第2話:鋼鉄の訪問者
アイリスの工房に現れた謎の訪問者…。
その正体と目的が明らかになります。
重々しいベルの音は、工房の空気を直接揺さぶるかのようだった。
アイリスはごくりと唾を飲み込み、ゆっくりとドアに向かう。心臓が、肋骨の内側でドクドクと嫌な音を立てている。さっきまでの、クッキーの温かさがもたらした束の間の安らぎは完全に消え去り、代わりに鋭利な刃物のような、張り詰めた緊張感が空間を満たしていた。
深呼吸を一つ。油と金属の匂いが肺を満たす。それが、ほんの少しだけ彼女に冷静さを取り戻させた。
意を決して、古びた木のドアを開ける。軋む蝶番の音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
背が高い。そして、痩せている。雨に濡れた様子はなく、完璧に着こなされた黒いスーツは、この煤けた地区には明らかに不釣り合いだ。背筋は、測ったかのように垂直に伸び、微動だにしない。
銀髪が混じる黒髪は完璧に整えられ、彫刻のように整った顔立ちには、表情というものがまるでなかった。
そして、彼の左目。
本来あるべき場所には、精巧な機械仕掛けの義眼が嵌め込まれていた。複雑な歯車とレンズが組み合わさったそれは、冷たく研ぎ澄まされた青い光を明滅させている。
その光は、魂を持たない機械の視線のように、アイリスの全身を射抜いた。思わず、一歩後ずさる。
男は白い手袋をはめた手で、細身の金属杖をついていた。杖の先端が、石畳をコツリと静かに打つ。冷たい音が、アイリスの鼓膜に響いた。
「……どちら様、でしょうか?」
アイリスはかろうじて声を絞り出した。
恐怖と警戒心で、声が震えるのを抑えられない。彼の放つ異様なプレッシャーに、呼吸が詰まる。
男は、わずかに眉を動かしただけで、感情の乗らない平坦な声で答えた。磨き上げられた金属のように冷たく滑らかな声。
「ギアハート・フィクサリーはここで間違いないか?」
「……はい」
アイリスは小さく頷く。
「私はビクター・クロックワーク。精霊技師ギルド、研究開発部門の統括責任者だ」
精霊技師ギルド。
その名を耳にした瞬間、アイリスの警戒心は最大になった。
ギルド。この国の精霊技術を独占する巨大組織。父トーマスが生前、対立していた相手。
そして目の前の男は、そのギルドの、研究開発部門のトップ。
なぜ、そんな大物が、こんな場末の工房に?
「ギルドの方が……何の御用でしょう」
アイリスは、精一杯の勇気を振り絞って問い返した。
無意識のうちに、額のゴーグルに指がかかり、カチリと微かな音を立てる。緊張で指先が冷たい。
クロックワークと名乗った男の機械義眼が、カチリ、カチリ、と内部の歯車が回転するような微かな音を立てる。その青い光が、アイリスの顔を、そして彼女の後ろにある工房の中を、冷徹に分析しているかのようだ。
「君が、アイリス・ギアハートだな。トーマス・ギアハートの娘」
「……!」
父の名を、何の躊躇いもなく口にする。
アイリスは息を呑み、思わず男の顔を見返した。父の名を平然と口にするこの男に、かすかな怒りが込み上げる。
「…そうですが」
「君の父、トーマス・ギアハートについて、話があって来た」
クロックワークの言葉は、淡々としていて、抑揚がない。
だが、その言葉の裏には、有無を言わせぬような重圧があった。
「父は…三年前に亡くなりました。実験中の事故で」
アイリスは、再び公式発表を繰り返した。震える声を押さえつけるように。
「事故、か」
クロックワークは、初めて口の端に微かな、しかし明確な嘲笑とも諦観ともつかない表情を浮かべた。ほんの一瞬の、歪み。
「世間ではそうなっているな。だが、真実はもう少し複雑だ」
彼の青い義眼が、再びアイリスを捉える。
その視線は、まるで彼女の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
アイリスは、その無機質な視線から逃れるように、わずかに目を伏せた。工房の古い柱時計の音が、やけに大きく感じられた。普段は気にも留めないその音が、今は心臓の鼓動のように響いている。
「父の研究が…何か?」
アイリスは、不安を押し殺して尋ねた。
「問題、という言葉では生易しい」
クロックワークは静かに首を振った。
その仕草もまた、どこか計算されたような、機械的な印象を与える。
「君の父が遺した『感情共鳴理論』……」
彼は、その言葉を、まるで呪文か何かのように、ゆっくりと、しかしはっきりと口にした。
「その、危険な遺産について、話がある」
彼の言葉は、冷たい氷のようにアイリスの胸に突き刺さった。
感情共鳴理論。
父が晩年、情熱と、そしておそらくは苦悩の中で探求していた研究。ギルドから異端視されていた、あの理論。
この男は、一体何を知っているのか。
そして、父が遺したものを、どうしようというのか。
アイリスは、目の前の鋼鉄のような男から放たれる、底知れないプレッシャーを感じながら、ただ立ち尽くすしかなかった。