婚約者の浮気相手を突き止めたら、彼の護衛騎士(男)でした。いっしょに尾行した騎士団副団長(相手の兄)が、なぜかわたしの隣を離れません
「月の日の夕方は、どうしても外せない用があってね」
仕立て屋の試着室の鏡ごしに、フィリベール様は申しわけなさそうに微笑んだ。
「衣装合わせの続きは、また次の機会に。ラシェル、そのドレス、とてもよく似合っているよ」
「……ありがとうございます」
わたしは鏡の中の自分を見た。
白い絹の花嫁衣装。裾にはまだ待ち針が何十本も刺さっていて、動くたびにちくちくする。結婚式まであと三月。
フィリベール様は、わたしの手の甲に、そっと唇を寄せる真似をした。触れるか触れないかのところで止めてすぐに離した。いつもそうだ。婚約して一年、この人の唇がわたしの肌に触れたことは一度もない。
「では、また」
フィリベール様は外套を腕にかけて足早に試着室を出ていった。
扉が閉まる直前、外套の裾が、ふわりとめくれた。
黒い毛が一本、灰色の生地に貼りついていた。
短くて、硬そうで、まっすぐな、黒い毛。
フィリベール様の髪は、蜂蜜色だ。わたしの髪は栗色だ。
扉が閉まった。
「お嬢さま、腕をもう少し上げてくださいませ」
仕立て屋のおかみさんの声でわたしは我に返った。
腕を上げながら、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
ブロワ侯爵家の嫡男、フィリベール様。二十四歳。
蜂蜜色の髪に、灰色がかった青い目。物腰がやわらかくて、詩を愛していて、誰にでも丁寧な人。
そして、わたしの婚約者だ。
わたし、ルノー伯爵家の一人娘ラシェルは二十一歳。一年前、父同士の話し合いで、この縁談が決まった。
政略結婚だということは、わかっている。
それでも、わたしは、この人を好きになろうと決めた。好きになれると思った。だってこんなにやさしい人なのだ。
フィリベール様は、贈り物を欠かさない。わたしの誕生日には、古い詩集をくれた。夜会ではいつもわたしの椅子を引いてくれる。わたしが話すと、最後まで黙って聞いてくれる。
でも目を見てくれない。
話しているとき、フィリベール様の目は、いつも、わたしの肩の少し向こうを見ている。手をつないでも、指先にほとんど力が入らない。
照れ屋なのだと思っていた。
詩を愛する人は恋に臆病なのだと、わたしの好きな恋愛小説にも書いてあった。
「……でも、黒い毛よね」
屋敷に帰って、わたしは寝台の上に座りこんで侍女のジャンヌに言った。
「黒い毛ですか」
「外套に、ついていたの。短くて、硬くて、まっすぐな、黒い毛」
ジャンヌはわたしの脱いだ手袋をたたむ手を止めた。十八の、目端のきく侍女だ。
「犬の毛では?」
「侯爵家に、黒い犬はいないわ」
「馬の毛では」
「馬の毛はもっと長いわ。それに、月の日の夕方だけ外せない用があるのよ。毎週、毎週。婚約してからずっと」
言いながら、自分の声がだんだん早口になっていくのがわかった。
「詩の会だって言っていたわ。でも、詩の会なら、わたしを連れていってくれてもいいはずよね。わたし、詩は嫌いじゃないもの。一度、連れていってほしいって頼んだら、眉を下げて笑って話を変えたのよ」
「お嬢さま」
「それに、外套から、ときどき、土の匂いがするの。湿った土と、甘い花の匂い。詩の会で土の匂いがする?」
ジャンヌはしばらく黙っていた。
それから、エプロンのポケットから、小さく折りたたんだ紙きれを取り出した。
「……実は、これを。先週、フィリベール様が客間にお忘れになった手袋をお届けする前にお預かりしたら、指の中から出てきて」
「ジャンヌ! どうして黙っていたの」
「お嬢さまが、あんまり幸せそうに衣装を選んでいらしたものですから」
わたしは震える指で紙きれを開いた。
きれいな字ではなかった。大きくて、少し右に傾いた、力の強い字。
月の日、いつもの温室で。――D
わたしは紙きれを見つめた。
D。
デルフィーヌ。ドロテ。ダフネ。ディアーヌ。
頭の中をDで始まる令嬢の名前が、次々に駆けぬけていった。王都の社交界に、Dで始まる令嬢は、少なくとも十一人いる。
胸の奥の軋みがぎしり、と大きくなった。
泣くかと思った。でも、涙は出なかった。
かわりに、腹の底から、むくむくと、熱いものがこみ上げてきた。
一年、好きになろうとしてきた。目を見てくれない理由を毎晩、自分の中で探してきた。照れ屋だから。詩人だから。わたしに魅力が足りないから。
その答えがDなら。
「ジャンヌ」
「はい」
「次の月の日、あなたのお仕着せを一着、貸してちょうだい」
ジャンヌはゆっくりと目を閉じて、それから開けた。
「……お嬢さま。尾行は恋愛小説の中だけにしておいたほうが」
「結婚式まであと三月なの。知らないまま、あの人の隣で誓いの言葉を言うほうが、ずっと怖いわ」
月の日の夕方、わたしはジャンヌのお仕着せに着がえて、侯爵家の屋敷の裏門の向かいの生け垣に隠れた。
日が落ちて裏門がそっと開いた。
フィリベール様が出てきた。供も連れずに、灰色の外套の頭巾を深くかぶって。
フィリベール様は、王宮のほうへ歩いていった。正門ではなく、北の、古い庭園のほうへ。
わたしは間をあけてついていった。
王宮の北の庭園は、先代の王妃さまが亡くなってから、手入れをする者がいなくなった場所だった。伸び放題の生け垣のあいだに、ガラス張りの古い温室がぽつんと立っている。
温室の中に、ぼんやりと明かりがついていた。
いつもの温室。
わたしは温室の手前の、背の高い生け垣の陰にしゃがみこんだ。もう少し近づけば、中が見える。そう思って、生け垣の隙間に身をよじって入りこもうとした、そのとき。
生け垣の反対側から、何か大きなものが、同じ隙間に体をねじこんできた。
ごつん。
額と額がぶつかった。
「いっ……!」
「……ぐっ」
目の前に、熊がいた。
いや、熊ではなかった。熊ほど大きな、男の人だった。黒い髪を短く刈りこんで、地味な茶色の外套を着ている。外套の上からでもわかるほど、肩も胸も分厚い。
その人は額を押さえながら、わたしをにらみつけた。
「……あんたか」
低い、かすれた声だった。
「あんたが、弟をたぶらかしている女か」
「は?」
「毎週、月の日に、弟をこの温室に呼び出しているのはあんただな。侍女のなりをしても、手を見ればわかる。働いたことのない手だ」
「た、たぶらかしているのは、そちらの弟さんのほうでしょう!」
わたしは思わず声を上げた。
「わたしの婚約者を毎週、月の日に、この温室に呼び出しているのはあなたの――」
言いかけて止まった。
弟。
この人の弟。黒い髪の。
頭の中で、何かが、がちゃりと音を立てて噛みあった。
短くて、硬くて、まっすぐな、黒い毛。
大きくて、少し右に傾いた、力の強い字。
D。
「……あの。弟さんのお名前をうかがってもいいですか」
大男は額を押さえたまま、眉を寄せた。
「ディオン。近衛騎士だ。今はブロワ侯爵家の嫡男の護衛についている」
わたしは生け垣の中でゆっくりと口を開けた。
デルフィーヌでも、ドロテでもダフネでもなかった。
「……わたし、フィリベール様の婚約者の、ラシェル・ルノーと申します」
大男の手が額から、ぽとりと落ちた。
その人はベルナルド・マルソーと名乗った。近衛騎士団の副団長だという。二十九歳。ディオンさんは七つ下の、たった一人の弟だそうだ。
「弟が、毎週、月の日の夜に、宿舎を抜けだす」
生け垣の陰にしゃがんだまま、ベルナルド様は低い声で言った。体が大きすぎて、生け垣から肩が半分はみ出している。
「どこかの令嬢に入れあげているのだと思った。身分ちがいの恋で騒ぎになれば、弟は騎士でいられなくなる。それで、今夜こそ相手を突き止めて話をつけようと……」
「それで、わたしをその令嬢だと」
「……すまん」
ベルナルド様は大きな背中を丸めた。熊が叱られて小さくなっている。
わたしは少しだけ笑いそうになった。笑っている場合ではないのに。
「わたしも、Dで始まる令嬢を十一人、疑っていました」
「十一人」
「王都の社交界に、Dで始まる令嬢は十一人いるんです」
ベルナルド様は何か言いかけてやめた。それから、温室のほうに目をやった。
「……中を見るか」
わたしは膝の上で両手を握りしめた。
見たら、もう戻れない。見なければ、三月後、何も知らずに誓いの言葉を言う。
「見ます」
わたしたちは並んで、生け垣の隙間から顔を出した。
温室のガラスごしに、中が見えた。
古い鉢が並んだ棚のあいだに、小さな角灯が一つ、吊るしてある。その光の中で、フィリベール様が、木の椅子に座って詩集を開いていた。
声は聞こえない。でも、唇が、ゆっくりと詩を読んでいるのがわかった。わたしの誕生日にくれたのと、同じ詩集だった。
その足もとで、黒い髪の若い騎士が、しゃがみこんで、蘭の鉢の土を指でほぐしていた。袖をまくって泥だらけの手で。
詩を読み終えたのか、フィリベール様が本を閉じた。
若い騎士が顔を上げた。
フィリベール様が、笑った。
わたしは息を止めた。
あんなふうに笑うフィリベール様をわたしは一度も見たことがなかった。目尻がくしゃりと下がって、子供のように、肩を揺らして笑っている。
フィリベール様が、手を伸ばして、若い騎士の頬についた泥を親指で拭った。
若い騎士がその手首をそっとつかんだ。
フィリベール様が、少しだけ身をかがめた。
二人の影が角灯の光の中で一つに重なった。
隣で、どすん、と重い音がした。
ベルナルド様が生け垣の中に、尻もちをついていた。
わたしは両手で口を押さえたまま、動けなかった。
胸の奥の軋みがぴたりと止まった。
止まって、そのあとに、何が来るのか、自分でもわからなかった。
帰り道、ベルナルド様は、わたしを屋敷まで送ると言ってきかなかった。
「夜道に、侍女のなりの令嬢を一人で帰せるか」
二人で、黙って石畳の道を歩いた。ベルナルド様の歩幅は、わたしの倍くらいある。それなのに、気がつくと、わたしの横にぴたりと並んでいた。歩幅を合わせてくれているのだと、しばらくしてから気づいた。
「……泣かないのか」
ぼそりと、ベルナルド様が言った。
「泣くと思っていました」
わたしは正直に答えた。
「でも、出てこないんです。不思議なくらい。悔しいとも、ちょっと違って」
歩きながら、自分の胸の中をのぞきこんだ。
「一年、ずっと考えていたんです。どうして、目を見てくれないんだろうって。わたしに、何か足りないんだろうって。今夜、答えがわかりました。わたしに足りないものなんて何もなかった。最初から、わたしじゃなかったんです」
言ってしまってから、喉の奥が、きゅっと狭くなった。
ほっとしたのだ。わたしはほっとしている。そして、ほっとしている自分が、少しだけ、みじめだった。
「……一年、がんばったのにな」
ベルナルド様が前を向いたまま言った。
その一言で、目の奥が、急に熱くなった。
泣かないと思っていたのに、ぽろりと一粒、こぼれた。
ベルナルド様は何も言わずに、自分の外套を脱いで、わたしの肩にかけた。ずしりと重くて、馬と革と、少しだけ汗の匂いがした。
「弟は、子供のころから、花の世話が好きだった」
しばらくして、ベルナルド様がぽつりと言った。
「騎士の家の次男に、花の世話は似合わないと、父に叩かれていた。それでも、裏庭の隅でこっそり鉢を育てていた。……あんなふうに笑う弟を俺は十年ぶりに見た」
大きな手が外套の上から、わたしの肩をぎこちなく一度だけ叩いた。
「あんたにとっては、ひどい話だ。弟の兄として謝る」
「ベルナルド様が謝ることでは」
「謝らせてくれ。……ほかに、何もしてやれん」
屋敷の門が見えてきた。
わたしは外套を返そうとした。ベルナルド様は首を振った。
「次に会うときに返してくれればいい」
「次に、会うんですか」
ベルナルド様は少しだけ目を泳がせた。熊が困っている。
「……あんたは、次の月の日、もう一度あの温室へ行くつもりだろう」
わたしは目を見開いた。
「どうしてわかるんですか」
「生け垣から首を突っこむ娘が、このまま黙って引き下がるとは思えん」
ベルナルド様は門の前で足を止めた。
「行くなら、俺も行く。弟と、話をしなければならん」
それからの一週間は、長かった。
水の日の夜、侯爵家の夜会があった。フィリベール様は、いつもどおりわたしを迎えに来て、いつもどおり椅子を引いてくれた。
その後ろに、ディオンさんが立っていた。
近衛の濃紺の制服。黒い髪を短く刈りこんで、背筋をまっすぐ伸ばしている。護衛騎士として、婚約者の夜会に付き従うのは当たり前のことだ。一年のあいだ、わたしは、この人を何十回も見ていたはずだった。
見ていなかった。
一度も、ちゃんと見ていなかった。
フィリベール様が、わたしに葡萄酒を注いでくれる。その手がほんの一瞬、止まる。止まったとき、フィリベール様の目は、わたしの肩の少し向こう、壁ぎわに立つ濃紺の制服のほうを見ている。
ディオンさんは前を向いたまま、まばたき一つしない。でも、フィリベール様が笑うと、その喉が、ごくりと小さく動く。
知ってしまうと、全部見えた。
一年、わたしの肩の向こうにあったもの。
わたしは葡萄酒の杯を両手で持ってゆっくりと一口飲んだ。
悔しいかと訊かれたら、少しだけ悔しい。
悲しいかと訊かれたら、少しだけ悲しい。
それなのに、杯の縁ごしに二人を見ていると、胸の奥のどこかが、じんわりと温かくなってくるのだった。あの二人は一年間、わたしの目の前で、わたしに見つからないように、ずっと好きでいたのだ。
ばかみたい、と思った。
誰がばかなのか、わたしにもわからなかった。
金の日の午後、王都の本屋の奥でベルナルド様と会った。
待ち合わせに本屋を選んだのはわたしだった。人目につかなくて、立ち話をしていても怪しまれない場所。ところがベルナルド様は、本棚と本棚のあいだの細い通路に、まるで収まらなかった。体を横にしても、肩が棚に当たって、詩集が三冊、床に落ちた。
「……すまん」
ベルナルド様は落ちた詩集を拾い上げて背表紙をじっと見た。
「弟の部屋にも、これと同じものがあった。読むのか、こういうのを」
「わたしは、恋愛小説のほうが好きです」
「恋愛小説」
「尾行が出てくるものもあります。たいてい生け垣から肩ははみ出しません」
ベルナルド様は眉間に深い皺を寄せた。それから、ふっと短く息を吐いた。笑ったのだ、と気づくのに、少しかかった。熊も、笑うらしい。
「月の日、温室で何を言うつもりだ」
ベルナルド様が声を落として訊いた。
「まだ、決めていません。怒るのか、許すのか、泣くのか。たぶん扉を開けてみないとわからないと思います」
「そうか」
「ベルナルド様は?」
ベルナルド様は手の中の詩集をしばらく見下ろしていた。
「……弟が十二のとき、裏庭の鉢を父に叩き割られた。俺はそれを黙って見ていた」
大きな指が詩集の角をゆっくりとなぞった。
「止めれば、俺も叩かれる。それが怖かった。十九にもなって父の拳が怖かった。弟は割れた鉢の前で声も出さずに泣いていた。……それから、弟は二度と、俺の前で花の話をしなくなった」
本屋の奥は静かだった。どこかで店主が紙をめくる音がした。
「月の日に、弟に何を言うかは俺も決めていない。ただ、今度は、黙って見ているのだけはやめようと思っている」
わたしはベルナルド様の横顔を見上げた。
近衛騎士団の副団長。王都でいちばん強いと言われる騎士の一人。その人が十年前の割れた鉢のことをまだ指先で探している。
「……わたし、ベルナルド様を最初に見たとき、熊だと思いました」
「熊」
「でも、今は、熊ではないと思います」
「何に見える」
わたしは少し考えた。
「割れた鉢をずっと捨てられずにいる人に見えます」
ベルナルド様は何も言わなかった。
ただ、詩集を本棚に戻す手が、ほんの少しだけ、ゆっくりになった。
次の月の日。
温室の扉を開けたのはわたしだった。ベルナルド様はその後ろに立っていた。
角灯の下で、フィリベール様と、ディオンさんが、同時に振り向いた。
フィリベール様の手から、詩集が床に落ちた。
「……ラシェル」
「兄貴……」
ディオンさんの顔から、血の気が引いていった。とっさに、フィリベール様の前に、自分の体を割りこませた。護衛騎士の動きだった。
わたしは温室の中に入った。
土と、湿った苔と、甘い蘭の匂いがした。外套にいつもついていた匂いだ。
「先週、見ました」
わたしは言った。声は思ったよりも落ち着いていた。
「お二人のことを。生け垣の陰から。……尾行したんです。ごめんなさい」
フィリベール様は、しばらく何も言わなかった。
それから、ディオンさんの肩に、そっと手を置いた。下がっていい、というふうに。ディオンさんは首を横に振った。フィリベール様は、もう一度、肩を押した。ディオンさんは唇を噛んで半歩だけ横にずれた。
フィリベール様が、わたしの前に立った。
そして、膝をついた。
「ラシェル。謝らなければならないのは私だ」
フィリベール様の目が、初めてまっすぐにわたしを見た。
「三年前から、私はディオンを愛している。この温室で、蘭の鉢を拾ってきた彼に会った日から、ずっと」
ディオンさんがぎゅっと拳を握った。
「父は、それを知らない。知れば、ディオンは騎士でいられなくなる。だから、私は、あなたと結婚するつもりだった。あなたを大切にして、良い夫になって、家を継いで……ディオンとは、婚礼の日に終わりにすると、二人で決めていた」
婚礼の日に、終わりにする。
わたしはフィリベール様の顔を見下ろした。それから、ディオンさんの顔を見た。
二人とも、同じ目をしていた。
とっくに、何もかもあきらめた人の目。
その目を見た瞬間、腹の底の熱いものが、ぐらりと煮え立った。
「……ふざけないでください」
声が温室のガラスに跳ね返った。
「わたしは、あなたがたが、あきらめる練習をするための、花嫁ではありません」
フィリベール様の肩がびくりと揺れた。
「一年です。一年、わたしは、あなたを好きになろうとしました。目を見てくれない理由を毎晩、探しました。わたしに足りないものを毎晩、数えました。そのあいだ、あなたは、わたしの肩の向こうに、ディオンさんを見ていたんでしょう」
「ラシェル、私は……」
「それなのに、婚礼の日に、ディオンさんを手放す? わたしの隣で誓いの言葉を言いながら、ディオンさんを護衛に立たせて? それで、わたしが幸せになれると思ったんですか。ディオンさんがそれで生きていけると思ったんですか」
息が切れた。
温室の中がしんと静まりかえった。
角灯の火がじじ、と小さく鳴った。
最初に動いたのはディオンさんだった。
ディオンさんはわたしの前に進み出て深く頭を下げた。
「……すみません。俺が悪いんです。フィリベール様は、何度も、あなたに打ち明けると言いました。止めたのは俺です。兄貴に知れたら、家の恥になるって」
ベルナルド様が温室の入り口で低く言った。
「恥なものか」
ディオンさんがはっと顔を上げた。
「おまえが十二のとき、裏庭の鉢を父上に叩き割られたな。俺は黙って見ていた。止めなかった。それを十年、悔やんでいる」
ベルナルド様は大股で温室の中に入ってきた。古い棚の、泥だらけの蘭の鉢を一つ、大きな手で持ち上げた。
「今度は、黙って見ていない。鉢を割るやつがいたら、俺が止める」
ディオンさんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
フィリベール様が、床に膝をついたまま、両手で顔を覆った。
わたしは温室の真ん中に立ちつくしていた。
怒鳴ったせいで、喉がひりひりしていた。そして、怒鳴ったあとの胸の中は、驚くほど、すっきりしていた。
しばらくして、ディオンさんが袖で顔を拭いて、わたしの前に戻ってきた。
泥だらけの手を、ズボンで何度もこすっている。それから、棚の上の小さな鉢を一つ取って、わたしに差し出した。
白い蘭だった。花びらの縁だけが、ほんのり桃色に染まっている。
「……これ、俺が三年かけて咲かせたやつです。最初の花です」
「わたしに?」
「怒鳴ってくれた人に、渡したかったんです。俺たちのことで、本気で怒ってくれた人は、あなたが初めてだから」
わたしは、鉢を両手で受け取った。素焼きの鉢は、ディオンさんの手の温かさが残っていた。
「怒ったのは、あなたがたのためじゃありません。わたしのためです」
「それでも、です」
ディオンさんは、兄によく似た、不器用な笑い方をした。
フィリベール様が、床から立ち上がって、ディオンさんの隣に並んだ。二人の肩が、ほんの少しだけ触れた。今度は、どちらも、わたしの目から隠そうとしなかった。
温室から帰った夜、わたしは、父の書斎の扉を叩いた。
父はルノー伯爵家の当主で穏やかな人だ。母が早くに亡くなってから、わたしを一人で育ててくれた。怒鳴ったところを一度も見たことがない。
「お父さま。フィリベール様との婚約を解いていただきたいんです」
父は読んでいた書類から顔を上げた。眼鏡を外して机の上に置いた。
「理由を聞いてもいいかい」
「フィリベール様には、ほかに愛している方がいます。わたしはその方の代わりにはなれません。なりたくもありません」
相手の名前は言わなかった。それだけは、わたしが言っていいことではなかった。
父はしばらく黙っていた。それから、立ち上がって書斎の窓を開けた。夜の風が紙の匂いのこもった部屋に流れこんだ。
「……一年前、この縁談を決めたとき、おまえは、好きになれると思います、と言ったね」
「はい」
「好きになれなかったのかい」
「好きになろうとしました。毎晩。でも、あの方の目は、ずっと別の方を見ていました」
父は窓の外を見たまま、うなずいた。
「おまえは、母さんに似て我慢が上手だ。上手すぎる」
父の声が少しかすれた。
「侯爵家との話は私がつける。おまえは何も心配しなくていい」
わたしは父の背中に向かって頭を下げた。顔を上げたとき、父はまだ窓の外を見ていた。肩が少しだけ揺れていた。
婚約はひと月後に解かれた。
簡単ではなかった。ブロワ侯爵は息子の口から「愛する人がいる」と聞いたとき、書斎の机を拳で叩いて、相手は誰だと怒鳴った。フィリベール様は、最後まで名前を言わなかった。
かわりに、言った。
「父上。私はブロワ家を継ぎません。継ぐのは従弟でいい。あれのほうが領地の仕事に向いている」
そして、王宮の外務卿に願い出て、南の島国へ赴く外交官の職を得た。南の島国には、古くから「誓いの剣」という習わしがある。生涯を共にすると誓った二人が、性別にかかわらず、一つの剣に名を刻む習わし。
護衛として同行する近衛騎士の名簿に、ディオン・マルソーの名があった。
婚約を解く席で、侯爵は、わたしの父に、それでも持参金の半分は払ってもらいたいと言った。婚礼の支度にかかった金があるからと。
父は紅茶を一口飲んでから、穏やかに答えた。
「持参金というのは、娘が幸せになる家に払うものでして」
侯爵はそれきり、何も言わなかった。
わたしは父の横で膝の上の手をそっと握った。
南へ向かう船は秋の初めに港を出た。
桟橋の端で、フィリベール様は、わたしの手を両手で包んで目を見て言った。
「ラシェル。あなたが温室の扉を開けてくれなかったら、私は一生、あなたの肩の向こうを見て暮らしていた」
「今は、ちゃんと目を見てくださいますね」
「ああ。……あなたの目は、こんなに明るい色だったんだな」
わたしは笑ってしまった。一年かけて、やっと気づいてもらえたのが、わたしの目の色だった。
ディオンさんは兄の前で背筋を伸ばして敬礼した。ベルナルド様は敬礼を返さずに、弟の頭を大きな手でがしがしとかき回した。
「向こうで好きなだけ鉢を育てろ」
「……うん」
船がゆっくりと岸を離れていった。甲板の上で、蜂蜜色の頭と、黒い頭が、並んで手を振っていた。
船が小さくなるまで、わたしとベルナルド様は、桟橋の端に並んで立っていた。
「……行ったな」
「行きましたね」
潮風がわたしの髪を顔に吹きつけた。わたしは肩にかけたままだったものに、気がついた。
「あ。外套」
ひと月前から、返しそびれていた。毎週のように会っていたのに。婚約を解く相談に乗ってもらったり、ディオンさんの出立の支度を手伝ったり、今日の船の時刻を調べてもらったり。そのたびに、なぜか、返すのを忘れた。
「お返しします。ずっと、すみません」
外套を脱ごうとしたわたしの手をベルナルド様の大きな手が止めた。
「……返さなくていい」
「でも、副団長の外套でしょう」
「予備がある」
ベルナルド様はわたしの手から目をそらして港のほうを見た。耳の先が真っ赤になっていた。熊が照れている。
「ラシェル嬢。……俺は尾行が下手だ」
「知っています。生け垣から、肩がはみ出していました」
「だから、もう尾行はやめる」
ベルナルド様はゆっくりとわたしのほうへ向き直った。
「これからは、後ろでも、生け垣の陰でもなく、あんたの隣を歩きたい。……歩幅は合わせる」
潮風の中で、心臓が、どくん、と鳴った。
一年、目を見てくれない人の隣で、わたしは、自分に足りないものを数えていた。
今、目の前の人は、真っ赤な耳のまま、まっすぐにわたしの目を見ている。
「……ベルナルド様の歩幅は、わたしの倍です」
「知っている。最初の夜から、合わせている」
わたしは外套の前を両手でぎゅっと合わせた。馬と革と、少しだけ汗の匂いがした。
それから、大きな手のひらに、自分の手をそっと重ねた。
ベルナルド様の指が、わたしの手をしっかりと握り返した。フィリベール様とは違って、指先にまでちゃんと力が入っていた。
(完)




