浮気性な副騎士団長の愛は伝わらない
『無愛想令嬢は気づかない』のレグルス視点です。
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まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。
艶めく銀髪に透き通るマリンブルーの瞳を持ち、建国当初から続く由緒正しいグラティア侯爵家の次男として生まれた俺は幼い頃から見目麗しいと評判で、成長するにつれ『美貌の貴公子』だの『月光の君』だのと呼ばれるようになった。
端正な容姿と侯爵家という家柄に群がる令嬢たちは数知れず、学生時代は女をとっかえひっかえしながらずいぶんと派手に遊び歩いた。女癖の悪さで俺の右に出る者はいなかったと思う。
学園を卒業し、騎士団に入ってからもそれは変わらず、むしろ大手を振って堂々と浮名を流し続けた。近づいてきて媚びを売るたくさんの令嬢たちと後腐れなく楽しめればそれでいいと思っていたし、本気で人を好きになるとかたった一人にだけ愛を誓うとか、面倒くさくて馬鹿げているとさえ思っていた。
放蕩の限りを尽くしていた俺の前に突如として現れたのは、地味で真面目で無愛想な『能面令嬢』、事務官のリオラだった。
リオラは、騎士団本部の事務室に勤務していた。
正直言って、いつから勤務していたのか定かではない。気づいたら、いた。それくらい、地味で目立たなかった。
リオラの存在を認識してすぐ、彼女の教育係でもあるアリス嬢に尋ねたら四つ年下だと教えてくれた。でも同時に、「不用意に近づかないで」と釘を刺されてしまう。
アリス嬢は同い年だが、学生時代にアリス嬢の友人とかいう令嬢と一悶着あったから、それ以来必要以上に目の敵にされているのだ。
ただ、リオラの外見を考えれば、その牽制はまったくの不要だと言ってやりたかった。あんな無表情の地味令嬢を相手にするほど、俺が女に困ってるとでも思ってんのか? マジで失礼すぎるだろ。
いや、わかっている。失礼はどっちだ、という声が四方八方で飛び交うことは重々承知している。俺だって「昔の俺、いろんな意味でやべえやつだな」といまだに思ったりするし、「勘違い野郎はお前だよ……!」と自分で自分を殴りたい衝動にも駆られる。でもそのときは、リオラなんて本当に眼中になかったのだ。
そんなある日、リオラが書類を持って俺たちの執務室を訪れたことがあった。
俺は軽い気持ちで、机の上にあったお菓子の包みを手渡した。それは王都の大通りにできたばかりの小洒落たスイーツ店のクッキーだとかで、当時つきあいのあった令嬢の一人が差し入れとして持ってきたものだった。
甘いものは別に好きでも嫌いでもない。
もらったものを後生大事にする性分でもない。
だから俺は、わざわざ書類を届けに騎士棟まで出向いてくれたリオラにご褒美というかお駄賃代わりというか、とにかく何かくれてやるか、と思っただけだった。それくらいの、本当に軽い気持ちだった。
だというのに、包みを手にしたリオラは「あ、ありがとうございます……」と言いながら、ふんわり小さく微笑んだのだ。
ドキリとした。
目を奪われた。
一瞬、見間違いかと思った。光の加減で笑ったように見えたのかとも思った。
だって、無表情で無愛想で、表情筋がまったく仕事をしていないどころか完全に死滅していると噂の『能面令嬢』だぞ? これくらいのことで、笑ったりするのか?
しかも、当のリオラは次の瞬間すん、と真顔に戻ってしまい、「では、失礼しました」と言ってさっさと部屋を出て行ってしまう。
なんだよあれ。いったい何だったんだ……?
どうにも気になった俺は、それから事あるごとにリオラを探しては頻繁に声をかけるようになった。
あのとき本当に笑ったのか、俺が見たと思った笑顔は果たして本物なのか幻だったのか、きちんと確かめたいと思ったのだ。そして、できればもう一度あの笑顔を見たい、なんならあの笑顔を俺にも向けてほしい、とすら思っていた。
でも一向に、リオラは表情を崩さない。
常に無表情、大真面目な真顔で「レグルス副団長、お忙しいとは思いますが必要書類の提出は期限内にお願いします」とか、「護衛代わりについて行く? 第三騎士団の執務室へ行くだけですよ? いったいどういう危険を想定しているのですか?」とか、「副団長、今日だけで何回事務室に来ているかわかってらっしゃいます? 暇すぎませんか?」とか、「副団長に名前呼びされたところで別にうれしくもなんともないのですが」とか、だいぶ手厳しいツッコミをこれでもかと繰り返す。
そんな軽妙なやり取りもなんだかんだ楽しくて、俺はリオラにちょっかいを出すのをやめられなかった。
そうして、つい数か月前のことだ。
騎士棟と管理棟との間にある中庭で、俺は偶然にも呆然と立ちすくむリオラを見つけた。
何事かあったのかと焦りまくって「どうした?」と慌てて駆け寄ると、振り返ったリオラの腕の中には茶色の縞模様を纏った子猫がちんまりと鎮座していたのだ。
「ん? 子猫か?」
「はい。どうやら迷い込んでしまったらしく」
そう言って、リオラは小さいくせに堂々とふてぶてしい風情の子猫に目を向ける。
そしてまた、ふんわり笑ったのだ。
「……リオラ?」
「はい?」
呼ばれて顔を上げたリオラは、確かに微笑んでいた。
頬を緩めて、優しい目をして、口元をほころばせて、子猫が可愛くて仕方がないとでもいうように。
その笑顔は、まるで慈愛に満ちた女神のようだった。
「なんでしょう?」
「い、いや……」
まずい。リオラを直視できない。
なんだよその笑顔は。なんで笑うとそんなに可愛いんだよ。反則だろ?
可愛いのは子猫じゃなくてお前のほうだよ。
……なんて思っている自分に気づいて、俺は愕然とする。
はああぁぁ!? 可愛い!? この地味な能面令嬢のどこが可愛いんだよ!? 待て待て、正気に戻れ!! 冷静になるんだ、俺……!!!
「と、とにかく、親猫が近くにいるかもしれないし、探してみるか」
なんとか平静を装って、そう提案するのがやっとだった。
二人で探している間にも、リオラは抱いている子猫を気遣いながら「あなたのお母様はどちらにいらっしゃるのでしょうねえ?」なんて優しく話しかけている。
何なんだよあれは!! マジで可愛すぎない!?
呼吸やら心拍やら血圧やら、人として生きるために必要な機能のほとんどが恒常性を保てなくなるほど心の中をかき乱されつつ親猫を探していると、なんだどうしたとだんだん人が集まってきて、最終的には十人くらいの職員で辺りを探すことになった。
結果として親猫らしき猫は見つからず、女性職員の一人がしばらく子猫を預かってもいいということになって決着はついたのだが。
親猫の捜索を終えて各々仕事に戻る途中、目の前を歩く数人の職員の話し声がふと耳に届く。
「あの子、意外に能面じゃなかったわね?」
「そうそう。子猫を見る目がすごく優しくて、可愛らしかったわ」
「普段は愛想がないせいか、ああやってほころんだ顔を見るとドキッとするよ」
「ギャップ萌えってことかしら」
明らかに、リオラのことだった。
でもそうと気づいた瞬間、突如として俺の心の奥にとある感情が芽生える。
それは淀みなくはっきりとした輪郭を伴い、急激にその存在を主張し始めた。
――――リオラの笑顔を、優しさを、可愛らしさを、誰にも知られたくない。誰かに奪われたくない。全部俺だけのものにしてしまいたい……!
自覚してしまったら、これほど簡単なこともなかった。
俺はいつの間にか、リオラに惹かれていたのだ。いや、惹かれてるなんて生易しいもんじゃない。本気で、心から、誰よりも愛おしいとすっかりメロメロになっていた。
恋愛なんて面倒くさいとか、誰か一人に愛を誓うなんて馬鹿げてるとか思っていたくせに、とっくにリオラ一人の虜になっている。リオラの前で跪き、永遠の愛を誓うことさえ厭わない。俺のすべてを捧げる代わりに、リオラのすべてを奪い尽くして自分だけのものにしたいと思ってしまうくらいには、リオラに溺れている。
でも、と俺は考えた。
これまでの奔放な振る舞いや言動を考えれば、今更好きだのなんだの言ったところですんなり信じてもらえるとは思えない。数多の令嬢たちと遊び歩き、散々浮名を流してきた俺がいきなり真剣に愛を告白したって、リオラどころか誰も本気にはしないだろう。
今頃になって、あの放蕩三昧の日々が悔やまれる。くそう、何やってたんだ、俺。人の気持ちも考えず、楽しければいいと好き勝手やってきた浅はかさが自分の首を絞めることになるとは……!
こうなったらもう、行動で示すしかない。
俺の気持ちが本物だと信じてもらえるよう、誠意を尽くすしかない。
それからすぐに、俺はつきあいのあった女性たちとのふしだらな関係を清算し始めた。
簡単にカタがつくとは思っていなかったし、金銭的な要求には誠心誠意応えるつもりで、ひたすら全員に頭を下げた。真摯に謝罪した。幸いというかなんというか、「まあ、お互い様だし、別れてもいいわよ」と言ってくれる令嬢がほとんどだったが、「一発殴らせろ」と拳を振り上げた女性もいた。二〜三日頬の腫れは引けなかったけど、自業自得だと甘んじて受け入れた。
やましい関係をすべて整理し終えた俺は、改めてリオラに怒涛の猛攻を開始する。
勤務時間内に声をかけるだけでなく、退勤後や週末にも会う約束を取りつけようと脇目も振らず躍起になった。とにかくデートだ。デートを重ねて、俺の恋情をアピールするんだ。
リオラは基本的に、誘いを断るようなことはしなかった。あとで聞いたら「断る理由がなかっただけです」と言われて膝から崩れ落ちたが、このときの俺は知る由もない。ガンガン押しまくるしかないと必死だった。
人気のカフェとか、話題の演劇とか、オープンしたてのレストランとか、手当たり次第にあちこち連れ回すうちに、リオラのほうも少しずつ心を許してくれるようになっていく。ふとした瞬間に能面の裏側が垣間見えることが増えて、その意外な可愛らしさに何度も悶絶した。こうなるともう、能面すら可愛く見えてくるんだから俺も大概やばい。
連れ回されることに対して、リオラは嫌がったり拒否したりしなかった。むしろ喜んでくれていたし、なぜか必要以上に感謝されていたと思う。
「私一人では来る機会などなかったと思うので」
リオラは淡々とそう言った。
一緒に過ごす時間が増えるにつれて少し気になったのは、リオラの自己評価が地べたを這い回るがごとく低すぎることだった。
何をするにも「私みたいな能面地味子が」とか「私なんかが、烏滸がましいです」とか、とにかく自己卑下がひどい。
やんわり否定してもその思い込みは想像以上に強固で、ブレることがない。
そんなこと、ないのに。
リオラは地味でも無愛想でもないし、俺にとっては世界一可愛いのに。
まあ、ちょっと能面ではあるけどな。あれはただ、感情が表に出にくいだけだ。
よくよく見ていれば、小さく笑ったり頬を染めたりするんだから。それがまた悶死するくらい可愛いんだが。
でもそういうのは俺だけが知っていればいいことで、世界中のやつらは一生気づかなくていいし気づかせるつもりもない。
「好き」とか「愛してる」とかそういうあからさまな告白はしないまでも、「会えるのが楽しみ過ぎて、約束した時間よりだいぶ早く来ちゃったよ」とか、「今日のリオラはまた一段と可愛いな。可愛すぎて、誰にも見られたくないな」とか、事あるごとに俺のほとばしる恋情を言葉にしてアピールし続け、いくらなんでもそろそろ気づいているだろうと見込んだ俺は、いよいよ腹をくくって勝負に出ることにした。
婚約を申し込もう……!
折しも、リオラの誕生日が近づいていた。
ちなみに、誕生日についてはリオラ本人ではなくアリス嬢に教えてもらった情報である。
俺が女性たちとの関係を誠意と謝罪をもって整理し、心を入れ替えて真剣にリオラに向き合おうとしていることをどこかで聞きつけたらしく、「来月、リオラの誕生日なんだけど」とわざわざ教えに来てくれたのだ。本当にありがたい。「リオラを傷つけたらただじゃおかないけどね」とまたしっかり釘は刺されたが。
婚約を申し込むにあたり、俺は給料の三か月分の金額よりもだいぶ高額なネックレスを購入した。俺の瞳と同じ色の希少な青いトルマリンがついたネックレスだ。最初は指輪を買うつもりだったが、いきなり指輪なんて渡されたらリオラは気後れするのでは、と思い直した。いや、日和ったわけではない。
そうして、リオラの誕生日に会う約束を取りつけようとした俺は、自分がどれだけ恥ずかしい思い違いをしていたのか痛感することになる。
「レグルス様には常々お世話になっておりますし、身に余るご厚意には大変感謝しております。でも誕生日を祝っていただくほどの関係ではございませんし」
当然のごとく誕生日を祝うつもりでいた俺に、リオラはまるで温度の感じられない落ち着いた視線でこう言ったのだ。
「いつも過分なお心遣いをいただき、申し訳ないなと思っていたくらいなのです。私の誕生日など気にせず、どうぞほかの方々と存分に楽しんでくださいませ」
唖然とした。
言葉を失った。
……待て待て待て。
誕生日を祝う関係じゃないって、なんだよ……?
いやそもそも、ほかの女との関係なんてとっくに全部切ってるっての!
え、まさか。もしかして、俺の気持ちが全然伝わってない……?
あれだけ激烈に、しつこいくらいわかりやすくアピールしてたのに、全然届いてないってことなのか!?
マジで!!?
そのあとのことは、あまりよく覚えていない。
とにかくショックが大きすぎて、どうやって帰ってきたのかも記憶にない。
だって、まさか、俺の愛情がリオラに一ミリも伝わってないなんて、そんなことある!?
リオラは、俺が繰り出す精一杯の口説き文句も愛に溢れた過剰なエスコートも、お世辞とか社交辞令とか手厚いおもてなしとかくらいにしか思っていなかったのだろう。なんで!? 普通にわかるだろ!?
……いや、わかってなかったからこそ、こんなことになってんだよ。と、ひとしきり反省する俺。
――――だったら、わからせるまでだ。
ちょうどその頃、領地にいる両親から今後のことについて話し合いたいという手紙が届く。
現グラティア侯爵である父は、そろそろ家督を俺の兄に譲りたいと思っているらしい。俺はこのまま騎士団員として生きていくつもりだし、副団長に抜擢されて生活にもまったく困っていないのだが、父親としては複数所持している爵位のうち伯爵位を俺に継がせたいと常々話していたのだ。
話し合いに応じる旨の返事を出すとすぐ、俺は一週間の休暇を申請して領地に向かった。
リオラの誕生日が間近に迫ってはいたが、どうせ当日会うことはできないのだ。だったら一刻も早く領地に帰って、今できる最善の策を講じるしかない。
屋敷に到着するや否や、俺は婚約したい相手がいることを力強く宣言した。
両親は、泣いて喜んだ。愚かしく度し難い俺の噂は領地にも若干届いていたようで、だいぶ気を揉んでいたらしい。そりゃそうだよな。不肖の息子で、本当に申し訳ない。
そのうえで、グラティア侯爵家からリオラの身元引受人であるシレンテ伯爵宛てに、婚約を申し入れる書簡をできるだけ早く送ってくれることになった。
格上の侯爵家から縁談を申し込まれたら、正当な理由なく断るのは難しい。
多少、強引で卑怯なやり方だという自覚はあったが、俺もなりふり構っていられない。きっちりと外堀を埋めまくって、リオラを口説き落としてみせる……!!
とんぼ返りで王都に戻ってきた俺は、その足で騎士団本部の事務室へと向かった。
退勤後に食事でも行こうと誘って今度こそ勝負に出るつもりだったのに、どういうわけかリオラの姿が見当たらない。
たまたま席を外しているのだろうと思い、それならしばらく待ってみるかと廊下の壁に背中を預けたときだった。
「レグルス副団長!」
外出先から戻ってきたらしいアリス嬢の声に、俺は顔を上げる。
「ああ、アリス嬢、リオラは――」
「今すぐ、シレンテ伯爵邸に行って!」
「は?」
「早くしないと、リオラの婚約が決まってしまうのよ!」
「はあ!?」
アリス嬢の説明によれば、リオラは先週、シレンテ伯爵邸に呼び出された際に叔父である伯爵から息子との縁談を持ち掛けられていたらしい。
リオラとしては、ずっと自分を蔑んできた相手に実は好かれていたという衝撃の事実を知らされたところで迷惑でしかないのだが、今日はその話し合いがあるため仕事は早退したのだという。
これまで、リオラは伯爵家との関係をあまり話したがらなかった。学園に在籍中は伯爵邸で世話になっていたことや二つ年下の従弟がいるということは教えてくれたが、決して楽しそうな雰囲気ではなかったし、むしろ思い出したくないとでもいうように忌々しげな顔をしていたのだ。
だいたい、学園を卒業後伯爵邸を出て騎士団の寮に住んでいる状況を考えても、関係が良好でないことは容易に察しがつく。
それなのに、縁談? 婚約?
ふざけたまねをしてくれる。
そんなこと、この俺が許すわけないだろう……!!
俺はアリス嬢に言われた通り、すぐさまシレンテ伯爵邸へと急いだ。
そして執事の制止を振り切り、応接室と思われる部屋に突入する。
「リオラ!!」
こちらに背中を向けていたリオラは、突然登場した俺に気づいて「え……」とつぶやき目を見開く。
俺はそんなリオラに駆け寄って跪くと、祈るようなまなざしで真っすぐに見つめた。
「リオラ、好きだ。好きなんだ。俺と婚約してくれないか?」
「……え?」
「いきなりこんなこと言っても信じてもらえないと思うけど、本気なんだ。もうずっと、俺はリオラしか見ていない」
「え……?」
明らかに困惑しているリオラと、「いきなり入ってきて何なんだよあんた!!」と鬼の形相で噛みつく青年。
こいつが例の従弟かと気づいたが、当の本人は動揺したのか、デートする俺たちを密かにつけ回していたことを自ら暴露してしまう。
思わぬ事実が発覚し、リオラはわかりやすく眉根を寄せた。内心「キモい……」と拒否反応を示していることが、手に取るようにわかる。
それから俺は、自分の気持ちを正直に、洗いざらいぶちまけた。
誰かを本気で好きになるなんて面倒くさいし馬鹿げていると思っていたのに、リオラに出会っていつのまにか本気で好きになっていたこと。
とはいえこれまでの俺の不誠実な言動を考えれば、にわかには信じ難いだろうということ。
もちろん、つきあいのあった女性たちとは全員別れたこと。
本当は、誕生日に婚約を申し込もうと思っていたこと。
俺のストレートな告白を聞いて、リオラは「あ……」とか「その……」とかしどろもどろになっている。いつもの無表情な仮面はとっくに剥がれ落ち、いっぱいいっぱいになって狼狽えている様は異常に可愛い。マジで可愛い。
何度でも言おう。俺のリオラが一番可愛い。
ただ、リオラ自身は俺の好意にまったく気づいていなかったどころか、「慈善事業の一環」なんぞというとんでもない勘違いをしていたらしい。
過去の自分を振り返り、どうせ信用されないだろうと明確な言葉を避けてきたことが裏目に出たのだ。遠回しに伝えたところで、リオラには何も伝わらない。今更ながらに哀れな現実を悟った俺は、半ば強制的にリオラを連れ帰ることにした。
「俺がどんだけリオラを好きか、嫌というほど思い知らせてやる」
そう言ってひょい、と横抱きにすると、驚いたリオラが「え、ちょっ……!」と言いながらじたばたと暴れ出す。
「こら、暴れるな。黙って抱かれてろ」
「ええぇぇ!?」
すぐ脇でリオラの従弟もぎゃーぎゃーとわめいていたが、後日正式にグラティア侯爵家から婚約を申し込む書簡が届くことを知らせると途端に押し黙った。ざまぁみろだ。
そうして、リオラを軽々と抱き上げたまま門の前に止めてあった馬車に乗り込み、ゆっくりと座らせる。
思いもよらない展開に軽くパニックになっていたリオラは、ちょっと怯えた涙目で俺を見上げた。
「あ、あの、レグルス様……」
「なんだ?」
「ほ、ほんとに、レグルス様は、私のことを……?」
リオラは顔を真っ赤にしながら、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
俺は左腕をするりと伸ばしてリオラの腰を引き寄せ、右手でリオラの手をそっと握って、指先に口づけた。
「好きだよ。俺の気持ち、やっとわかってくれた?」
「それは、その……」
「これからはもう遠慮しないから。だから諦めて、俺を受け入れてくれよ」
ねだるような視線でリオラを見返すと、リオラはなぜか少しだけ表情を硬くする。
「……あ、あの、どうしてですか? というか、私なんかのどこがいいのしょうか? 無愛想だし、能面だし、真面目過ぎて面白みもないし、地味だし可愛くもないし……」
「俺にとってはリオラより可愛い令嬢なんていないんだけど? リオラは俺のものだって世界中に宣言したいくらいだし」
「……も、もしかして」
「なに?」
「……レグルス様って、ちょっと変わった趣味をお持ちで……?」
「……なんでだよ!!」
◇・◇・◇
それから俺は、予告通り人目も憚らず、思う存分リオラを溺愛するようになった。
朝は騎士団の寮までリオラを迎えに行き、昼は当然のように昼食をともにして、退勤後はそのまま寮まで送るか、一緒に食事に行く。週末はどこかへ出かけたり、俺の屋敷に連れてきてのんびり過ごしたりする(リオラは「こ、ここがレグルス様のお屋敷!? 広いし豪華だし使用人いっぱいいるし畏れ多くてくつろげません!」とか言っていたが)。
やっていることは以前とさほど変わらないものの、「好きだよ」とか「可愛すぎる」とか「俺のリオラ」とか「愛しい人」とか、はっきりと愛の言葉をささやくことももちろん忘れない。
今までは、俺が何を言っても過剰なリップサービスくらいにしか思っていなかったリオラだが、ようやく俺の本気度を理解したのかいちいち真っ赤になったり挙動不審になったりする。
「レグルス様、恥ずかしいのでもうやめてください……」
なんてぷるぷると震えながら上目遣いで言われたら、可愛すぎてかえってやめられない。
そんな中、両親の手配してくれた婚約を申し入れる書簡がシレンテ伯爵家に届き、俺たちはその手続きと挨拶のため伯爵邸を訪れることになった。
シレンテ伯爵は、とても渋い顔をしていた。
といっても、この婚約を一ミリも歓迎していないというわけではないらしい。
シレンテ伯爵家にとっては、どういう形であれ由緒正しいグラティア侯爵家と縁続きになれるなんて喜ばしいことである。貴族家であれば、この縁談には一も二もなく飛びつきたいはずだ。
ただ、そうなると可愛い息子の(いや、俺にとってはまったく可愛くはないのだが)初恋の成就は断念せざるを得ない。
貴族家当主として、この縁談を逃す手はない。とはいえ、親としては苦渋の決断になる。そんな葛藤に我が身を引き裂かれる思いだからこその、渋い顔なのだろう。
まあ、俺にはまっっっったく関係ない話だけど。
挨拶もそこそこに書類の記入を催促すると、伯爵はちょっと自棄になってペンを走らせた。完成したそれを奪い取るように確認してから、今すぐ王城に提出するよう執事に言いつける。婚約に関する書類を王城に提出してしまえば、覆すことはほぼ不可能になるからだ。
ちなみにこの手続きの日、シレンテ伯爵令息、つまりリオラの従弟はもう一度リオラに会いたいなどとふざけたことを言っていたらしい。
「リオラが貴殿と婚約してしまえば、恐らく息子と会う機会はないに等しくなるだろう。最後にほんの少しだけでも、リオラと話をさせてやってくれないか?」
控えめながらもどこか有無を言わせない口調に、俺は隣に座るリオラの顔を覗き込む。
今度はリオラが、渋い顔をしていた。ぐっと眉間にしわを寄せ、何かをこらえるように視線を下に向けている。
それだけで、俺には十分だった。
「無理ですね」
リオラが何か答えるより早く、俺は事もなげに伯爵渾身の願いを一蹴する。
「え……?」
「ご子息は、リオラに密かな恋情を抱いているとお聞きしています。そんなやつに、俺の大事なリオラを会わせるわけがないでしょう?」
「いや、しかし……」
「そもそも、先日俺がこの家に伺った際、あなたのご子息はリオラに対して『お前は俺の言うことだけ聞いてればいい』だの『いつまで経っても可愛くない』だのと散々暴言を吐いていたんですよ? 普通、好きな相手にそんなこと言います?」
「それは……」
「どれだけ恋情を拗らせているのか知りませんが、これ以上リオラを不当な悪意にさらすつもりはありませんからね。息子の横暴な振る舞いを知っていながら、諌められなかったあなたを信用する気にもなれませんし」
容赦ない俺の言葉に、伯爵は気まずそうに目を泳がせる。
叔父として悪い人間ではないのかもしれないが、リオラの置かれた苛烈な環境を結果として放置し続けた時点で到底許し難い。リオラが必要以上に卑屈で自虐的で、自分への好意に疎過ぎるのも恐らくここでの生活が一因なのだろうし。
帰りの馬車の中で、リオラは意を決したような顔をして俺を見上げた。
「レグルス様、ありがとうございました」
「ん? 何が?」
「叔父にはっきりと意見してくれて……」
頼りなげな声は、どこか切実だった。
俺はなんだかたまらなくなって、リオラを抱き寄せる。珍しく抵抗もせず、俺にしなだれかかるリオラの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「俺はあの家での詳しい事情を知らないけど、リオラが幸せでなかったことくらい想像がつく。そんな場所に長居したくはなかったし、大事な婚約者を害するものは全部遠ざけたいんだよ」
「婚約者……」
「婚約の手続きが済んだんだから、リオラはもう、れっきとした俺の婚約者だろ?」
当たり前のことを言っただけなのに、リオラはぴしりと固まって「ソ、ソウデスネ……」なんて急に片言になる。
「なんで片言なんだよ?」
「わ、わかってはいたのですが、改めて言われると、ちょっと動悸が……」
「なんだよ今更。もう逃げられないからな」
悪戯っぽく笑うと、リオラはいつものようにポッと頬を染める。
それでも、目は逸らさなかった。
「逃げる気なんて、最初からありませんでしたよ?」
……え。
何それ。ちょっと。
「……リオラって、もしかして最初から俺のことが好きだったのか?」
「いいえ? 好きでも嫌いでもなかったですけど」
涼しい顔で淡々と答えるリオラに、がっくりと項垂れる俺。一瞬でも期待しちゃったせいで落胆がひどい。やっぱり、俺ってまだまだ全然ダメだわ。とほほ。
「でも、レグルス様ははじめから私には優しかったですから。巷の噂はいろいろありましたけど、レグルス様と一緒にいて嫌な思いをしたことは一度もなかったので」
そう言ってふんわりと笑うリオラに、俺はまたしてもずきゅん、と心臓が撃ち抜かれるのだった。
……俺の婚約者が可愛すぎて、もう爆ぜそう。
◇・◇・◇
正式に婚約が調ったことで俺たちの仲は公になったわけだが、それ以前から俺がリオラを構い倒していたのはみんな知っていたし、さほど反感を持たれることもなく、概ね好意的に受け入れられた。
というか、「あれだけ女遊びの激しかった人がねえ」とか「年貢の納め時とはこのことだな」とか「百戦錬磨の女たらしが無愛想な婚約者に振り回されてるなんて、めっちゃウケる」とか、好き勝手にけなされているような気がしないでもない。
でも、そんな外野の雑音なんかどうでもいい。
なぜなら、俺はかつてない絶体絶命の危機に直面していたからだ。本当に誰かを好きになると人は臆病になるということを、身をもって知ってしまった。
だって、百戦錬磨の手練れと言われたこの俺が、リオラにはいまだにキスの一つもできないんだから……!!
キスなんて、昔は挨拶代わりとしか思っていなかった。いや、それもどうかと今では思うが、その行為に大した意味などなかったのだ。請われればいくらでもしたし、関係を盛り上げるための必要かつ効果的な手段でしかなかった。
でもリオラを前にすると、急に不安になる。
俺はいつだってリオラに触れたいし、当然キスしたいし、なんならそれ以上も、なんて邪な欲望はどんどん膨れ上がるばかりだけど、リオラのほうはどうだろう。いくら婚約したとはいえ、俺が退路を塞いだからリオラはそれを受け入れるしかなかったわけで、多分リオラにそこまでの想いはない。俺も好かれているという自信がない。うわ。言ってて悲しくなってきた。とほほ。
それにここへ来て、「レグルス様と一緒にいて嫌な思いをしたことは一度もなかった」というリオラの言葉が重くのしかかる。好きかどうかはともかく、ある程度信頼は寄せてくれているのに、俺が欲望のままにリオラの唇を奪ったらどう思われるか。嫌がられたらどうしよう。立ち直れる気がしないんだが。とほほ。
そんな煩悩と情欲にのたうち回っていた、ある日のこと。
「領地にいる祖父母から、婚約を祝う手紙が届いたんです」
幼い頃に両親を亡くしたリオラは、シレンテ伯爵領に住む祖父母のもとで育ったという。
その祖父母から届いた手紙を大事そうに広げながら、リオラはいつもの無表情を少し和らげる。
「リオラ」
「はい?」
「領地にいる元伯爵夫妻のところに、挨拶に行かないか?」
「……え?」
「学園時代に一度帰ったきりなんだろう? 久しぶりに会いたくはないか?」
「それは、まあ、会いたいですけど……」
「俺も挨拶に行きたいし、リオラが育ったところをこの目で見てみたい。だから一緒に行ってみないか?」
「……なんにもない田舎ですよ?」
そう言いながらも、リオラは心なしかうれしそうだった。リオラが喜ぶことならなんでもしてやりたい俺としては、なかなかにいいアイディアだと自画自賛する。
ちょうど新年を迎えるタイミングだったこともあり、俺とリオラは休暇を調整してシレンテ伯爵領に向かうことにした。
伯爵領は、のどかな田園と青々とした牧草地の広がる、自然豊かな土地だった。なだらかな丘の向こうには、赤土の砂浜と碧い海が美しいコントラストを描いている。
元シレンテ伯爵夫妻、つまりリオラの祖父母は俺たちの訪問をいたく歓迎してくれた。
リオラに会うのは数年ぶりということもあって、夫人はリオラを抱きしめながら「こんなにきれいになって……」と涙ぐむ。その様子を、元伯爵も感慨深げに眺めている。
久しぶりの帰省で少し童心に返ったのか、リオラも「中庭に温室ができたんでしょう? 見に行ってもいい?」なんて珍しくおねだりなんかして、夫人を伴い浮かれた様子で部屋を出て行った。
おっと。いきなり元伯爵と二人きりにされた俺は、平静を保ちつつ手にしたティーカップを口元に運ぶ。
その瞬間、リオラの前では穏やかで品のいい祖父だったはずの元伯爵は一変し、眼光鋭く俺を威圧した。これはきっと、過去の聞くに堪えないふしだらな噂に対して苦言を呈するつもりなのだろう。そう悟った俺は、甘んじて手厳しい叱責を受けるべく、断罪を待つ子羊のような面持ちで背筋を伸ばす。
ところが――――。
「レグルス殿。貴殿はあの子の両親の事故について、何か聞いておるかね?」
全然違った。拍子抜けである。両親の事故……?
「……お二人とも、馬車の事故で亡くなったとしか……」
リオラはそれしか言わなかった。だから俺も、それを鵜呑みにしていたのだが。
元伯爵はとてつもなく厳しい顔つきをしながら、重々しく口を開く。
「このことは当然リオラも知っている。ただ、何せあのときの記憶がないようでな」
「……はい?」
「あの事故のとき、実はリオラも両親と一緒にいたのだよ」
「え?」
「あの子と両親は、王都郊外にある避暑地に向かう途中で馬車の事故に遭ったのだ。親たちが身を挺して我が子を守ったおかげで、リオラはほぼ無傷で助かった。奇跡的にな」
突然投げ込まれた驚愕の事実に、頭を殴られたような衝撃が走る。
リオラも一緒だった……?
リオラだけが助かったというのか……?
「事故のあと、ショックのせいかあの子は言葉が話せなくなってしまってね。それに、まるですべての感情を失ってしまったかのように笑いもしなければ泣きもしなくなったんだ。不憫に思った私たちは、あの子を引き取って育てることにした。王都から遠く離れたこの自然豊かな領地で、穏やかに過ごさせたくてね。幸い、時間とともにあの子はまた話せるようになって、少しずつ人間らしさを取り戻していったんだ。感情を表に出すのは苦手なようだったが、それでも人並みの生活を送れるようになっていった。ただ……」
「ただ?」
「覚えてはいなくても、あの事故のことはあの子の意識の奥底に刻み込まれているんだよ。あの子は自分だけが助かったことに、強い罪悪感を抱いている。自分を救うために命を落とした両親に申し訳ない、自分さえいなければ両親は助かったかもしれない、そんな深い自責の念は今もあの子の心をずっと蝕んでいるんだ」
――――言葉が、なかった。
何も言えなかった。
リオラがそんな、過酷で壮絶な過去を背負っていたなんて――――。
リオラがいつも、自分という存在を見下して「どうせ私なんか」と自虐的な物言いをするのは、学園時代の伯爵邸での生活が背景にあると思っていた。
でも本当は、もっとずっと前から、生きることへの葛藤を抱えていたのだろう。
両親を犠牲にして自分だけが生き残ってしまった罪の意識と後ろめたさを抱え、自分自身に価値を見出せず、それでも生きていかねばならなかったリオラはいつのまにか「私なんかが」と自分を卑下するようになったのだろうか。
あいつはこれまで、どれほど傷ついてきたのだろうか。
俺は元伯爵に断りを入れてから、中庭でリオラたちが戻ってくるのを待った。
温室を堪能したらしい二人が上機嫌で戻ってきたところを、すかさず呼び止める。それからリオラを誘って、ベンチに腰掛ける。
風が、心地よかった。
この優しい緑色の風に、リオラは癒されたのだろうか。
「どうかしたのですか?」
どことなく漂うただならぬ雰囲気に気づいて、リオラは心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は黙って、リオラを抱き寄せた。
リオラの体温が心地よくて、なんだか無性に泣きたくなる。
「リオラ」
「はい?」
「生きててくれて、ありがとう」
「……え?」
「リオラに出会えなかった人生なんて、俺にはもう考えられないから。お前が今ここでこうして生きていることに、感謝しかない」
その言葉で、リオラは俺が何を知ったのか悟ったのだろう。少し困ったような顔をして、「おじい様から聞いたのですか?」と苦笑する。
「私、本当に何も覚えていなんです。事故のことはもちろん、しばらく言葉を話せなくなっていたことも記憶になくて。元気になってから少しずつ教えてもらったんですけど、それでもやっぱり当時のことは思い出せないんです」
どこか他人事のように、そしてどこか遠くを見るように、リオラが落ち着いた口調で話す。
俺は思わず、リオラの頬に手を伸ばした。
愛おしさのあまりそっと触れても、リオラは嫌がる素振りを見せなかった。
「リオラ」
もう一度、名前を呼ぶ。
淡い空色の瞳が、無言で俺を見上げている。
「リオラに出会えたから、今の俺があるんだ。リオラがいなかったら、俺は昔のクズで最低な人間のまま、人を愛することを知らずに死んでいったと思う。リオラは俺に、生きるうえで一番大事なことを教えてくれたんだよ。俺はもうお前を手放せないし手放す気もないから、これからもずっと一緒に生きてくれないか?」
「レグルス様……」
「好きだよ、リオラ。愛してる」
低く抑えた声でそう言うと、リオラの目に涙があふれる。
こぼれた涙を親指でそっと拭うと、リオラが何かの合図だと思ったのか、すっと目を閉じた。
「……え、もしかして、キスしていいの?」
「はい!?」
閉じかけた目をがっつり開けたリオラが、素頓狂な声を上げる。
「そ、そ、そんなこと、いちいち聞かなくても……!!」
「だって、リオラが嫌がることはしたくないし」
「もう、そんなの、レグルス様の好きなときに好きなだけすればいいじゃないですか!!」
「え、いいの? んじゃ、人がいようが何しようが、いつでもどこでもあちらこちらにキスしまくる――」
「それは、控えめに言って、ダメです!!」
涙目でむきになって大声で叫ぶリオラが可愛すぎて、俺はそっと、触れるだけのキスをした。