第12話:古道具屋の主人
行き止まりの地下水路で、追い詰められたアイリスとソル。
絶体絶命の状況の中、目の前の壁に異変が…!?
追手の足音がすぐそこまで迫り、精霊探知犬の低い唸り声が反響する。アイリスは絶望に打ちひしがれていた。行き止まりの壁を前に、もう逃げ場はない。ソルもまた、消耗した体で最後の抵抗を試みようと、炎を明滅させている。
(ここまで、なの……お父さん……)
アイリスが壁に手をつき、目を閉じた、その時だった。
ゴゴゴ……
目の前の石壁が、静かに、しかし確実に動き始めた。
まるで巨大な歯車が回転するように、壁の一部が横にスライドしていく。壁の向こうから、カビ臭い地下水路の空気とは違う、乾燥した古い紙と、微かなハーブの香りが漂ってきた。
開いた壁の向こうから、ランプの温かい光と共に、一人の初老の男性が姿を現した。
年の頃は五十代だろうか。白髪混じりの髪を後ろで無造作に束ね、少し猫背気味のその男は、古風だが手入れの行き届いたツイードの上着を着ていた。指先はインクか古書の埃で少し汚れている。その顔立ちは穏やかで、どこか学者か教師のような知的な雰囲気を漂わせている。
彼は、突然現れたアイリスとソルを見ても、少しも驚いた様子を見せず、むしろ状況を全て理解しているかのように、落ち着いた声で言った。
「やあ、アイリス。久しぶりだね。ずいぶん、大変なことになっているようだ」
「え……?」
アイリスは呆然と男を見上げた。自分の名前を知っている? しかも、久しぶり、とはどういう意味だろうか。こんな人は知らないはずだ。困惑と警戒心が入り混じる。
「あなたは……?」
「おっと、自己紹介がまだだったね。私はマーカス。この近くで、しがない古道具屋をやっている者だよ」
マーカスと名乗った男は、人の良さそうな笑みを浮かべた。その笑顔は、アイリスの警戒心を少しだけ和らげた。
「さあ、立ち話もなんだ。こちらへ。追手もすぐそこまで来ているようだ」
彼はアイリスとソルを促し、開いた隠し通路の奥へと導いた。通路はすぐに上り坂になり、やがて木の扉へと続いている。扉を開けると、そこは古道具屋のバックヤードのような場所だった。
店の中は、まさに「時の忘れ物亭」という屋号にふさわしい空間だった。
壁際には天井まで届く本棚が並び、古びた書物や巻物がぎっしりと詰まっている。テーブルや棚の上には、奇妙な形の機械部品、年代物の時計、色褪せた地図、用途不明のガラス器具などが、所狭しと置かれていた。しかし、それは乱雑というよりは、まるで博物館の展示のように、不思議な調和を保っている。
空気には、古い紙と、乾燥したハーブと、そして微かにエーテライトの匂いが混じり合っている。どこか懐かしく、不思議と落ち着く空間だった。
「さあ、奥へ。ここならギルドの連中も気づくまい。簡単な結界も張ってあるからね」
マーカスは店の奥にある小さな居住スペースへと二人を案内した。そこには簡素なテーブルと椅子があり、彼は手際よくお茶を淹れ始めた。芳しいハーブティーの香りが、緊張したアイリスの心を少しだけ解してくれた。
「君が赤ん坊の頃に会ったきりだから、覚えていないのも無理はないね」
マーカスは、湯気の立つカップをアイリスの前に置きながら言った。
「君のお父さん、トーマスとは、もう二十年来の友人だったんだよ」
「父の…友人?」
アイリスは驚きで目を見開いた。父にこんな友人がいたなんて、全く知らなかった。父はあまり自分の交友関係を話す人ではなかったから。
「ああ。彼はよく、研究に行き詰まると、私の店にふらりとやって来てはね。古い機械をいじりながら考え事をしたり、私と他愛もない話をしたりしていったものさ」
マーカスは懐かしそうに目を細める。
「君のことも、よく話していたよ。利発で、機械いじりが好きな、少し人見知りな娘だってね」
マーカスの温和な語り口と、父との確かな繋がりを知り、アイリスの警戒心はさらに解けていった。この人は、信頼できるかもしれない。父が心を許した相手なのだから。
「それで…なぜ、私たちを?」
「トーマスの忘れ形見が追われていると聞いてね。地下水路の隠し通路は、いざという時のために彼と私が用意したものだ。まさか、本当に使う日が来るとは思わなかったが…」
マーカスはカップを置き、真剣な表情になった。
「それに…君のお父さんの死については、私もずっと納得がいっていないんだ」
その言葉は、アイリスの心の奥底に眠っていた疑念を、再び、しかし今度は確かな輪郭を持って呼び覚ますのに十分だった。
謎の古道具屋の主人、マーカス。彼はアイリスの父の旧友でした。
そして彼もまた、父の死に疑問を抱いていた…。




