越境
「ねぇ、龍臣君。そっち行っていい?」
二条は手すりに頬杖をつき、煙草を咥えたまま、視線だけで問いかける。
「ああ、まぁ、いいけど」
二条は隣のベランダとの仕切りを軽く押してみる。酒瓶、煙草、スマートフォンを隣のベランダに移し、少し腰を落として体を捻り、仕切りの隙間を通って吾妻の自宅側のベランダに滑り込む。
元水泳部だったせいか、その動きは柔軟で、喧嘩にも慣れている、そんな無駄のなさがあった。
「いや、玄関から来いよ」と、吾妻は笑った。
二条は煙草を咥えたまま、悪戯っぽく笑う。
「何か、こういうのもいいじゃん?」
スウェットの裾や足の裏の埃を手で軽く払うと、二条はそのまま部屋に入った。
「──その記事がこれで、あ、これ俺が書いたやつなんだけど。で、名古屋からこっち帰ろうとした時に、この傷出来たんだけど、駅向かうタイミング悪かったみたいでさぁ。もうソイツは捕まったんだけど───」
二条は酒を煽りながら、途切れることなく話し続ける。仕事終わりの吾妻は、相手が二条だから聞いているのか、それとも聞き流しているのか、表情からは分からない。
「二条。一回黙れ」
突然、背後から二条の顎を軽く持ち上げ、唇をそっと重ねる。
グラスを落としかけ思わず息が止まる。
「────ぇ……………」
これまで二条から軽くキスをした事はあったが、吾妻からここまで大胆に仕掛けられるとは思っていなかった。不意打ちすぎて、口が塞がらない。
「何だ、そのアホ面。俺にキスしてきた野郎の面とは思えねぇな」
「いや、だって…………龍臣君、だから…」
グラスで顔を隠そうとするが、全く隠せていない。最後には恥ずかしさで、声が消え入りそうになる。
吾妻は低く、試すように言った。
「俺がしねぇ理由、言ってみろ」
二条は少しだけ考え、苦笑した。
「……俺が…調子乗るから?後、龍臣君、恋愛嫌いだって云ってたから」
沈黙が落ちる。
次の瞬間、吾妻は鼻で笑った。
「正解」
短く言い放つと、再び二条にゆっくり唇を重ねる。そのキスは先程よりも長く、逃げる隙を与えない。二条の手は思わず吾妻のスウェットを掴み、布が皺になる。
離れた瞬間、二条は完全に固まっていた。
「……龍臣君」
「何だ」
「今日、どうしたの」
吾妻は煙草を灰皿に押し付け、火を消す。
「別に」ぶっきらぼうに言いながら、二条の頬に残る赤みを親指でそっと擦った。「お前が来たからだろ」
軽く言ったその言葉に、二条の呼吸が浅くなる。
「……それ、反則」
「五月蝿ぇよ」
吾妻は二条の後頭部に手を回し、額を軽くぶつけた。
「黙れって言ったろ」
今度はキスではない。唯、距離が近いだけ。喉が上下する音すら近すぎるだけ。
二条は観念したように小さく笑い、指先はまだ吾妻の服を掴んだままだった。
「……玄関から来ればよかったかな」
「今更言うな」
「だってさ」
悪戯っぽさが少しだけ戻る。
「やっぱこういうのも、いいじゃん?」
吾妻は目を細める。
「調子戻ってきたな」
「戻さないと、今みたいに龍臣君に殺される」
「殺さねぇよ、多分」
二条は吹き出す。笑いながらも、手はまだ離れない。
外では夜風が鳴り、ベランダの仕切りの向こうにあった場所は、もう見えない。
今は同じ部屋。触れられる距離。
沈黙が落ちても、さっきほど冷たくはなかった。




