未決
二条がホテルを出て、自宅に戻ったのは、そこから三日後だった。
顔も手も絆創膏だらけで、頬には薄紫色の痣が広がっている。傷の痛みもまだ残っていたが、それ以上に、気分が重かった。
手に残る血の乾いた感触と、貼ったばかりの絆創膏の感触を確かめながら、二条は小さく息を吐く。
今日も何もしたくない──そう思いながら、エレベーター前に差し掛かった。
視線の端に、誰かの影。顔を上げると、そこに吾妻が立っていた。
──今は、会いたくなかった。
傷だらけの顔を見られるのが怖くて、恥ずかしくて、何より気まずかった。
二条は唇を噛み、暫く動けずにいた。狭い箱の中で、二人の沈黙が長く続く。
心臓が早鐘のように打ち、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
やっと、声が出た。震える唇から、零れるように言葉を紡ぐ。
「……………久しぶり、だね」
吾妻の目は、見えなかった。
今、どんな表情をしているのか──顔を上げる勇気が、どうしても出なかった。
沈黙が再び流れる。
低く、落ち着いた声──でも二条には刃のように突き刺さる。
「時間あるなら、ちょっと付き合え」
──これは情じゃない。
責任でもない。
唯、見てしまった以上、何もなかった事には出来なかった──。
一瞬、言葉の意味を測りかねた。「付き合え」──つまり、行かざるを得ない。
この小さな誘いが、今の二条にとっては大きな圧力だった。でも、逃げる事はできない。
エレベーターという閉ざされた空間で、後ろに下がる事もできない。
視線をそらし、手を握りしめ、二条は小さく息を吐いた。
「……分かった」
声は震えていた。内心では、迷いと苛立ちと恥ずかしさが渦巻いている。
それでも、行くしかないのだと、自分に言い聞かせた。
二条は一歩踏み出し、吾妻の後について廊下を進む。歩幅も速度も意識しないうちに揃ってしまう。
その僅かな距離感が、互いの関係の微妙さを物語っていた。
玄関のドアが開き、家の中に入る。
冷たさや威圧感はなく、唯静かな空間が待っていた。
二条は、まだ傷跡が痛む手をポケットに突っ込み、壁際に沿って歩いた。
台所から香るご飯の匂いが、現実を少しだけ柔らかくする。
普段の自分なら、何でもない筈の光景なのに、今は不思議と落ち着かない。
吾妻は背中を向けたまま、静かに鍋を火にかけている。
二条はその姿を見て、少しだけ安心する──けれど、同時に、まだ心の刃を抜けないままの自分を感じていた。
二条は少し息を吐いた。口を開くのに、少し間を置いたのは、言葉を選んでいたわけでも、勇気を出していたわけでもない。唯、タイミングを計っていたような感覚だった。
「先日は、ごめんね。それに、ありがとう」
声は思ったよりも小さかった。
台所で煙草を燻らす吾妻は、顔を上げずに耳だけを傾けている。煙を吐く音が、二条の胸にやけに大きく響いた。
その静寂の中で、二条は自分の言葉が空気に溶けていくのを感じた。
返事はなかった。いや、正確には返事をする気配も見えなかった。
煙の匂いと微かな音が、二条の胸を不意に落ち着かせる。
これまでの緊張感、殴り合い、ホテルでの一人きりの時間──その重さが、少しだけ薄れていくようだった。
二条は手を握りしめ、視線を床に落とした。傷跡や痣が気になって、無意識に手が止まる。
台所の灯りに照らされ、背中を向けたままの吾妻が、静かに呼吸している。
その背中は、以前と変わらず、でも、今は少し遠く感じられた。
(……もう少しだけ、こうしていようかな)
二条は心の中で、そっとそう呟いた。
言葉にしなくても、存在を確認できる時間が、今は必要だった。だから、ただ静かにその場に座っていた。
台所の煙の匂いが、時間をゆっくり流す。
二条にとって、今日はそれだけで十分だった。




