第18話:灰色荒野の境界
アイリスたちは、最短ルートである危険な「灰色荒野」へと足を踏み入れる。
ギルドの追手を一時的に退けたものの、空に浮かぶ小型飛行偵察機の存在は、常にアイリスたちの頭上に重くのしかかっていた。まるで、無慈悲な監視者のように、一定の距離を保ちながら彼らを追尾してくる。
「あの偵察機…どうにかならないの?」
アイリスは、空の黒点を睨みつけながら、忌々しげに呟いた。ボルトガンで撃ち落とせないかと考えたが、距離が遠すぎる上に、おそらくエネルギーシールドで防御されているだろう。
『無駄だ、小娘』アミュレットの中からソルの声が響く。『あれはギルドの最新型だろう。我の炎でも、あの高度と速度では当てるのは至難の業。下手に攻撃すれば、こちらの位置をさらに正確に知らせるだけだ』
「火精霊様の言う通りだ」マーカスも同意した。「おそらく、我々の反撃も想定済みだろう。今は無視して、少しでも早くこの場を離れるのが最善策だ」
監視されている。それは紛れもない事実だった。彼らはなす術もなく、ただ歩き続けるしかなかった。彼らは夜を徹して歩き続け、少しでも追跡から逃れ、体力を回復するための時間を稼ごうとした。マーカスの肩の傷は応急処置を施したが、痛みが引かないのか、時折苦しげに顔を歪める。アミュレットの中のソルも、先の戦闘での消耗が大きいのか、気配が以前より弱々しく感じられた。アイリス自身の疲労もピークに達しており、重い足取りを引きずるようにして進む。
数日が過ぎ、彼らが進む荒野の風景は、徐々にその様相を変え始めていた。
地面を覆っていたまばらな草は完全に姿を消し、代わりに灰色の砂と、風に削られ奇妙な形になった黒い岩が目立つようになった。空の色も、澄んだ青から、まるで煤けたガラスのような、鈍い灰色へと変わっていく。空気も重く、澱んでいるように感じられた。まるで、世界から色彩と生命力が失われていくようだ。
「これは……」
アイリスは、その異様な雰囲気に息を呑んだ。共鳴能力が、この土地の異常さを警告するように、不快な波動を拾い始めている。
「『灰色荒野』の境界に近づいているようだ」
マーカスが、苦々しげに呟いた。彼の顔色も優れない。
「五百年前の『大分離』によって生まれた、呪われた土地だ」
灰色荒野。古代都市エテラルが消失した跡地に広がるとされる、不毛の大地。精霊エネルギーが枯渇し、歪んでしまった場所。そこは、生ける者が足を踏み入れるべきではない、危険な領域だと伝えられている。物語やおとぎ話の中でしか聞いたことのない、禁断の土地。
「星見の塔へ向かうには、この荒野を突っ切るのが最短ルートなのだ」
マーカスは地図を確認しながら説明した。
「迂回すれば、さらに何日もかかり、追手に捕まる危険性が高まる。危険は承知の上だが、進むしかない」
やがて、彼らの目の前に、巨大な石碑が姿を現した。それは明らかに人工物で、黒曜石のような滑らかな石材で作られている。表面には古代の文字らしきものが|びっしり》と刻まれているが、長い年月の風雨によって摩耗し、ほとんど読み取ることはできない。ただ、その佇まいは警告のような、不吉な雰囲気を漂わせていた。これが、灰色荒野への入り口を示す境界石なのだろう。
石碑を越え、荒野へと足を踏み入れる。その瞬間、空気がさらに重くなったのを感じた。微かに、金属が焼けるような異臭と、腐敗したような甘ったるい匂いが混じり合って漂ってくる。
アイリスは、自身の共鳴能力を通じて、この土地の異常さを肌で感じていた。空気中の精霊エネルギーが極端に希薄で、しかもその流れが不規則に乱れ、淀んでいる。まるで、重い病にかかった生き物の、苦しげな呼吸のようだ。この空気を吸い込んでいるだけで、自分の精神まで蝕まれていくような感覚があった。
荒野のあちこちに、奇妙な光景が見られた。地面から突き出した、ねじ曲がった金属の残骸。それは、大分離の際に暴走した古代機械の成れの果てなのだろうか。所々、地面が黒いガラスのように変質し、不気味な光を放っている場所もある。そこは、歪んだ精霊エネルギーが溜まっている危険なスポットなのだろう。近づかないように、慎重に進む。
『ぐ……気分が悪い……』
アミュレットの中から、ソルの苦しげな声がアイリスの頭の中に響いた。
『この土地は、精霊にとって毒だ。エネルギーが吸い取られ、魂が歪められる……。長居はできんぞ』
高次精霊であるソルでさえ、この土地の影響を強く受けている。アイリスもまた、言いようのない倦怠感と、胸騒ぎを感じていた。頭が重く、思考が鈍るようだ。
マーカスも顔色が悪く、足取りが重い。肩の傷が、この淀んだ空気の中で悪化しているのかもしれない。彼は時折立ち止まり、苦しげに息をついた。
それでも、彼らは足を止めなかった。一刻も早く、この死の大地を抜けなければならない。この場所に留まること自体が、命を削ることになる。
どれくらい歩いただろうか。灰色の空の下、三人の影が力なく伸びる。陽の光さえも、ここでは弱々しく感じられた。
その時、前方から、奇妙な音が聞こえてきた。
キィィ、とか、グチャ、とか。複数の生き物が発するような、甲高い鳴き声。しかし、その響きはどこか歪んでいて、苦痛に満ちているように聞こえた。聞いているだけで、気分が悪くなるような音だ。
アイリスたちが警戒して立ち止まると、灰色の砂の中から、あるいは黒い岩陰から、ぞろぞろと異形の影が現れ始めた。
それは、精霊のようだった。しかし、その姿は禍々しく歪み、体からは黒い靄のようなものが立ち上っている。瞳は憎悪に満ちた赤い光を放ち、その体からは、苦痛と狂気の波動が奔流のように放たれていた。
「変異精霊……! この土地の汚染されたエネルギーが生み出した、哀れな成れの果てだ……! 近づくな!」
マーカスが呻くように言った。
その数は、十や二十ではない。数十体の変異精霊が、じりじりと彼らを取り囲むように、迫ってきていた。獲物を見つけた捕食者のように、赤い瞳をギラつかせながら。
ついに足を踏み入れた灰色荒野。そこは、精霊さえも蝕む呪われた土地でした。
そして現れた変異精霊の群れ…!




