保留
低く抑えられた照明の下で、グラスに触れる氷の乾いた音が、妙にはっきりと響く。
柔らかいソファの感触が、背中に伝わってくる。二条は角のボックス席の端に腰を下ろし、テーブルに置かれたメニューを眺めていた。
何か決めるでもなく、ページをめくるでもない。唯、そこに置かれているのを見ているだけだ。サングラスは外している。代わりに、目のすぐ近くの絆創膏がはっきりと見える。隠す気はないが、見せたいわけでもない位置。
吾妻は、グラスを置く一瞬でそれを把握して、すぐに視線を外した。
数を数えるような見方はしない。距離も詰めない。テーブルに手を伸ばしながら、淡々と声を出す。
「──仕事に支障は?」
吾妻が“それ以上訊かない理由”を、一瞬自覚する。
二条は瞬きをしてから笑う。「支障?」少し首を傾げる。大袈裟な仕草じゃない。「全然大丈夫だよ」
あっさりした答え。説明も、冗談も付け足さない。それで話は終わった。吾妻は頷き、グラスに手を伸ばす。それ以上、何も言わない。二条はそれを見て、内心で小さく息を吐いた。
──ああ、これで終わりだ。これ以上踏み込めば、 龍臣君は“知る側”になる。知ってしまえば、きっと線を引き直す。それは助けじゃない。庇護でもない。もっと別の、厄介な何かだ。
だから、この一言でいい。支障はない。仕事は出来る。それ以上の情報は必要ない。
「今日は、あんまり騙す気分じゃないなぁ」
二条が独り言みたいに言う。
「そうか」
「珍しいでしょ」
「知らねぇ」
短いやり取り。噛み合っているようで、少しずれている。二条は吾妻を見る。何も変わっていない。
服も、髪も、目付きも。でも分かる。この人は、もう前と同じ場所には立っていない。二条を見ない事で、二条を“仕事の側”に留めた。
それは拒絶でも、優しさでもない。 唯の選択だ。
──巻き込まれない為の。
グラスが置かれる音がして、二条は視線を下ろす。
「ありがと」
「客だからな」
「それ、今言われると刺さるなぁ」
冗談めかして言って笑う。
吾妻は反応しない。沈黙が落ちる。でも居心地は悪くない。悪くないまま、もう戻れないだけだ。二条はグラスを傾けながら思う。
今回が初めてだった。命の危機も、無関係の人間を巻き込んだのも。それでも、辞める気はない。愉しさの方が、まだ勝っている。
それを知っているのは、俺と、世界だけでいい。
吾妻に知られたら、戻れなくなる。吾妻は知らないままでいい。それが、ここまで来た二人にとっての、一番まともな終わり方だ。
二条は最後にもう一度だけ、吾妻を見る。絆創膏の位置に、視線が行くかどうか。吾妻は、やはり見ない。そのまま、いつも通りの声で言う。
「次、何飲む」
未来形。続く前提の言葉。
二条は笑って答えた。「じゃあ、ウイスキー」
こうして、何事もなかった一日が終わる。取り返しのつかない事だけを、静かに抱えたまま。




