牽制
バーの照明は鈍く、夜に沈んだ金属のような光をしていた。
輪郭をぼかされた客たちは、互いの表情を探ろうともしない。
ここではそれが礼儀だった。
二条宗親はグラスを傾けながら、壁に掛けられた絵を眺めているふりをする。
視線だけで、向かいの男を測る。
柳由岐弥。酒を楽しむ客の顔をしている。口元には軽薄な笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。
噛み合っていない。最初から、そう感じていた。数字を出した時の反応が遅い。金額が上がっても、関心が動かない。欲がないのではない。
──慣れている。
(今日は、引く日だ)
二条の中で、その判断は早々に出ていた。
前回の件もある。無理をする理由はない。それでも席を立たなかったのは、習慣のせいだ。仕事は最後までやる。それだけの事だった。
柳はグラスを置き、懐に手を入れる。
何気ない仕草。
だが、その動きがやけに滑らかだった。次の瞬間、ナイフが現れた。刃を握る手首が、くるりと軽く回る。まるで癖のような動き。
長年、それを使ってきた者の手つきだった。
「もう一つ追加なら、木瀬緋色の絵を、この額で買ってやる」
冗談めいた口調だが、刃先は寸分違わず二条に向いている。背筋に、冷たいものが走った。
頭の中で組み立てていた数字、逃げ道、時間配分。全てが一瞬で白紙になる。
(足りない)
前回の件を踏まえ、保険は重ねていた。それでも、足りない。
視線を逸らせば終わる。判っていても、喉が僅かに鳴った。
そのときだった。視界の端、カウンター席のほうに、ひとつの輪郭が映る。
吾妻龍臣。客として座り、グラスを傾けている。
一瞬、目が合った。よりによってこんな場面で、しかも同じ空間に居るなんて、思いもしなかった。
ほんの刹那。言葉はない。唯、そこに居るだけの視線。二条は、理由もなく苛立った。
(邪魔をするな)
言葉にしないまま、視線だけを叩きつける。
吾妻は、何も返さない。理解も、困惑もない。
──見られている。
その事実だけが、二条の判断を一段、狂わせた。仕事をしている自分を、仕事として見られていない。
唯の客と同列に置かれた気がした。
背筋に、違和感のような、微かな震えが走る。
「では、こちらなんてどうですか?」
自分の声が、妙に落ち着いている。
柳のナイフが、話に揺れる。
「こちらの続き──欠けを所持している方が、国外にいらっしゃいます。私の名前を出して頂ければ、判ると思います」
一瞬の沈黙。柳の目が細まり、刃が止まる。
嘘ではない。
だが、本来なら出さない札だった。この場で切るには、危険が大きすぎる。
なのに──。
視界の端に、まだ吾妻が居る。
数秒後、柳はナイフを懐に戻した。何事もなかったかのように、酒を飲み干す。
商談は成立した。数字の上では。二条は席を立つも、吾妻とは、もう目を合わせない。
仕事を終えただけだ。そう言い聞かせるように、足早に店を出た。




