撤退
二条は、吾妻と同じアパートでも、保険用に借りている部屋でもなく、ホテルを選んだ。
商談も取り引きも、全て終わっている。新しい話が来るまで、ゴシップの一つでも三流誌に流してやろうかと考えはしたが、今日は、それすら面倒だった。
何もしたくない日だと、そう決めていた。
廃工場に向かったのは、まだ空が明るい時間だった。
骨董品に触れていた時間は短い。それに比べて、殴り合っていた時間は、妙に長く感じられた。
床に大の字になっていた時間も含めれば、空がすっかり暗くなった頃、ホテルに辿り着いた。
フロントに立った瞬間、視線が集まるのが解った。受付の人間も、すれ違う客も、一瞬だけこちらを見る。
服の汚れか、顔の傷か。
どちらでもいい。気にする理由がなかった。
部屋に入っても、晩御飯を食べる気にはならなかった。風呂に入る気にもなれない。
ベッドに横になり、暫くそのまま動かなかった。
二条は、私用と仕事用のスマートフォンを一台ずつ持っている。ポケットから私用の方を取り出し、画面を点けた。
連絡先を開き、名前を探す指が止まる。
何か送ろうとして、やめた。用件がないわけじゃない。唯、言葉が出てこなかった。
結局、何も送らずに画面を閉じる。今日は、何もする気になれなかった。鼻血も、切れたところから滲んだ血も、外套で拭っただけだった。
手にも、頬にも、乾いた感触が残っている。それでも構わなかった。
洗い落とす程の気力も、今はなかった。
二条はゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
「……くだらねぇ」




