第3話:父の影と小さな抵抗
ギルドの幹部、クロックワーク。
彼がアイリスに突きつける要求と、父の研究の「危険性」について語られます。
クロックワークは、アイリスの返事を待つこともなく、工房の中へと一歩足を踏み入れた。彼の磨き上げられた革靴が、油の染みた床板の上で、乾いた音を立てる。その一歩だけで、まるで空気が軋むような圧迫感があった。
「…どうぞ、とは言いませんけど」
アイリスは棘のある声で呟いたが、男は意に介した様子もない。彼は静かに工房の中を見回した。その青い機械義眼が、壁に掛けられた歯車や、作業台の上の工具、そして部屋の隅にある父の研究ノートの山を、値踏みするようにゆっくりと捉える。
「君の父、トーマス・ギアハートは、疑いなく天才だった」
クロックワークは、唐突に語り始めた。視線はノートの山に向けられているようだ。その声は、相変わらず平坦で温度がない。
「彼の『感情共鳴理論』は、精霊技術に新たな地平を切り開く可能性を秘めていた。…だが、同時に、それは制御不能な力を孕む、極めて危険な代物でもある」
「危険…?」アイリスは思わず聞き返した。父の研究を否定するような言葉に、眉間に皺が寄る。「父の研究のどこが、危険だと言うんですか!」
「感情。それ自体が不安定で、予測不能なエネルギーだ」
クロックワークは淡々と続ける。彼の義眼の青い光が、アイリスの反発心に反応するかのように、わずかに明滅した気がした。
「それを精霊の力と直接結びつけるなど狂気の沙汰だ。何が起きるか分からん」
「まさか…あの『大分離』のようなことが起きるとでも?」アイリスは声を震わせた。それは、五百年前に古代都市を消失させ、世界を分断したとされる大災害。父の研究が、そんなものに繋がるはずがない。
「可能性は否定できない」クロックワークは断言した。「故に、放置はできない」
「そんなはずありません!」
アイリスは強く否定した。
「父は、精霊を力ずくで支配する今のギルドのやり方に疑問を持っていた。だから、もっと精霊と心を通わせる方法を探していただけです! ギルドみたいに、ただ利用するだけじゃない!」
「心を通わせる、か。感傷的な言葉だな」
クロックワークは、口元に微かな冷笑を浮かべた。
「精霊は管理されるべきエネルギー源だ。それを効率よく、安全に制御することこそが、我々精霊技師の責務。感情などという不確定要素を持ち込むのは、システムの安定性を脅かす」
彼の言葉は、ギルドの公式見解そのものだった。効率、安全、制御。父が最も嫌っていた、冷たく響く言葉たち。
「だから、ギルドは決定した」
クロックワークはアイリスに向き直り、その青い義眼で彼女を真っ直ぐに見据えた。
「トーマス・ギアハートが遺した『感情共鳴理論』に関する全ての研究資料を、ギルドの管理下に置く。君が保管しているものは、速やかにこちらへ引き渡してもらいたい。それが、世界の秩序のためだ」
「なっ……!?」
アイリスは絶句した。父が命懸けで続けた研究を、ギルドが「危険」というレッテルを貼って奪おうとしている。父の想いを踏みにじる行為だ。許せるはずがなかった。
「嫌です!」
アイリスはきっぱりと拒絶した。恐怖よりも怒りが勝っていた。この工房も、父の研究も、自分の手で守り抜くと、強く心に誓った。
「父の遺産は、誰にも渡しません!」
「これは命令だ、アイリス・ギアハート」
クロックワークの声が、わずかに温度を下げた。金属的な響きが増す。
「ギルドに逆らうことが、どういう結果を招くか、君も知っているはずだ。君の父がどうなったか…」
彼の言葉がそこで途切れる。それは意図的な沈黙か、それとも…。いずれにせよ、静かだが明確な脅しだった。父の死を暗にちらつかせている。
「父は…なぜ死んだんですか?」
アイリスは、震える声で問いかけた。ずっと心の奥底で燻っていた疑問。彼の脅しに乗るつもりはないが、それでも聞かずにはいられなかった。
「事故死だと…そう聞きました。でも、あなたはさっき、真実は複雑だと言った。本当は何があったんですか? あなたは何か知っているんでしょう!?」
クロックワークの表情が、ほんの一瞬だけ、硬直したように見えた。彼の白い手袋をはめた手が、握りしめた杖の上でピクリと動く。義眼の青い光が、不安定に揺らぐ。
「……君にはまだ、知る必要のないことだ」
彼は短く答え、それ以上口を閉ざした。その頑ななまでの拒絶と、一瞬見せた動揺が、アイリスの疑念をさらに強くした。この男は、間違いなく何かを隠している。
「父の研究は、誰にも渡しません。絶対に」
アイリスは、クロックワークの青い義眼を真っ直ぐに見据えて、もう一度繰り返した。小柄な彼女の体から、予想外の強い意志が放たれているのを、クロックワークは意外なものを見るように観察していた。彼の義眼の内部で、微小な歯車が回転する音が聞こえるようだ。
「……そうか」
彼は小さく息を吐いた。その声には、諦めのような、あるいは憐れみのような響きが含まれていた。
「君も、父親に似て頑固だな。…よかろう。だが、ギルドは必要な措置を取る。後悔することになるぞ、少女」
そう言い残し、クロックワークは背を向けた。彼の足音が工房から遠ざかり、再び重々しいドアベルの音が、今度は去っていく合図として響く。
一人残されたアイリスは、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。全身から力が抜けていくようだ。膝が震えている。
疑念と不安が、嵐のように彼女の心の中で渦巻いていた。
父の研究は、本当に危険なものなのか? 父の死の真相は? そして、ギルドはこれから何をするつもりなのか?
答えはどこにもない。
ただ、父が遺した研究を守らなければならないという強い思いだけが、震える彼女を突き動かしていた。
(お父さんの書斎…調べなきゃ……! 何か手がかりがあるはず…!)
アイリスは父の秘密に迫る…!?