゃ混ぜになった頭の中で、最後に残ったのはこの二つだった。
「放てぇぇぇぇええええ!!!」
十字軍から矢が放たれる。ほぼ同時にアルテンシア軍からも矢が放たれ、銀色の二つの流れは空中で交差し、そしてお互いに降り注いだ。
敵も味方も、降り注ぐ矢に射抜かれて一人また一人と倒れていく。しかし十字軍が一人倒れるごとに戦意を喪失していくのに対し、アルテンシア軍はむしろ戦意をたぎらせていく。放たれる矢がだんだんと水平になっていき、そして両軍はついに激突した。
十字軍が示す拒絶の意志をはねのけてアルテンシア軍は進む。振り下ろされたメイスは兜ごと頭をかち割り、馬に倒された兵は起き上がるより前に槍で刺し殺される。抗戦の意志を失った十字軍の兵士は武器を捨て盾を両手で構えて必死に耐えるが、ほんの数十秒だけしか寿命を延ばすことはかなわない。
濁流が大地を削りながら進むように、アルテンシア軍は十字軍の戦力を削り取りながら前進する。数の少ないアルテンシア軍が、三倍近い数の十字軍を押し込めて後退させていくのである。
趨勢は完全にアルテンシア軍に傾いている。しかしそれでも十字軍の兵士たちは逃げなかった。圧倒的劣勢の中、何が彼らを支えているのか。
(考えるまでもないことじゃ………!)
彼らを支えているのも、それは幻想だ。「聖女」という名の幻想。なんら確たるもののないその幻想を支えに、彼らはこの戦場に踏みとどまっている。あやふやで世界を変える力など何もない「聖女」。その幻想が兵たちを駆り立てて戦場に立たせ、そしてその血を飲み干している。
「もういい!逃げよ!」
そう叫びたいのを、シルヴィアはずっと堪えている。「聖女」のせいで、自分のせいで兵士たちが死んでいく。それは戦場においてごく普通のことなのかもしれないが、彼らには逃げるという選択肢があったはずなのだ。それを奪ったのは、「聖女」という幻想だ。死ぬのはその幻想だけで十分だ。
(私が、私が死ねば………!)
兵たちは幻想から解放され、逃げられる。押しつぶされそうなストレスの中、そんな刹那的な考えが頭をよぎる。それは毒。人を酔わせて殺す、甘美な毒だ。普段のシルヴィアならば見向きもしなかったはずだ。しかし圧倒的に不利な戦場という極限状態が、彼女から正常な思考を奪っている。悪魔の甘い囁きにシルヴィアが身をゆだねようとした、まさにその時。
「シルヴィア様!」
脇に控えていた参謀の一人が、声を張り上げた。意外なことに、喜色が浮かんでいる。しかしシルヴィアはその事に気づいていない。
「邪魔をしないでくれ………」
とシルヴィアがそういう前に、参謀は満面の笑みでそれを指差した。
アルテンシア軍とは逆の方向から迫り来る、騎兵の一団。彼らが掲げているのは、深紅の下地に漆黒の一角獣が描かれた旗。
「アルジャーク………軍………」
それは天が、聖女ではないただ一人の少女のために与えた、奇跡。