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嘘と煙の仮面舞踏会  作者: 男鹿七海
10/42

未決

 二条がホテルを出て、自宅に戻ったのは、そこから三日後だった。

 顔も手も絆創膏だらけで、頬には薄紫色の痣が広がっている。傷の痛みもまだ残っていたが、それ以上に、気分が重かった。

 手に残る血の乾いた感触と、貼ったばかりの絆創膏の感触を確かめながら、二条は小さく息を吐く。

 今日も何もしたくない──そう思いながら、エレベーター前に差し掛かった。

 視線の端に、誰かの影。顔を上げると、そこに吾妻が立っていた。

 ──今は、会いたくなかった。

 傷だらけの顔を見られるのが怖くて、恥ずかしくて、何より気まずかった。

 二条は唇を噛み、暫く動けずにいた。狭い箱の中で、二人の沈黙が長く続く。

 心臓が早鐘のように打ち、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。

 やっと、声が出た。震える唇から、零れるように言葉を紡ぐ。

「……………久しぶり、だね」

 吾妻の目は、見えなかった。

 今、どんな表情をしているのか──顔を上げる勇気が、どうしても出なかった。

 沈黙が再び流れる。

 低く、落ち着いた声──でも二条には刃のように突き刺さる。

「時間あるなら、ちょっと付き合え」


 ──これは情じゃない。

 責任でもない。

 唯、見てしまった以上、何もなかった事には出来なかった──。


 一瞬、言葉の意味を測りかねた。「付き合え」──つまり、行かざるを得ない。

 この小さな誘いが、今の二条にとっては大きな圧力だった。でも、逃げる事はできない。

 エレベーターという閉ざされた空間で、後ろに下がる事もできない。

 視線をそらし、手を握りしめ、二条は小さく息を吐いた。

「……分かった」

 声は震えていた。内心では、迷いと苛立ちと恥ずかしさが渦巻いている。

 それでも、行くしかないのだと、自分に言い聞かせた。

 二条は一歩踏み出し、吾妻の後について廊下を進む。歩幅も速度も意識しないうちに揃ってしまう。

 その僅かな距離感が、互いの関係の微妙さを物語っていた。

 玄関のドアが開き、家の中に入る。

 冷たさや威圧感はなく、唯静かな空間が待っていた。

 二条は、まだ傷跡が痛む手をポケットに突っ込み、壁際に沿って歩いた。

 台所から香るご飯の匂いが、現実を少しだけ柔らかくする。

 普段の自分なら、何でもない筈の光景なのに、今は不思議と落ち着かない。

 吾妻は背中を向けたまま、静かに鍋を火にかけている。

 二条はその姿を見て、少しだけ安心する──けれど、同時に、まだ心の刃を抜けないままの自分を感じていた。

 二条は少し息を吐いた。口を開くのに、少し間を置いたのは、言葉を選んでいたわけでも、勇気を出していたわけでもない。唯、タイミングを計っていたような感覚だった。

「先日は、ごめんね。それに、ありがとう」

 声は思ったよりも小さかった。

 台所で煙草を燻らす吾妻は、顔を上げずに耳だけを傾けている。煙を吐く音が、二条の胸にやけに大きく響いた。

 その静寂の中で、二条は自分の言葉が空気に溶けていくのを感じた。

 返事はなかった。いや、正確には返事をする気配も見えなかった。

 煙の匂いと微かな音が、二条の胸を不意に落ち着かせる。

 これまでの緊張感、殴り合い、ホテルでの一人きりの時間──その重さが、少しだけ薄れていくようだった。

 二条は手を握りしめ、視線を床に落とした。傷跡や痣が気になって、無意識に手が止まる。

 台所の灯りに照らされ、背中を向けたままの吾妻が、静かに呼吸している。

 その背中は、以前と変わらず、でも、今は少し遠く感じられた。

(……もう少しだけ、こうしていようかな)

 二条は心の中で、そっとそう呟いた。

 言葉にしなくても、存在を確認できる時間が、今は必要だった。だから、ただ静かにその場に座っていた。

 台所の煙の匂いが、時間をゆっくり流す。

 二条にとって、今日はそれだけで十分だった。




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