第16話:レムリア脱出
父の死の真相と、自身の力の謎を追う決意を固めたアイリス。
次なる目的地は「星見の塔」
星見の塔へ向かう――決意は固まった。マーカスは店の奥から旅に必要な道具を準備し始めた。アイリスも、父の研究ノートを革袋にしまい込み、気持ちを引き締める。
その時、マーカスはアイリスの傍らに静かに揺らめく炎――ソルの存在に改めて気づき、目を見開いた。彼は地下水路で初めて見た時から、その尋常でないエネルギーを感じ取ってはいたが、落ち着いて向き合うのは初めてだった。炎の中心に宿る、古く強大な意志。それは間違いなく、伝説に語られる存在のものだった。
「これは……」マーカスは息を呑み、アイリスを見た。「アイリス、君はこのような方を…?」
彼の声には、驚きと共に、深い敬意が込められていた。
「えっと…はい、ソルっていう名前で…成り行きで…」アイリスは説明に困り、言葉を濁す。
マーカスはアイリスの反応に何かを察したようだったが、深くは追求せず、ソルに向き直り、恭しく頭を垂れた。
「火精霊様、先程は失礼いたしました。私はマーカス、古き道を歩む者です。アイリスをお助けいただき、心より感謝いたします」
古道派にとって、高次精霊は敬うべき存在であり、その邂逅は特別な意味を持つ。
ソルは尊大な態度を崩さなかったが、マーカスの敬意を一瞥で認め、フン、と鼻を鳴らした。
『礼には及ばん。我も、この小娘とギルドには些か借りがあるでな』
「…つきましては、火精霊様」マーカスは続けた。「レムリアからの脱出にあたり、一つお願いがございます」
彼は、古代の精霊文字が刻まれた小さな黒曜石のアミュレットを取り出した。
「ギルドの追跡を逃れるため、一時的にこのアミュレットに御身の気配を封じさせていただけないでしょうか。高次精霊様のエネルギーは、彼らにとって格好の的となってしまいますゆえ」
『フン、また檻に入れというのか。人間はこれだから…』
ソルは不満げに炎を揺らめかせたが、マーカスの言葉の理を理解し、渋々頷いた。
『よかろう。だが、これは一時的な措置だぞ。すぐにここから出すことを約せ』
「もちろんです」マーカスは深く頷いた。
ソルが頷くと、アミュレットが淡い光を放ち、彼の炎の体が吸い込まれるようにその中へと収まった。アミュレットが、かすかに温かくなる。アイリスはそのアミュレットを受け取り、首から下げ、服の下に隠した。確かな重みが、心強さと同時に、この旅の重大さを感じさせる。
マーカスはアイリスに、目立たない濃い茶色の旅装束と、フード付きの丈夫なマントを手渡した。そして、偽造された身分証明書も。「これで中層区くらいまでなら、怪しまれずに移動できるだろう」
準備を終え、三人は古道具屋の地下にある隠し通路から、再びレムリアの地下世界へと足を踏み入れた。マーカスの持つ精霊ランプの頼りない光を頼りに、迷路のような下水道や、放棄された古い地下鉄のトンネルを進んでいく。ひんやりとした湿った空気、滴る水の音。地下道の湿った空気には、黴臭さと錆びた金属の匂いが混じっていた。アイリスは思わず眉をひそめる。
「この辺りは、下層区の中でも特に古い区画だ」
マーカスが小声で説明する。
「地上では再開発が進んでいるが、地下には忘れられた歴史が眠っている。ギルドも完全には把握しきれていないはずだ」
壁には、いつの時代のものか分からない落書きや、奇妙なシンボル。空気は澱み、時折、得体の知れない物音が暗闇から聞こえてくる。アイリスは、壁に染みついた古い記憶や感情の残滓を、共鳴能力で微かに感じ取っていた。それは、長い年月の間に蓄積された人々の苦しみや嘆きのようで、決して心地よいものではなかった。
何度か、地上へと続く通気孔の近くで、保安官たちの声や足音を聞いた。一度は、すぐ真上を複数の足音が通り過ぎ、三人は息を殺して暗闇に身を潜めた。心臓の音が、嫌に大きく聞こえる。ランプの光を消し、完全な闇の中で、追手が通り過ぎるのを待つ時間は、永遠のように長く感じられた。張り詰めた空気の中、アイリスの手は汗ばんでいた。ギルドの追跡能力は、想像以上に組織的で、執拗だ。
幸い、彼らは地下深くまでは捜索の手を伸ばしていないようだった。エネルギー探知センサーの反応を探知した際も、アイリスが咄嗟に父の遺品のジャミング装置を作動させ、危機を回避した。
長い時間をかけて地下を進み、ようやくマーカスが立ち止まった。
「ここだ。この先は、レムリアの外壁の外へと続いているはずだ」
古びた鉄梯子を上ると、そこは街の境界近くにある、廃墟となった古い工場の敷地だった。壊れた窓から夜風が吹き込んでいる。
夜の闇に紛れて外壁を越え、三人はついにレムリアの外、広大な荒野へと足を踏み出した。湿った土と草の匂いが、都会の空気とは違う解放感をアイリスにもたらした。
振り返ると、巨大な機械都市レムリアが、無数の精霊ランプの光を放ちながら、夜の闇に浮かび上がっている。生まれ育った街。父との思い出が詰まった場所。初めてこの街を離れる不安と、未知の世界への好奇心が奇妙に混ざり合い、足取りを重く、そして軽くさせた。アイリスは胸が締め付けられるようだったが、今は前へ進むしかないのだ。
マーカスが用意してくれた最低限の旅の装備――保存食、水筒、応急処置キット、そして父の研究ノートが入った革袋――を背負い直し、アイリスは荒野へと続く道を歩き始めた。星明かりだけが頼りの、未知への旅。ここからが、本当の始まりなのだ。
しかし、安堵も束の間だった。
レムリアを出て数時間、荒野を進む彼らの背後で、アイリスの首に下げたアミュレットが、微かに熱を持った。ソルの声が、直接頭の中に響いてくる。
『…小娘、マーカスとやら。どうやら、追手の気配がするぞ。少なくとも三人。足取りからして精霊保安庁の特殊班だろうな。それも、かなり手強い奴らだ』
その声には、確かな警告の色が滲んでいた。早くも追いつかれたというのか。ギルドの執念は、想像以上だった。
マーカスの助けで、なんとかレムリアを脱出したアイリスたち。
しかし、安堵も束の間、早くも追手の影が…!




