空白
隣の部屋──二条の自宅が何日間か静寂に包まれるのは、たまにあった。
長くて一週間。だが、一週間以上不在なのは、多分初めてではないだろうか、と、吾妻は感じた。
メッセージも何一つ送られてくる気配がない。“帰りは遅いのか”と送ろうかと、画面をなぞる指が止まる。
普段はショートメッセージを全て無視していたが、今回に限っては何故か確認していた。
九日前、二条から“京都に行って来るね”とだけ送られてきていた。しかも、少し言い合いをした日の後だ。
今日か明日には帰って来るだろうと思ったが、妙に落ち着かない。
それは、二条の元へ行った方が良い気がしたからだろうか。
◆
「ねぇ、これお気に入りの外套だからさ、弁償してくれねぇかな。こないだクリーニングに出したばっかだってのに、また血ィついてるし、肩の部分なんて切れてんだけど」
二条は相手を睨みつけながら文句を垂れた。
「伊達クン、まだそんな余裕あるんやなぁ。せやけどな、長引かせてるのは自分やで」
「(ほらな。やっぱりお前だろ)だから電話で何度も言っただろ!俺は正しい情報しか言ってねぇって。俺を何度殴ろうが、云う事はもうない。それとも組長さんに売った書に文句でもあった?」二条は嘲笑いながら続ける。「長引かせてでも、俺の口をどうしても塞ぎたい奴が居るのは確かだけどな」
「どういう意味や、それ」
男は血が滴るナイフを、口を開こうとした二条の喉元に突き付けた。刃先が皮膚に触れ、軽く圧がかかる。もう一押しで声帯を傷つける距離だった。血が外套の襟を濡らす。
(こんな事されたって俺は死なない)
「静かにしぃや、伊達クン」
ナイフを持った男は足元に落ちていたヒビが入ったスマートフォンを拾い、中身を確認する。
「おい、外見張っときや」
「はい」
ナイフを手元で遊ばせながら、男は部下に指示を出した。「最新のメールも無し。通話履歴は俺が最後、と」
「追加で金、出してくれるなら──」
二条が余計な事を言うのではと、こめかみが勢いよく殴られた。
「誰が殴れ言うたんや。俺、そんな乱暴せえ言うたか?」
ナイフを持った男が、二条を殴った男の胸倉を掴む。
「──それが答えだ」
「テメェそれ以上喋ったら、ぶっ殺すぞ!」
──嵌められてるのは俺か、それとも。
二条が解放されたのは、軟禁されてから十日目の夕方だった。
縄が解かれ、外套の袖には皺が寄っている。廃工場の真ん中で大の字になり、天井を見つめながら息を吐く。
(同じ内容の依頼で、こうなるとはなぁ。ヤクザ面倒臭ぇ)
目を閉じたら、そのまま開かない気がした。来るな、と思ったが、今は動く気になれなかった。
頭上に影が落ちる。幻かと思い、反応が遅れた。
「え、幻…?桃源郷行き…?」
視界が血でぼやける目を擦る。
「こんな所で寝てたら風邪引くぞ」
「…龍臣君だ(又こんな姿…)」
体を反転させ、吾妻を見上げる。
「もしかして旅行?」
「そんなとこだな」
吾妻は呆れ気味に鼻で笑い、袖口で二条の顔の血を拭った。
頬から眉毛にかけての切り傷、肩から胸への傷、鼻血、殴られた痣、乾いた血。
外套は血や土埃で汚れている。二条は何か言いかけ、タクシーに乗る事を拒んだ。
「黙れ」
二条は、吾妻に無理やりタクシーに押し込まれる。
吾妻の声は、二条の怪我のせいではなかった。
◆
三日後。二条は吾妻と京都を旅行していた。
左目は眼帯で覆われ、喉には絆創膏、頬等には殴られた痣が目立つ。服で隠れているが、右肩から胸にかけて包帯が巻かれていた。
そこに一本の電話。書を購入した柏木組長からだった。
二条は隠れ家的なカフェに呼び出された。
「何ですか。俺等今旅行中なんですけど。商談なら別日でお願いします」
「そりゃ悪い事をした。今日は先日の件で呼び出した」
「ああ。薬を密かに隠してた奴が柏木組に居たのは本当でしょう?俺の十日間を犠牲にしたお陰で」
二条は腕を組み、ソファの背もたれによしかかる。「俺は売人であって情報屋じゃない。金さえ払ってくれれば仕事はする。だが、今回みたいなのは勘弁してほしいもんですね。裏切り者のせいで、俺のお気に入りの外套は台無しだし、お陰で死にかけた」
丁寧に縫われた外套の肩口を指し、遠回しに弁償を要求する。
(十日も消息がなかったくせに、上着の心配かよ)
吾妻はその軽さに、何故か腹が立った。
「伊達君。こちらを受け取って欲しい」
部下からアタッシュケースを受け取り、テーブルに置く。中身は札束が詰まっていた。
「裏切り者を炙り出した追加料金。そして、その上着の弁償代だ」
「…。」二条は暫し考える。予想よりはるかに多い額。
札束の匂いが、まだ乾いていない血の匂いを思い出させる。
十日分の命が、紙の束に換算された。安いのか、高いのか、分からない。これで十日分の命は清算らしい。
──俺の命って、こんな匂いしてたっけ。
「そうですか。では、又何かあれば。ご贔屓に」二条は会釈し席を立った。
吾妻は「金で済ませるな」と言いかけたが、軽く頭を下げて二条の後を追う。
アタッシュケースを見つめる吾妻の奥歯が軋んだ。




