第九話 硝子の島⑧
枢密院で第二次十字軍遠征が決定されたとはいえ、教会に単独でその遠征を行うだけの戦力は存在しない。よって、神聖四国やその周辺国に対して十字軍に参加するよう、派兵を求めていくことになる。
そして派兵を求める教会からの書状は、東の大国アルジャーク帝国にも届けられていた。
「しかし、本当によろしかったのですか?」
「なにがですか?アールヴェルツェ」
アルジャーク帝国帝都オルスク。かつてはモントルム王国の王城として用いられ、その後モントルム総督府が置かれ、そして今では帝国の中枢となったボルフイスク城の皇帝執務室には、まさにその中枢を担うべき三人の人物が集まっていた。
皇帝クロノワ・アルジャーク。宰相ラシアート・シェルパ。そして実質的にアルジャークの全軍を取り仕切っている将軍アールヴェルツェ・ハーストレイトである。
「いえ、第二次十字軍遠征への参加要請を本当に断ってしまってよかったのかと………」
「かまいませんよ。教会の勇み足に付き合う必要はありません」
シーヴァがゼーデンブルグ要塞を押さえている以上、純軍事的に見て第二次十字軍遠征は第一次遠征よりもはるかに困難なものとなるだろう。その上、十字軍の戦力や軍隊としての機能性を第一次遠征のときよりも強化できるのかといえば、おそらくは不可能であろう。有り体に言ってしまえば勝ち目がない、とクロノワは見ている。
またアルテンシア統一王国とアルジャーク帝国は、それぞれエルヴィヨン大陸の西の端と東の端である。兵を引き連れて遠征するだけで、すでに「歴史的事業」といえるだろう。それを成し遂げるには大変な労力と資金が必要になる。クロノワが乗り気でないのはそのためだ。
「ですが教会との関係に悪影響が………」
「大丈夫ですよ。どうせ教会も本気で要請してきたわけではないでしょうから」
教会が本気でアルジャークの戦力をあてにしているのであれば、枢機卿の一人を送り込むくらいのことはするはずである。それをしないということは、教会もアルジャークをそれほどアテにしているわけではないのだろう。
「もしかすると、参加して欲しくないのかもしれませんな」
笑いを含んだ声でそういうのはラシアートである。もしアルジャークが派兵すれば、十字軍の主力は当然アルジャーク軍になる。というより主力になるように調整する。そうなれば第二次十字軍遠征の主導権はアルジャーク帝国にあるようなもので、それでは旗振り役の教会や神聖四国は面白くないだろう。
「ただこの先、教会が本気で泣きついてくるようなことがあれば、兵を出さざるを得なくなるかもしれませんな………」
一転して真面目な表情でラシアートはそういった。第二次十字軍遠征が上手くいけば、教会と神聖四国がアルジャークを頼ることなどないだろう。つまり教会が本気で泣きついてくるとすれば、それは遠征が失敗し、その上でアルジャークの戦力が必要になった場合である。
「それはつまり………」
それはつまり、シーヴァ・オズワルドが軍勢を率い教会の総本山であるアナトテ山を目指す場合である。
「どうしても、兵を出さなければいけないでしょうかねぇ………」
「どうしても、兵を出さなければいけないでしょうなぁ………」
そう言ってから、クロノワとラシアートは互いに苦笑を漏らした。
この場合、西の果てであるアルテンシア半島まで兵を送り込む必要はない。しかしアナトテ山、つまり大陸の中央部くらいまでは行かなければいけない。しかも、ほとんどアルジャーク軍単独でアルテンシア軍を相手にすることになるのだろうから、最低でも十万単位の軍を引き連れていくことになる。それにはやはり莫大な金と労力が必要になり、それゆえクロノワとしてはとても気が進まない。
その上、これは教会の尻拭いである。聖銀の製法が暴露されたことで失った遊ぶ金を補填するために十字軍遠征を画策し、それが失敗したがために今度はアルジャークを頼ろうというのだ。それを思うとなけなしのやる気さえなくなってしまう。
とはいえ、ラシアートの言うとおり教会が本気で泣きついてきたら力を貸さないわけにはいかないだろう。
確かに昨今教会の発言力は今までにないくらいに弱くなっている。しかし幸いにも(いやこの場合は悪いのかもしれないが)極東において教会への評価はまだ高い。それゆえ神子の署名が入った要請を断ったとなれば、帝国内の信者たちの反感を買うだろう。最近急速に版図を拡大したアルジャークにとって、それは是非とも避けたい事態だ。最悪、国が割れる危険性さえある。
「………アールヴェルツェ」
「はい。何でしょうか」
「大陸の中央部でアルテンシア軍とぶつかることを想定し、部隊の編成や移動手段、補給経路などを考えておいてください」
嫌そうな顔をしながら、クロノワは腹心の将軍に指示を出す。そんな主君の様子に笑いをかみ殺しながらアールヴェルツェはその指示を了解した。
「ラシアートは教会と神聖四国からなにが搾り取れるか、考えておいてください」
「了解しました。アルジャークの力、せいぜい高く売りつけてやりましょう」
仮にアルテンシア軍とぶつかってこれを撃退したとしても、そこからアルジャークが得るものは何もない。しかしただでアルジャークを傭兵扱いできるとおもってもらっては困る。軍を動かすならばそれに見合うだけの見返りが必要であろう。そして、教会と神聖四国がそれを用意するのが筋というものだ。
「ところで陛下」
「………なんでしょうか」
話が一段落ついたところで、ラシアートがクロノワに話しかける。その声音の変わりようから嫌な予感を覚えたクロノワは少し及び腰だ。
「そろそろ妃を迎えられてはいかがかと………」
現在、アルジャーク帝国の帝室には皇帝たるクロノワ一人しかいない。帝室の流れをくむ家柄はいくつかあるが、ベルトロワの血をひいているのはクロノワ一人である。つまりクロノワが何かの理由で死んでしまえば、帝室は跡絶えることになる。
無論、その時は遠縁の血筋から誰かを皇帝に選ぶことになるのだろう。しかし、生まれ変わったともいえるほどに帝国が急速に版図を拡大させたこの時期に、クロノワの直系以外の人物が皇帝になれば、その支配の正統性を認めない勢力が現れ内乱が起こる可能性が高い。
そうならないためにも早く妃を迎えて世継ぎを作り、帝室を安泰にすることが重要である、とラシアートは説く。
「もう少し問題を片付けて、内政が安定してからでもいいと思いますが………」
「問題などというものはいつ何時であっても起こり、絶えることがありません」
問題を片付けてからなどと言っていては死ぬまでその時はやってきませんぞ、とラシアートは迫った。年長者の正論にクロノワも押され気味である。さらにそこにアールヴェルツェが追撃をかける。
「それに問題というのであれば、そもそも陛下がご結婚なされていないことこそが最大の問題でしょう」
「おお、アールヴェルツェ殿の言う通り。陛下には是非ともこの問題を片付けていただきたい」
さあさあご決断を、と迫る年長者二人に押されながらも、クロノワは何とか二人を宥めた。
「今はまだ時期尚早ですよ。少なくとも教会と神聖四国の行く末を見定めるまでは、この手札は切るべきではない」
この時代、国王や皇帝の婚姻はそれ自体が政治であり駆け引きだ。アルジャークの帝室は一夫多妻を認めているから、一度妃を迎えれば側室を持てないということはない。しかし一番最初の婚姻には、やはり大きな意味がある。
さらにこの時期、エルヴィヨン大陸の中央から西ではパワーバランスの再編が行われようとしている。言うまでもなく、アルテンシア統一王国と教会背力の対立だ。第二次十字軍遠征がどのような結果になるのか、またその後に事態はどのように推移するのか。事の次第によって大陸のパワーバランスは大きく変わることになるだろう。
アルジャーク帝国皇帝の婚姻という手札を切るのは、その流れを見極めてからだ。クロノワは自分の考えをそう説明した。
「なるほど。陛下の言われることにも一理ありますな」
「分っていただけて何よりです」
「では早急に候補者選びを始めましょう」
「え゛………」
その話の流れに、クロノワは安堵の笑みを凍りつかせた。
「事態の趨勢が決まってから候補者を選んでいては、機を逸するかも知れませんからな」
あらゆる可能性を想定し広範に花嫁候補を選んでおきますからな、とラシアートは快活に笑った。
すでに教会と神聖四国が第二次十字軍遠征に向けて動いている以上、この先事態は急速に進展していく。それをなんの準備もせず座して見ているだけでは、手札を切る最適の生地を逃してしまう。だから今のうちから花嫁候補を探しておく必要がある。ラシアートはそういった。
(つまり、今から嫁探しをするということではありませんか………!)
まんまとはめられた、とクロノワは内心で苦虫を噛み潰した。とはいえ話の流れ的にはもう詰んでいる。
「お手柔らかに………」
「ええ、万全の準備を整えておきますぞ」
ラシアートが力強く請け負う。どうやらこの件に関しては、クロノワの意見は尊重されないらしい。
(こうなったら第二次遠征が長引くことを願うしかありませんね………)
がんばれ、とクロノワは心の中で無責任にエールを送る。さて、がんばる必要があるのはアルテンシア軍か、それとも十字軍か。
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大陸暦1565年2月21日にシーヴァ・オズワルドはゼーデンブルグ要塞を奪還し、この日、第一次十字軍遠征の失敗が確定した。そしてシーヴァが要塞から統一王国の王都に定めたガルネシアへ移るとき、グラシアス・ボルカが書状を教会の枢密院に届けるべく出立したのだが、彼がアナトテ山に到着したのが3月の暮れのことであった。
グラシアスが届けた書状の内容が吟味され、そして枢密院において第二次十字軍遠征を行うことが決定されたのが5月の始めである。ただし、教会に単独で遠征を行うほどの戦力はない。よって神聖四国を始めとする国々に派兵の要請をし、十字軍の旗の下に兵を集めなければならなかった。
記録によれば、二一万三〇〇〇の兵が集まったとされている。この数だけを見れば、相当に大規模である。しかし、第一次遠征の際には三十万を超える兵が集まったことを考えると、この数に不満を覚える人間は少なからずいた。
これは、ただ単に派兵する各国が第一次遠征の失敗で疲弊していたからだけではない。その失敗のせいで教会の威光に陰りが生じ始めたことの確たる証拠である、と判断した人間は多い。
それはともかくとして。この二一万三〇〇〇の兵が集められ十字軍が結成され、アルテンシア統一王国に対して宣戦布告がなされたのは、8月の頭のことであった。つまり枢密院で決定がなされてから、実際に事が起こるまで三ヶ月近くかかったことになる。
この時間については、色々と意見が分かれるかもしれない。仮にアルジャーク帝国が単独で遠征を行うとして、その準備に三ヶ月もかかるなどということはまずないだろう。しかし十字軍はいわば各国が兵を出し合う連合軍である。派兵要請のための交渉や調整など、単独で遠征を行うよりもはるかに煩雑で時間がかかることは想像に難くない。
なんにせよ第二次遠征の準備のために三ヶ月という時間がかかったことは動かしようのない事実である。そしてその時間は全ての人の上に平等に流れる。
アルテンシア半島を統一し、統一王国の建国者にして初代国王になったシーヴァ・オズワルドは、教会勢力が第二次十字軍遠征に向けて準備を進めていることを察知していた。これは統一王国の大陸中央部における諜報能力が優れていたためというよりも、第二次遠征に向けた教会の動きがあまりにもおおっぴらであったためであろう。各国との交渉や調整のために動き回る必要があるとはいえ、教会という組織は秘密裏に動くことがどうにも苦手らしい。
アルテンシア半島が再び十字軍の脅威にさらされていることを知ったシーヴァはすぐさま行動を開始した。
神聖四国での諜報活動を密にし、第二次遠征の準備の進行状況を刻一刻と報告させた。余談になるが、遠征の準備の推移を知りたい場合、教会や神聖四国が残した資料よりも統一王国の間者が送った報告書のほうが詳しいくらいである。
また各地で兵に準備をさせておき、一度命令が下れば一ヶ月以内に半島の全域からゼーデンブルグ要塞に到着できるようにさせた。同時に武器や食料などの物資も集め、着々と十字軍との決戦に備えたのである。
ただこれらの備えを行うことは決して楽ではなかった。教会や神聖四国など第一次十字軍遠征に参加した各国の財政状況が悪化しているのと同じように、アルテンシア統一王国の財政状況も良くはない。いや、ともすれば教会勢力よりも金欠であった。
長らく続いたアルテンシア同盟時代の悪政。そして第一次十字軍遠征で被った被害。建国してまだ半年にも満たないような国が、そのような深刻な荒廃から復興できているはずもない。
しかしそれでもアルテンシア半島の人々はシーヴァに協力的であった。建国されたばかりのアルテンシア統一王国は彼らにとって、新たな時代の幕開けの象徴であり希望であった。まだ芽吹いたばかりのそれを、十字軍などという侵略者に踏みにじられるわけにはいかなかった。
8月3日、第一次遠征のときと同じように、神子の祝福が読み上げられると十字軍はアルテンシア半島に向けて進軍を開始した。
シーヴァが動いたのは、それよりもおよそ二週間前のことであった。いよいよ第二次十字軍遠征が始まることを察知したシーヴァは、各地に早馬を飛ばして準備させていた兵を集めさせゼーデンブルグ要塞に集結させた。そして彼自身もまた二万の兵を率いて要塞へと向かったのである。
ゼーデンブルグ要塞に集まったアルテンシア兵の数はおよそ十五万。ゼーデンブルグ要塞にとっては二度目の、そしてその本領を初めて発揮する戦いが始まろうとしている。
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十字軍によるゼーデンブルグ要塞の攻略は長引いていた。というよりも、攻めあぐねていた、と言ったほうが正しい。
その理由は攻守双方に存在するだろう。
まずゼーデンブルグ要塞自体が難攻不落の大要塞である。城壁の上を始めとする要塞の各地点に、据え置き型の機械弓が等間隔で設置されている。これは兵士二人組で使うものなのだが、事前準備を要するものの一度に十本の矢を飛ばすことが出来き、つまり兵士一人で弓兵五人分の働きをすることが出来るのだ。
城壁は高いだけではない。建築技術の粋を結集して造られたそれは、地面に対して垂直ではなく緩やかな曲線を描いている。これにより長梯子を掛けられたとしても、その先端が城壁の上に直接届くことはない。そこに降り立つためには梯子から飛ばなければならず、そのために一瞬でもまごつけばそれは決定的な隙となるのだ。
その他にも投石器や弩、さらには味方の部隊を出し入れするためのからくりなど、この要塞には防衛のためのあらゆる技術が惜しげもなく使われている。
またそれらの設備を使うアルテンシア軍の兵士たちの士気も高い。この要塞が突破されれば第一次十字軍遠征時の悪夢が再現されてしまう、ということを彼らは十分すぎるほどに知っていた。
アルテンシア半島の全てを背負い、そして守っているのだという自負と誇りが彼らにはあった。さらにここには彼らの敬愛する王、シーヴァ・オズワルドがいる。彼の存在は苦しい籠城戦のなかで、兵士たちの心の支えになっていた。
それに対して士気が上がりきらないのが十字軍のほうであった。
十字軍に参加している各国にはそれぞれに思惑がある、という話は以前にした。簡単に言ってしまえば、攻略に積極的な軍と消極的な軍が混在しているのである。そのため連携が上手くいかず、要塞を長時間にわたって攻め立てるということができない。また攻撃を仕掛けても厚みに欠けるため、簡単にはじき返されてしまう。
その上、攻城兵器が不足している。
十字軍は当初この要塞をまったく軽視していた。第一次遠征の際に半日とかからずに落としてしまったことがその理由である。
「ゼーデンブルグ要塞など、大きなだけの張りぼてである!」
「たとえ十万の兵がそこにいようとも、三日もあれば攻略できるであろう」
アルテンシア半島に向かう道中、十字軍内ではそんな話がさも確定事項であるかのように話されていた。そもそも準備の段階からこの要塞を軽視しており、第一次遠征であまり使われることのなかった攻城兵器は最初から数が少なかった。
が、実際はどうであったか。
ゼーデンブルグ要塞は十字軍二一万三〇〇〇を見事に押し返した。準備してきた攻城兵器の数が少ない十字軍は攻め手に欠き、結果として味方の損害ばかりが増えていく。なけなしの攻城兵器は要塞から出撃してきたアルテンシア軍によって優先的に破壊され、ますます手が出せなくなった。
強力な火力を誇る魔導士部隊がいれば攻城兵器の代わりになったのだろうが、あいにくそれらの部隊は第一次遠征時に壊滅状態に追いやられ、今は再建の真っ最中である。攻城兵器も魔導士部隊もなく、十字軍はどうにも攻めあぐねた。
無論、新たな攻城兵器を大急ぎで造らせているが、造るよりも壊すほうが圧倒的に速い。次第に要塞に攻撃を仕掛ける頻度そのものが少なくなっていき、十字軍内では厭戦の雰囲気が漂い始めていた。
その厭戦気分に拍車を掛けていたのが物資の不足であった。
十字軍が要塞の攻略を始めてすでに三ヶ月以上経過して11月の終わりにさしかかっている。夏は過ぎ去り秋も終わり、季節はすでに冬である。冬季装備を準備してこなかった十字軍では体調を崩す者が続出し、さらには凍死者も出始めていた。これまた大急ぎで冬季装備を後方から送らせているのだが、いかんせん数が足りず全ての兵士にはいきわたらない。さらに用意できた装備の配分方法について、国によって差別があるとして内部から不満が噴出していた。
また食料も足りなくなってきていた。十字軍の当初の目論見としては、ゼーデンブルグ要塞は早々に攻略し、半島内で再び略奪に勤しむつもりであった。またしても食料は現地調達が基本だったのである。
だから要塞を攻めあぐねる十字軍の食料はすぐに底をついた。食料の調達に時間をかけるわけには行かず、十字軍の首脳部は戦場となっている、つまり統一王国と国境を接しているシャトワールやブリュッゼといった国々に対して食料の供出を命じた。こういった小国にとって二十万を超える軍に食料を供給することは大変な負担であった。
しかも教会や神聖四国の権威を振りかざして、である。このような横暴さは信者のみならず、国家そのものに教会勢力に対する不信感を抱かせた。
一方、ゼーデンブルグ要塞に籠るアルテンシア軍はどうであったか。
アルテンシア半島は大陸から北西に向かって延びている。つまりもともと冬は厳しく、兵士たちは寒さに強い。それに要塞内の暖かい部屋に入ってしまえば、装備の不備はある程度補えた。
食料もまた十分にあった。要塞の後ろ、つまり半島全てがいってみれば補給基地である。ちょうど小麦の収穫も終わり、豊富な食料が次々に要塞内へ運び込まれた。さらに収穫期が終わったことでさらなる援軍も到着した。
攻めれば攻めるほど十字軍はやせ細って弱っていき、逆にアルテンシア軍は力を増していく。そういう有様である。しかしそれでも十字軍が撤退しないのには理由があった。
シーヴァ・オズワルドが出てこないのである。
漆黒の大剣「災いの一枝」を操るシーヴァは、十字軍の兵士たちに悪魔か魔王の如くに恐れられている。第一次遠征に参加し彼の武威を実際に見ている者も、ただ人から聞いただけの者も皆等しくその恐怖を共有していた。
しかし、ゼーデンブルグ要塞の攻略が始まってから三ヶ月以上経つが、シーヴァがその漆黒の大剣を手に出撃してきたことはない。要塞に彼がいることは間違いないようなのだが、なぜか出てこないのだ。
「十字軍を恐れて出てこないのだ」
「病を患い、戦える状態ではないのだ」
「要塞にいるのは影武者で、本物は王都ガルネシアで執務を取っているのだ」
「愛用の『災いの一枝』を失い、戦うことを躊躇しているのだ」
さまざまな憶測が囁かれたが、どれもこれも噂の域を出ない。しかし今まで一度もシーヴァが攻撃を仕掛けてこなかったことは歴然たる事実である。
「詳しくは分らないが、出撃できない何か訳があるのだろう」
全ての憶測は最終的にはその辺りに落ち着いた。なんにせよ最大の障害と思われるシーヴァが出てこないのであれば、十字軍の勝率は上がる。それが、十字軍がずるずると要塞の攻略を続けている理由であった。
生憎とシーヴァは十字軍を恐れていたわけではないし、病を患っていたわけでもない。そして影武者に代理をさせてガルネシアに引きこもっているわけでもない。「災いの一枝」を失ったことは事実だが、それによって戦うことを躊躇しているわけでもない。彼が戦場に出ない理由は、ひとえに部下によって引き止められているからであった。
「今にも飛び出して行きたそうな顔をしておられますな」
「………ガーベラント公か」
十字軍の陣は城壁の上からかろうじて見える。それを睨みつけていたシーヴァに声を掛けたのは、彼の同盟に対する反乱に計画段階から協力していた五人の公爵の一人、ガーベラント公であった。優れた武人でもある彼は自ら軍を率いて要塞に馳せ参じ、今はシーヴァの幕僚長として得がたい働きをしていた。
「敵の士気は低い。一挙に攻勢をかければ敵陣を崩壊させることも可能だ」
「そしてその先頭には、陛下が立たれるおつもりですな?」
「当然だ」
一瞬の迷い無くシーヴァは答えた。彼にとって「災いの一枝」は道具であった。確かに最高の道具であり失ってしまったことは大きな痛手だが、しかし無くなったとたんに何もできなくなるほどシーヴァ・オズワルドはひ弱な男ではない。
「陛下はそうでございましょう。しかし兵たちは違います」
敵もそして味方も、とガーベラント公は穏やかに言った「災いの一枝」などなくとも、シーヴァは優れた将である。しかし戦場に立った彼がその漆黒の大剣を手にしていなければ、敵の士気は上がるだろうし、もしかすれば味方の士気は下がるかもしれない。
「どちらにしろこのまま戦を続けた場合、苦しいのは十字軍のほうです」
ならば有利な方がわざわざリスクを犯す必要はない、とガーベラント公は説いた。その話はすでに何度も聞かされているため、シーヴァは少し不満そうに苦笑した。
「状況が変われば出る。その時は止めるな」
「陛下が出なければならぬような状況には、決してしませぬ」
しかしその三日後に状況は変わった。ただし二人が話していたような、つまりアルテンシア軍が不利になるような状況の変化ではない。
オーヴァ・ベルセリウスが、完成した新たな魔剣を携えゼーデンブルグ要塞を訪れたのである。
「待ちかねたぞ、ベルセリウス老」
「これが『災いの一枝・改』じゃ。使いこなして見せい」
不敵に笑い、ベルセリウスはその新たな魔剣をシーヴァに手渡した。形は以前と同じく漆黒の大剣で、基本的なデザインに大きな差異はない。ただ一点、刀身に印字されれている黄金色の古代文字で綴られた言葉だけが違っている。
――――万騎を凌ぐ。
そう綴られているのだとベルセリウスから聞いたとき、シーヴァは壮絶な笑みを浮かべた。
ベルセリウスから「災いの一枝・改」の能力について簡単に説明を聞くと、シーヴァはすぐさま精鋭十万を集め出撃の命令を下した。
「いきなり実戦でお使いになるおつもりですか?」
「ベルセリウス老。この魔剣、『災いの一枝』と同じことはできるのだろう?」
「当然じゃ」
ならば何も問題はない。最悪、新たな能力は使わなければよいのである。ガーベラント公も、もはや反対しなかった。
そして大陸暦1565年11月30日の正午過ぎ。ついにシーヴァ・オズワルドは十万の兵を率いて要塞から打って出た。それに呼応するかのように、十字軍もすぐさま戦闘隊形を整える。
十字軍の陣形にとりあえず隙が見当たらないことを確認したシーヴァは、ひとまず全軍に停止を命令した。それからただ一騎で前に進み出る。
シーヴァは悠然と馬を進めた。眼前に居並ぶ十字軍の兵士たちの顔には、あからさまな恐怖に顔を青くしている。それを見ると、シーヴァは嘲笑の笑みを浮かべた。
「どうした。ただ一人を恐れるか」
シーヴァの声は大きくは無かったが、不思議と遠くまで聞こえた。その挑発で張りつめていた緊張の意図が切れる。恐怖を振り払うかのように鬨の声を上げると、十字軍は一斉にただ一人、シーヴァ・オズワルドめがけて突撃した。
土ぼこりをあげながら迫り来る十字軍の軍勢を目の前にしても、シーヴァの落ち着いた態度は変わらない。彼は悠然と「災いの一枝・改」を掲げ、その新たな愛剣に魔力を喰わせた。
シーヴァがその漆黒の大剣に魔力を喰わせても、いつものような黒き風は起こらなかった。代わりに、その黒き風を圧縮したかのような漆黒の球体が五つほど宙に浮かんでいる。
「黒き魔弾、とでも名付けてみようか」
シーヴァは不敵に笑い、漆黒の大剣を軽く振り下ろした。その動きに合わせて、五つの黒き魔弾が十字軍に向けて打ち出される。そして軍勢の真っ只中に着弾した黒き魔弾は、爆裂した。
まさに“爆裂”としか言いようのない光景であった。黒き魔弾のなかに押し込められて固定されていた黒き風は、着弾と同時に一挙に解放され“爆裂”したのである。
今までシーヴァが使っていた「災いの一枝」では、黒き風は魔力を込め続けなければ維持できなかった。しかしベルセリウスは“四つの法”を解析することで、発生させた黒き風を固定する術を見出したのである。ちなみにどれだけの量を圧縮できるかはシーヴァの力量にかかっている。
固定された黒き風、つまり爆裂するまえの黒き魔弾に攻撃力はない。触ってみても、風が物凄い勢いで渦を巻いているくらいにしか感じないだろう。しかし一度解放されれば、それは全てをなぎ倒し粉砕する暴風となる。
その威力たるや「災いの一枝」を大きく上回る。これまでの黒き風は1の魔力に対して1の威力であった。しかし「災いの一枝・改」は黒き風を固定し溜めておくことができる。言ってみれば、黒き魔弾とは1の魔力を足し合わせて5や6にしてから撃ち出すものなのである。
さらに攻撃範囲も劇的に広がった。これまでは「災いの一枝」の仕様上、使い手を中心に半径五メートル程度が攻撃範囲の限界であった。しかし黒き魔弾の射程は、だいたい普通の弓矢と同じくらいある。しかも一つ一つの魔弾が爆裂したときの効果範囲が、およそ半径五メートルである。つまり魔弾一つにつき直径十メートルのクレータが出来る、と考えてもらえればいい。立派に攻城兵器としても使える威力と攻撃範囲である。
(ふむ………。形状はイメージで操作が可能。固定と解放の加減ができるようになれば魔弾以外にも選択肢が広がるな)
そんなことを考えながら、シーヴァは黒き魔弾を十字軍に撃ち込んでいく。吹荒れる黒き風と砂塵。人が吹き飛ばされて宙を舞うという非現実的な光景を目の前にして、なけなしの戦意はすぐに折れ十字軍の兵士たちは顔を青白くして後ずさった。
一方、アルテンシア軍は地を揺らさんばかりに歓声をあげる。そして膨れ上がった戦意そのままに足のとまった十字軍に向かって突撃し攻撃を開始した。
(ヴェートよ、少し早すぎるぞ………)
突撃を命令したはずの将軍の顔を思い浮かべ、シーヴァは内心で苦笑を漏らした。もう少しこの新たな魔剣の性能を試したかったのだが、まさか動き出した軍勢を停めるわけにもいかない。それに戦術的に見て、このタイミングで仕掛けたヴェートの判断は当然のことである。
(今は十字軍の駆逐に集中するか………)
意識を切り替えたシーヴァは、馬の腹を軽く蹴って駆け出した。すぐに彼の周りを騎士たちが固める。
「追い立てろ!不埒な強盗どもに情けは無用だ!」
シーヴァが声を上げると、兵士たちもそれに答える。結局、アルテンシア軍は日が暮れるまで十字軍を散々に追い回した。
大陸暦1565年11月30日。この日は第二次十字軍遠征が失敗した日付として歴史に刻まれることとなった。