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『ある経済評論家』

作者: 小川敦人


『ある経済評論家』


世の中が不安定になればなるほど、彼の言葉は光を放った。名を知られることを嫌い、ただ「ある経済評論家」とだけ呼ばれた彼は、テレビにも出なければ講演もしない。

ただ、新聞の片隅に掲載される彼のコラムだけが、世の中の本質を鋭く射抜いていた。

だが、彼が本当に世に知られるきっかけとなったのは、日本経済が絶頂を迎えていた1990年初頭のことだった。

その年の初め、彼はある金融専門誌に寄稿した。

「この国の繁栄は幻想に過ぎない。異常な株価と地価の高騰は、実体経済の裏付けを持たない砂上の楼閣だ。投資家の楽観は無邪気すぎる。近い将来、日本経済は急転直下の崩壊を迎えることになるだう。」

当時の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされ、誰もがこの繁栄が永遠に続くと信じていた。

そんな時代に、この論考は異端とされた。評論家やエコノミストの多くが彼を嘲笑し、「悲観主義者の戯言」と切り捨てた。

だが、彼の言葉が現実になったのは、それから一年も経たぬうちだった。

日経平均株価は暴落し、狂乱の不動産市場も崩壊。銀行は不良債権を抱え、日本経済は長い停滞の時代へと突入した。

彼の警鐘を軽視した者たちは次々と市場から姿を消し、皮肉なことに、彼の名は一気に広まることとなった。


ある日、彼の元に一通のメールが届いた。

「あなたの分析は正しかった。しかし、それだけでは人々は動かない。世界を変える気はないのですか?」

彼は苦笑した。世界を変える? そんなものは、政治家や資本家の役割だ。自分の仕事は、ただ事実を淡々と分析し、読者に現実を突きつけること。

しかし、ふと彼は思った。このメールの送り主は、なぜそんなことを聞くのだろう?

彼は調査を始めた。そして驚くべき事実を知る。送り主は、国際的な金融機関のアナリストだった。

彼のコラムをもとに、ある企業が大規模な投資戦略を見直し、数十億の損失を回避したというのだ。

「……そんなつもりはなかったのだが」

だが、それは単なる偶然ではない。彼の言葉は、すでに多くの人間の意思決定に影響を与えていたのだ。

彼は一つ決意した。これまでのように「傍観者」でいることをやめ、もう少し踏み込んでみるか、と。

翌週、新聞にはこれまでとは少し違う論調の記事が掲載された。

—「今こそ動くときである。」

彼の言葉は、再び社会を静かに揺るがし始めていた。


彼の風貌は決して美男とは程遠かった。眼鏡の奥に鋭く細い目元は眠れぬ夜を幾度も過ごしたことを物語り、頬はややこけ、髪は乱れがちだった。

高級スーツを着こなす経済人とは違い、彼の装いは質素そのもの。ネクタイを締めることもなく、古びたジャケットに皺の寄ったシャツ。

だが、その姿を見た誰もが感じるものがあった。

それは、確固たる理論の裏付けが、彼の風貌にまで刻まれているということだった。

彼は数字を語るのではなく、数字の向こう側を語ることができる人物だった。

市場の動向や経済指標をただ並べるのではなく、そこに潜む人間の心理、集団の狂気、そして歴史の教訓を読み解いてみせた。

バブルの崩壊を予言した彼の記事は、もはや過去のものではない。人々は彼の次の言葉を待ち、メディアは彼の名を求めた。

ある晩、彼の元に一人の記者が訪ねてきた。

「先生は、次に何が起こると考えていますか?」

彼は薄く笑った。

「歴史は繰り返す。人はいつの時代も、経済に夢を託し、過ちを繰り返すものだ。」

「では、またバブルが来ると?」

彼は少しだけ間を置いて答えた。


それから35年の月日が経った。

世の中は、大きく変貌した。

ネット社会の発展は、かつての経済構造を一変させた。情報は瞬時に拡散し、仮想通貨や投機的ビジネスが横行。

堅実な労働よりも、一夜にして巨万の富を得ることを夢見る者が増えた。そして、その影で貧富の差はとんでもなく広がっていた。

彼は静かに新聞を畳んだ。紙媒体の衰退により、彼のコラムを掲載していた新聞はすでに消え去っている。だが、彼の言葉を求める者はまだいた。

「いまこそ、『経世済民』の基本に戻るべき時だ。」

彼は自らの古びた手帳を開き、万年筆を走らせる。時代がどう変わろうとも、経済の本質は変わらない。金は手段であって目的ではないはずだ。

だが、いまの社会はそれを見失い、幻想の上に成り立っている。

彼の言葉を発信する場は、もはや新聞ではなかった。SNSを通じ、動画を通じ、彼のメッセージは新たな世代へと広がっていく。

そして再び、彼の言葉が世界を揺るがし始めていた。


そんな矢先、彼は癌に侵された。

余命1年。

医師は淡々と告げた。「来年の桜は見られないでしょう」と。

彼は静かに頷いた。驚きも、悲しみもなかった。死は誰にでも訪れる。問題は、その時までに何を成すかだった。

彼は決断した。全ての財産を処分し、都会を捨て、田舎に移り住んだ。自給自足の生活を始めるためだった。

「経世済民の本質は、結局ここにあるのではないか?」

土地を耕し、簡素な家を建てた。食事は最低限。生きるために必要な分だけを口に運び、睡眠も削った。だが、彼の手は止まらなかった。

壮絶な執筆活動が始まった。

彼はかつての評論家としてではなく、時代の証人として書き続けた。社会の変貌、経済の歪み、人間の欲望と愚かさ、そして希望。

そのペンは鋭く、時には温かく、人々の心を打った。

一年で35冊——かつてないペースで書籍を世に送り出した。

そのどれもが、経済学のみならず、哲学、倫理、歴史を含んだ深遠な内容だった。読者は驚嘆した。

彼の言葉は、単なる経済の分析ではなく、生き方そのものを問うものへと昇華していた。

時代が変わろうとも、経済がどのように歪もうとも、人が生きる意味は変わらない。彼の書は、その真理を伝えていた。

やがて、彼の体は限界を迎えた。だが、最後の一冊を書き上げるまで、彼は倒れなかった。

その書は、後世に貴重な遺産として残り、時代を超えて読み継がれることとなった。


そして、いよいよその日が来た。

彼は体を起こし、窓の外を見た。まだ冬の寒さが残る空気の中、桜のつぼみが膨らみ始めているのが見えた。

間に合わなかったか—そう思いながら、彼はゆっくりと息を吸った。

今日は最後の仕事が残っていた。

彼はラジオのパーソナリティとしてリモート出演することになっていた。

声を振り絞るような状態だったが、これが自分にとって最後の発信となるのなら、どうしても伝えたいことがあった。

「さて……今日が私の最後の放送になるだろう。」

静かな声が電波に乗る。いつも以上に、多くのリスナーが耳を傾けていた。

「話が飛ぶが、先日、総理が『人生を楽しむ』という演説をした。それが世間に叩かれているようだね。」

ラジオの向こうで、パーソナリティが相槌を打つ。

「私も最初は思ったよ。『何を言っているんだ、この総理は』とね。でも、よくよく考えてみると、案外、真理かもしれないと思ったんだ。」

彼は一度咳払いをし、少し息を整えた。

「今の世の中は、誰かを袋叩きにして目立つことが横行している。SNSやメディアでは、一人の失言、一つの過ちを捉えて、皆が一斉に攻撃する。

まるで、それが正義であるかのように。でもね、人は誰かを袋叩きにするために生まれてきたわけじゃない。」

彼の声は、深く静かに響いた。

「社会を正しくするために批判は必要だ。でも、正しさという名のもとに、他人を傷つけることが目的になってはいけない。」

彼は、ふっと笑った。

「私は経済評論家だった。『経世済民』のために働いてきた。でも、最後に気づいたことがある。」

少しの間を置いて、彼は続けた。

「エンターテインメントは、ある意味、何も生まないかもしれない。でも、人を楽しませ、笑顔にする。

これは、人生においてとても大切なことだと気づいたんだ。」

スタジオのスタッフも、リスナーも、静かに聞き入っていた。

「楽しむことを否定してしまったら、人生は何のためにあるのか? 私はもうすぐ、この世を去る。でも、最後に言いたい。生きているうちは、楽しむことを忘れないでほしい。」

彼の声は、静かに、しかし確かに人々の心に刻まれた。

「では、これで。」

それが彼の最後の言葉だった。

放送が終わった瞬間、全国のリスナーから感動の声が寄せられた。SNSは彼の言葉で埋め尽くされ、新聞やニュースでも取り上げられた。

彼の最後のメッセージは、経済の枠を超えて、人々の生き方そのものに影響を与えたのだった。

翌朝、彼は静かに息を引き取った。

そして、その春、桜が満開になった時、人々は彼の言葉を思い出しながら、その美しさを楽しむことの大切さを噛み締めていた。




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