波紋
ベランダの仕切りをくぐり吾妻の部屋に入り込んでいた二条は、自宅の鍵が中にある事を思い出し、昼過ぎには、再び柔軟に仕切りを抜けて帰っていった。
やがて隣から、抑えきれない怒声が響く。次いで、何かを蹴る音と、乱暴に閉まるドア。
吾妻は煙草を咥えたまま、少しばかり目を細めた。
(アイツでも、あんな声出すんだな)
◆
「玖礼、アタシ今日、何本でもボトル入れちゃえるよ?」
両側をリボンで結んだ女が、甘えるように腕を絡めてくる。
「へぇ?そんなこと言っていいの、姫」
玖礼は柔らかく笑い、指先で女の顎をすくい上げた。
「じゃあ今夜は、俺の為に溺れてくれる?」
「勿論だよ」女は頬を紅く染め、返事は甘さを帯びていた。
女の甘い声に、玖礼は喉の奥で笑った。グラスを傾けさせ、指先でそっと手を包む。
「姫が酔う顔、俺好きだよ」
完璧な声音。完璧な距離。けれど不意に、隣室で聞いた怒声が耳の奥で反芻する。
──あんな声、俺には向けた事なかったくせに。
ほんの一瞬だけ、玖礼の目から光が落ちた。
「……玖礼?」
「ん?なに、姫」
何事もなかったように、又笑う。
閉店間際、先程の両サイドがリボンの女とは違う女性が、アフターへ誘ってきた。
あまりにもしつこく迫る彼女に、玖礼は上手くかわすも、ネイルが頬を掠める。薄っすら傷が出来た。
「あっ、玖礼ごめんなさ…」
「うん。姫、今日は酔い過ぎたみたいだし、また今度、な」
玖礼は怒らず、優しくあしらうが、笑顔の奥は笑っていなかった。
二条は、もう吾妻が帰る頃かなとホストクラブへ向かうと、丁度、吾妻が客と別れたところだった。
「お兄さーん」
軽く手を挙げながら二条が近付いてくる。
「今から帰るとこ?」二条の目は、ネイルが掠めて薄っすら傷の出来た頬に釘付けだった。「───…」
無言で外套のポケットから絆創膏を取り出し、そっと貼り付ける。
その目付きは、軽口の時や胡散臭い笑顔ではなく、どこか冷ややかで、でもほんの少し心がざわつく気配があった。
そして何も言わず踵を返すと、吾妻が腕を掴んできた。
「二条、待てよ」
二条は無言のまま、吾妻が何を言うのか静かに待つ。
「アンタ何に怒ってんだよ」
「別に怒ってないよ。でも──客だからって、何でも触らせんな」
吾妻は化粧で隠れている傷に手を添えながら、少し眉を上げる。
「アンタが云うなよ」
正論を言われ、二条は口を閉ざす。
一瞬、目の奥に小さな苛立ちが走るが、それはすぐに消える。
「俺はいいんだよ。傷があろうと男前でしょ?」
何時もの軽口と、細い目で笑う。
吾妻はその笑顔に、肩の強張りを、少しだけほどき肩の力を抜き、視線を落とす。
胸の奥で絡まる苛立ちや微かな嫉妬は、今はまだ言葉にならない。
それでも、絆創膏をなぞった指先が、これ以上傷を増やさない静かな約束を告げていた。
「さ、龍臣君、帰ろ」
低く、落ち着いた声。二条の手が少しだけ吾妻の背中に沿う。
吾妻は小さく息をつき、握った手をゆるめ、二条の歩調に合わせて並ぶ。
夜風が二人の間を抜け、静かに、互いの距離を確認するように過ぎていった。




