線引
裏口の鉄扉が閉まる音は、思ったより大きかった。吾妻は息を吐き、ネクタイを緩める。店内の喧騒は、もう遠い。
路地は湿っていて、ネオンの光がまだらに落ちていた。その光の端、ホストクラブの外壁に、見覚えのある男が寄りかかっている。
二条宗親だった。居酒屋帰りらしく、外套の前は少し乱れている。
煙草は持っていない。酔いを冷ますみたいに、唯壁に背を預け、路地の奥を見ていた。
「何してんだ」
声をかけると、二条はゆっくり顔を上げた。驚きはない。待っていたのだと、判る表情だった。
「お疲れ」
それだけ言って、軽く手を挙げる。いつもの軽口がない。
「待ってたのか」
「まあね」
距離は数歩。
近付こうと思えば近付けるのに、どちらも動かない。
吾妻は煙草を取り出し、火を点けた。一口吸って、眉を僅かに寄せる。味がしなかった。
「用件は」
短く問うと、二条は一瞬だけ視線を逸らした。ホストクラブの看板が、横顔を派手に照らす。
「暫くさ」声は低く、酔いは感じられない。「顔、出さない方がいいと思って」
吾妻は煙草を口から外した。驚きより先に、理解が来る。その順番が、少し嫌だった。
「急だな」
「そう?」
「理由は」
二条は肩をすくめる。
「別に、大した理由じゃない」
否定の仕方が、妙に丁寧だった。盛らない。誤魔化さない。説明もしない。
「喧嘩したわけでもないし、問題が起きたわけでもない」
「なら、何で」
二条は少し考えるように黙り、短く息を吐く。
「この距離」
それだけ言って、吾妻を見る。
「続ける意味、もう無いでしょ」
煙草の灰が、靴先に落ちた。吾妻は何か言おうとして、口を開く。引き留める言葉。冗談にする言葉。否定する言葉。どれも、選べなかった。
恋愛が嫌いだ──。
正確には、好きになってから先の話が、どうにも性に合わない。周りで何度も見てきた。
好きになって、付き合って、期待して、浮気されて、別れて、それでも又誰かを好きになる。その繰り返しの、何が楽しいのか、さっぱり分からない。
踏み込まれるのも、期待されるのも、同じ話が始まる合図にしか見えなかった。
だから、ここに線を引いてきた。
「……そうか」
結局、それだけ言った。
二条は小さく笑った。いつもの、人を煙に巻く笑い方じゃない。
「その反応、助かる」
「何がだ」
「引き止められたら、困る」
吾妻は顔を上げたが、二条は目を合わせなかった。路地の向こう、歩いて帰れる距離を見ている。
「連絡も」二条が続ける。「俺からはしない。そっちも、無理にしなくていい」
まるで約束事みたいな口調だった。
それが、胸に残る。
「逃げるのか」
思ってもいなかった言葉が、口を滑った。
二条は一瞬だけ驚いた顔をして、それから首を振る。
「逆」短く言う。「逃げない為に、引く」
それ以上は言わない。説明もしない。感情も置いていかない。
二条は壁から背を離し、一歩距離を取った。
「じゃ」
踵を返す前に、一度だけこちらを見る。
「体、気を付けて」そして、吾妻を源氏名で呼んだ。「玖礼さん」
その呼び方で、全てが分かった。
線は、もう越えられない場所に引かれた。二条はそのまま歩き出し、路地の闇に溶けていった。
足音は、ゆっくり遠ざかる。
吾妻は動けずに、裏口の前に立ち尽くした。
煙草はいつの間にか、燃え尽きている。
歩いて帰れる距離なのに、夜はひどく、遠かった。




