第1話:工房の主と歯車の歌
蒸気と歯車、そして不思議な精霊たちが織りなす世界で、一人の少女の物語が動き出します。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
鈍色の空から、霧雨が街を湿らせていた。
首都レムリア。石畳を濡らす冷たい雨音。遠くで歯車式路面電車が軋み、工場の蒸気ハンマーが鈍いリズムを刻む。街の動脈たる精霊パイプラインからは、微かなエネルギーのハミングが聞こえる。ここは、蒸気と歯車、そして青白い精霊の光が混じり合う、巨大な機械仕掛けの都市。
その郊外、ニュー・ヘイブン地区の裏通りに、「ギアハート・フィクサリー」という名の小さな工房があった。古びた木の扉に、緑青の浮いた真鍮の看板。
工房の主、アイリス・ギアハート(十八歳)は、油と金属の匂いが染みついた作業台で、配達用の自動人形――アルくん――と向き合っていた。
小柄な体に作業着、無造作に束ねた亜麻色の髪には古風なゴーグル。今はそれを額に上げ、真剣な眼差しでアルくんの内部を覗き込んでいる。
「アルくん、ちょっと我慢してね。ここの関節、動きが悪いから」
小さな声。人間相手には出さない、優しい響き。
アルくんの内部駆動機構から、カチリ、と小さな金属音が返る。
アイリスの手が、迷いなく装甲を開く。
機械油と細かい傷だらけの、働き者の手。だが動きは繊細で、精密な工具を操る様は、まるで音楽家が楽器に触れるかのようだ。
「……やっぱり。共鳴回路に微細な歪み。エネルギーの流れが悪い」
ゴーグルを下ろし、レンズ越しに覗き込む。カチリと倍率が変わる。ゴーグルを調整するのは、彼女の集中時の癖だ。
静かな瞳の奥に、目の前の機械への深い理解と、親愛の情が宿る。
工房の中は、雑然としながらも、彼女なりの秩序があった。壁には歯車や配線類。床には分解された部品。機械油と金属、そしてエーテライト鉱石の微かに甘い匂い。彼女が世界で一番落ち着ける場所。
父、トーマス・ギアハートから工房を継いで三年。
彼は「実験中の事故」で死んだ、とギルドは発表した。
アイリスはその言葉を信じきれずにいる。父は、あんなにあっけなく死ぬような人ではなかった。
工房の隅、父の愛用した革張りの椅子が空いている。時折、彼女はそこに視線を送り、無意識に左の眉をくいと上げる。父と同じ、考え込むときの癖だった。
再びアルくんの修理へ。
指がエーテライトを組み込んだ調律回路に触れる。
その瞬間、彼女の耳にだけ聞こえる微かな「歌」が響いた。高周波の囁きのような、小さな鈴の音のような。
アルくんの中に封じられた基本精霊――小さな風の精霊だろう――の「感情」の響きだ。
不快そうに揺れている。濁った響き。まるでどこか痛いと訴えているように。
「大丈夫。もうすぐ楽になるから」
アイリスの共鳴能力。
機械や、その中に宿る精霊の「声」を聞き、感じ取り、わずかに影響を与える力。
父からか、母からか。才能あるピアニストだった母エレナの音楽には、精霊たちが自然と集まったと父は言った。
この力が何なのか、まだ完全には理解できていない。ただ、機械と向き合う時だけ、彼女は世界との確かな繋がりを感じ、孤独を忘れられた。
集中すると、無意識に鼻歌を口ずさむ。途切れがちで、音程も不確かだが、母がよく弾いていたピアノ曲の断片。
母は、アイリスがまだ八つの時に、精霊病――精霊エネルギー《エーテル》に長期間晒されることで発症すると言われる原因不明の病――で亡くなった。
父も母もいない。この工房と、この力だけが残された。
カチリ、と最後のネジを締め終える。歪みを修正し、淀んでいたエネルギーの流れがスムーズになったのを感じる。
アルくんの中の精霊の「歌」も、濁った響きから、澄んだ泉の水が流れるような、軽やかな音色に変わっていた。
「よし。起きて、アルくん」
起動スイッチを入れると、光学センサーが穏やかな青白い光を灯し、滑らかな動きで上半身を起こした。
『アリガトウ、アイリス様。身体ガ、非常ニ軽イデス』
合成音声だが、どこか弾んでいるように聞こえる。
「どういたしまして。配達、頑張ってね。雨だから、気をつけて」
アルくんの金属製の頭を、躊躇いなくそっと撫でる。
機械には、自然に優しく接することができる。
アルくんが礼儀正しくお辞儀をして出ていくと、再び静寂が戻った。
工具を布で拭きながら、窓の外を見る。
雨に煙るレムリアの街並み。下層区に近い、煤けたレンガ造りの建物。
通りの向こうには中層区へ続く高架鉄道。流線型の精霊列車がシューという音と共に走っていく。
遠く、霧の中に霞む上層区の白亜の塔々。ギルド幹部や貴族の住む、まるで違う世界。
街の精霊ランプが石畳を照らす。
あのランプの中にも、小さな精霊が封じられている。魂函という冷たい容器の中で。
便利で、美しい。
けれど時折、アイリスはその青白い光の中に、閉じ込められた存在の、声にならない悲しみを感じ取ってしまう。ガラス越しに聞こえる、か細いすすり泣きのような、冷たく重い波動。
それは彼女の共鳴能力がもたらす、誰にも言えない秘密であり、小さな痛みだった。
「機械は正直だ。歯車は嘘をつかない」
父の口癖であり、彼女自身の信条。
人間は複雑で、時に裏切る。幼い頃の苦い記憶が、彼女の対人関係への苦手意識の根底にある。
けれど、機械は違う。その明確さが、彼女には救いだった。
だから、人間より機械と向き合う方が、心が安らぐ。
チリン、とドアベルが軽やかに鳴った。
ドアを開けると、腰の曲がった小柄な老婆、エルザ夫人が立っていた。近所の住人で、先日の精霊ランプの依頼主だ。
「やあ、アイリスちゃん。ランプ、ありがとうよ」
しわくちゃの笑顔。手には古風な携帯型ランプ。
「いえ……別に」
アイリスは目を伏せがちに、ぶっきらぼうに答える。会話は苦手だ。
緊張で、また額のゴーグルに指が伸びる。カチカチ。
「でもねぇ、前より光が温かくなった気がするんだよ」
エルザ夫人はランプを愛おしそうに見つめる。
「中の子が、ご機嫌になったみたいにさ」
(中の子……火の精霊のことか)
アイリスは少し驚いて顔を上げた。
修理の際、父が研究していた異端の「共感調律」を少しだけ試したのだ。ギルド標準の「制御調律」とは違う方法。
まさか、普通の利用者に違いが分かるとは。
「……そうかも、しれませんね」
アイリスは俯き、曖昧に答える。以前なら「気のせいだ」と突っぱねていたかもしれないが、老婆の純粋な言葉に、少しだけ心が動いた。
「古いランプですから…」
それでも、自分の能力や父の研究について話すことはできない。
「ふふ、やっぱりね」
老婆は満足そうに頷き、小さな紙包みを差し出す。
「お礼のクッキーだよ。よかったら」
「あ……どうも」
戸惑いながら受け取る。ずっしりと重く、温かい。
バターと砂糖の甘い匂いが、工房の油と金属の匂いの中で、ふわりと優しく香る。
不器用な仕事が、誰かの喜びにつながる。
それは、人との間に壁を作りがちな彼女の心に、小さな灯りをともす瞬間だった。
エルザ夫人が帰ると、工房は再び静寂に包まれた。
クッキーの包みを大事にテーブルに置き、窓の外を見る。
霧雨は止んでいたが、空はまだ重く垂れ込めている。
精霊ランプが、夕暮れの気配の中、いつもより強く、どこか物悲しく輝いている。
父の研究、父の死の真相、自分の力。
考えなければならないことは多い。
でも、今は疲れた。少しだけ休もう。
父の椅子に腰を下ろし、革のひんやりとした感触に安堵のため息をつこうとした、まさにその時。
ガラン、ガラン……!!
工房のドアベルが、先程とは比べ物にならないほど重々しく、けたたましく鳴り響いた。
鋼鉄の拳で扉を乱暴に叩きつけるような、無遠慮で、明確な意志を持った音。
空気が一変する。
工房の穏やかな気配が、冷たい金属に触れたように凍りついた。
アイリスの背筋を、鋭い悪寒が駆け上る。鳥肌が立つ。
ドアの向こうの存在は、普通の客ではない。
それは、扉越しにひしひしと伝わる、異質で、冷徹で、そして何か決定的なもの――避けられない運命――をもたらそうとする、強い気配だった。
アイリスは息を呑み、ゆっくりと立ち上がった。
警戒心を最大限に高め、重々しく鳴り続けるベルの音の主が待つ、工房のドアの方へと、静かに振り返った。
心臓が、早鐘を打っている。
壊れる寸前の、噛み合わせの悪い歯車のように、不規則なリズムを刻み始めていた。
アイリスの日常と、彼女を取り巻く世界の雰囲気が少しでも伝わったでしょうか。
よろしければ、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
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