第22話:長老オリビア
ついに星見の塔の最上階へたどり着いたアイリスたち。
そこに待っていたのは、古道派の長老、オリビア。
盲目でありながら全てを見通すという彼女との対面は、アイリスに何をもたらすのでしょうか。
アイリスたちが広間に入ると、瞑想していたかのような老婆――オリビアは、ゆっくりと振り返った。
小柄な体躯に、質素だが精霊文字の刺繍が施された、深い紫色の長衣をまとっている。白髪は厳かに結い上げられ、その顔には深い皺が刻まれているが、肌には不思議な艶があった。年の頃は、マーカスの話通り、百歳をはるかに超えているように見えた。
そして、彼女の瞳。
その瞳は、まるで乳白色のガラス玉のように白濁しており、明らかに光を捉えていない。盲目なのだ。
しかし、その瞳がアイリスたちに向けられた瞬間、アイリスは全身を見透かされるような、鋭い感覚に襲われた。まるで、心の奥底まで直接触れられているかのようだ。彼女は、物理的な視力ではなく、もっと別の何か――「精霊の目」とでも言うべきもので、世界を、そして彼らの魂を見ているのだと直感した。
「よくぞ参った、マーカス。そして……ギアハートの娘よ」
オリビアの声は、古井戸の水のようによく響き、静かだが有無を言わせぬ力強さを持っていた。その声だけで、広間の空気が引き締まる。
彼女の視線は、まず疲れ切ったマーカスの肩の傷に向けられ、次いでアイリスが抱えるようにしているアミュレットに留まった。
「道中は厳しいものであったようじゃな。その禍々しい気配…灰色荒野を越えてきたか」
次に、オリビアの白濁した瞳が、アミュレットの中のソルに向けられた。
「ほう……高次の火の精霊か。久方ぶりに見る顔じゃの。随分と消耗しておるようじゃが……まずは、その方を癒さねばなるまい」
オリビアが静かに手招きすると、いつの間にか現れていた古道派のメンバー(穏やかな雰囲気の女性)が、アイリスからそっとアミュレットを受け取り、丁寧に広間の隅にある清浄な祭壇のような場所へ運んでいった。そこで、何らかの回復の儀式が始まるようだ。
「マーカスよ、そなたの傷も手当てが必要じゃろう。者どもに案内させよう」
オリビアが言うと、別のメンバーがマーカスを促し、治療のための部屋へと連れて行った。マーカスはアイリスに「オリビア様のお導きを信じなさい」と目配せをして、広間を後にした。
一人残されたアイリスに、オリビアは向き直った。その白濁した瞳が、静かにアイリスを捉える。
「さて、ギアハートの娘よ」オリビアの声は穏やかだが、全てを見通すような響きがある。「マーカスはこの塔へ来るようそなたを導いたようじゃが…そなた自身は、何を求め、ここまで参ったのじゃ?」
オリビアは、アイリスの目的を知っているような口ぶりではなく、あくまで彼女自身の言葉で語ることを促した。
アイリスは、緊張しながらも、オリビアの真っ直ぐな(ように感じられる)視線を受け止め、深呼吸をして話し始めた。
「私は…父、トーマス・ギアハートの死の真相を知りたいのです」
彼女は、ギルドの公式発表への疑念、クロックワークとの遭遇、そしてソルとの出会いと彼から聞いた話を、言葉を選びながら、しかし正直に語った。
「そして…私には、機械や、精霊の声のようなものを感じる力があります。これが何なのか、父や母とどう関係しているのか…それを知りたくて、マーカスさんに導かれてここへ来ました」
オリビアは、アイリスの話を黙って聞いていた。時折小さく頷きながら、彼女の言葉の裏にある感情の揺らぎをも感じ取っているかのようだった。
アイリスが話し終えると、オリビアは静かに言った。
「なるほどの。父の影を追い、己の根源を探る旅か。険しい道のりじゃろうな」
そして、オリビアは続けた。
「お前の内には、大いなる力が眠っておる。父の知性と、母の感性を受け継いだ、稀有な共鳴の才能がな。じゃが…」
オリビアは、アイリスの内面の問題点をも正確に指摘した。
「その力は、お前自身の感情の壁によって、固く閉ざされておる。恐れ、悲しみ、怒り…それらが蓋となり、力の源泉を堰き止めておるのじゃ」
「その力を解き放ち、真実へ至るためには、お前自身の内なる世界と向き合う『試練』が必要となる。それは、己の影と対峙する、厳しい道のりじゃ」
試練。父の死の真相を知るため、自分の力を理解するためには、避けては通れない道。
「じゃが、今のそなたは長旅で疲れ切っておる。傷ついた翼では、高くは飛べぬからの」
オリビアの声が、少しだけ和らいだ。
「まずは湯浴みでもして、ゆっくり休むが良い。心と体を整え、試練に臨む覚悟ができた時、改めてわらわの元へ来るのじゃ」
オリビアは、試練の厳しさを伝えつつも、アイリスの状態を気遣い、準備の時間を与えてくれた。その思慮深さに、アイリスは少しだけ安堵した。
アイリスは、古道派のメンバーに案内され、塔の中にある簡素だが清潔な客室へと通された。温かい湯浴みで旅の汚れと疲れを洗い流し、用意された柔らかい寝間着に着替えると、体だけでなく心まで解れていくのを感じた。
部屋の窓からは、眼下に広がる灰色荒野が見えた。あんな危険な場所を越えてきたことが、まるで嘘のようだ。塔の中は、外の世界とは完全に隔絶された、静かで安全な聖域のように感じられた。
ベッドに横になると、すぐに深い眠りに落ちそうになったが、アイリスは眠る前に、これまでの出来事を頭の中で整理した。父の死の謎、クロックワークの脅威、ソルの存在、マーカスとの出会い、そして古道派と自分の力の秘密…。あまりにも多くのことが起こりすぎた。
(私は、これからどうすればいいんだろう…?)
答えを求めて、この塔に来た。オリビア様なら、きっと導いてくれるはずだ。そのためには、オリビア様が言っていた「試練」を受けなければならない。自分の内面と向き合う、という試練。それは怖い。逃げ出したい気持ちもある。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。父の真実を知るために、自分の力を知るために、そして、前に進むために。
(お父さん、お母さん…私、頑張るから…)
アイリスは、心の中で両親に語りかけ、静かに決意を固めた。試練を受ける覚悟を、ゆっくりと、しかし確かに育てていった。
どれくらい眠っただろうか。鳥の声のような清らかな音色で目を覚ますと、窓の外は明るくなっていた。体の疲れは、驚くほど取れていた。塔の持つ癒やしの力なのだろうか。
身支度を整え、再び最上階の広間へ向かうと、オリビアが静かに待っていた。ソルの入ったアミュレットも祭壇から戻され、アイリスが受け取った。
(ソル…大丈夫かな…)
アイリスはアミュレットにそっと触れる。以前よりも少しだけ安定した温かいエネルギーを放っているように感じられたが、まだ完全ではないようだ。試しに心の中で呼びかけてみたが、返事はない。おそらく、回復のために深い眠りについているのだろう。今はそっとしておくのが一番だ。マーカスの姿は見えないが、彼もきっと治療を受けているのだろう。
「…よく休めたようじゃな。顔つきが変わった」
オリビアが、アイリスの気配を感じて言った。
「はい、お陰様で」
アイリスは深呼吸をして、オリビアの前に進み出た。
「オリビア様。私、試練を受ける準備ができました。どうか、お願いします」
その声には、もう迷いはなかった。
オリビアは、しばらくの間、黙ってアイリスの「魂の響き」に耳を澄ませているようだった。そして、満足げに小さく頷いた。
「覚悟は決まったようじゃな。よかろう」
オリビアは、傍らに立てかけてあった、古木の杖――おそらくは調律杖だろう――を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
「では、参るぞ。試練の間へ」
その言葉と共に、オリビアは広間の奥にある、これまで気づかなかった隠し扉へと、アイリスを導き始めた。その先にあるのは、アイリス自身の深層心理へと続く道だった。
休息を経て、ついに試練への覚悟を決めたアイリス。
長老オリビアに導かれ、彼女は自らの内面世界へと旅立ちます。




