後編
「ルーファス様。旦那様からご連絡がございました。だいぶ体調が良くなったので、一度本邸へ顔を出されるそうです」
「……そうか。それは良かった」
ちっともよろしくない表情のルーファスが答えた。
執務机の横には書類が山のように積まれている。既に期限を一ヶ月近く過ぎているものもあった。
「何でこんなに仕事が多いんだ……!」
そう愚痴りつつ、彼にも理由は分かっている。今までは父親が、父親が倒れてからはアデラインが執務の大半を担っていたからである。
アシュバートン侯爵がこの状況を見れば雷が落ちるだろう。それに、アデラインは父のお気に入りだ。彼女を追い出したことを知れば、怒りに火を注ぐであろうことは想像に難くない。
心配事はさらにある。ここのところ財政状況が良くないのだ。
結婚の準備と称して、ルーファスとクリスティーナが散々豪遊したからである。アデラインがいれば浪費に苦言を呈してただろうが、うるさい父もアデラインもいない今、二人はやりたい放題だった。収入より出費の方が上回っていたことに気づいたときには、侯爵家の財政は逼迫していた。
(それもこれも、アデラインのせいだ……)
アデラインが大人しく侯爵家に残れば、執務が溜まることもなかったし、父に怒られる心配もなかったはずだ。商人なんかに使われて貴族としての矜持はないのか、あの女は。
自分の愚かさを棚に上げ、ルーファスは心の中で元婚約者を罵った。
「やはりアデラインを呼び戻そう」
あいつは今の生活が気に入ってると言っていたが、どうせ強がりだろう。平民として地に這いつくばった生活をするより、侯爵家にいる方が良いに決まっている。
そうだ。仕事が溜まっているのも、財政難も全部あの女のせいにしよう。そうすれば父の怒りはアデラインへ向くはずだ。
素直に戻ってきたら、妾くらいにはしてやってもいい。あんな地味な女を抱くのは気が進まないが、一晩だけ可愛がってやれば逃げる気も無くすだろう。
端から見れば粗だらけの計画だが、上手くいくと信じているルーファスはニヤニヤとした笑みを浮かべた。
◆ ◆
「何これ!?ふざけないで!」
アシュバートン侯爵家から届いた手紙を、アデラインは床へ叩きつけた。
そこにはアデラインに今すぐ侯爵家へ戻ること、そうすれば第二夫人にしてやってもよいこと。そしてアデラインが今まで商会で稼いだ金は持参金として持ってくるようにと書いてあった。
「戻ってこいというのはまだ分かるとして。最後の条件はなんだ?アシュバートン侯爵家は最近金払いが良くないと聞いているが……。もしや相当金に困っているのか?」
「侯爵家の収入からすれば、私のお給料なんて雀の涙ですよ。思うに、私を一文無しにして置きたいんじゃないでしょうか。お金を持っていたら逃げ出し易いですから」
「ふうむ……」
スタンリーはしばらく考え込んだ後、アデラインの顔をじっと見た。
「念のため聞くが。アデラインはアシュバートン侯爵令息の元へ戻りたいと思っているのか?」
「いいえ、全く」
これっぽっちも思っていませんという答えを聞いたスタンリーがホッとしたような表情を浮かべた。その様子を、クライドが生温かい視線で眺めている。
「ならば、俺から返事を出しておこう」
「いえ、私事で支部長のお手を煩わせるわけには」
「部下を守るのも、上に立つ者の務めだ。いいから任せておきなさい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
「お前んとこ、アシュバートン侯爵家に何かやらかしたのか?」
ふらりとハズウェル商会を訪れたダリルが、単刀直入に切り込んできた。彼はちょくちょくここにやってきて、スタンリーやクライドと茶飲み話をしていく。商会ギルド長と商会長を兼任する彼が暇なはずはないと思っていたが、商会の方はほとんど息子に任せているらしい。ダリル自身は見回りという体でギルド配下の商会を訪れて、情報を仕入れているのだ。
「あー。まあ、色々と」
「商会ギルドに、ハズウェル商会との取引を切るようにって言ってきたぜ。断っておいたけどな」
「それは……申し訳有りません」
「構わんさ。お貴族様だって、おれたち商人がいなくちゃ生活できないんだからな!」
ガハハと笑ってダリルは帰って行った。
貴族といえども、食料や日用品は商人から購入しなければならない。それに、自領の産物の売り買いだって、商人がいなけりゃ出来ないのだ。
そこはアシュバートン侯爵令息も理解しているだろう。
そう考えて安心していたのも束の間。
複数の下位貴族から、突然取引を打ち切るとの連絡がきた。どこもアシュバートン侯爵家の派閥の貴族だ。ルーファスが手を回したのだ。
さらには資材を購入していた幾つかの商会からも「申し訳ないが、取引は今回で最後にしてくれ」と言われた。商会ギルド全体ならともかく、末端の商会はそこまで強気には出られず、ハズウェル商会とのつきあいを切る方を選んだのである。
「これ以上、迷惑をお掛けするわけにはいきません。私、ここを辞めます」
意を決したアデラインはスタンリーに申し出た。支部長は感情の読めない表情で彼女を見据えている。
「辞めてどこへ行くんだ?」
「決めていませんが……。他の国へ行って見るのもいいかと思っています」
「女ひとりで見知らぬ土地へ行って、まともに生きていけると思うのなら見込みが甘すぎる。それに、侯爵令息の目的は君を連れ戻すことだ。君を追い出したと知った彼が、うちの商会への攻撃を緩めると思うかい?」
「っ……!」
スタンリーの言う事は正しい。それは分かってはいるけれど、ではどうしろと言うのか。アデラインは右手をきつく握りしめた。
(私は、ルーファス様の元へ戻るしかないというの?そうして彼らに見下されながら一生こき使われろと……?)
「実は、この支部を畳もうと考えているんだ」
「えっ!?」
全く予期しない回答に、アデラインは一瞬固まってしまった。
「だ、だめですよそんな!折角ここまで大きくした支部でしょう?私なんかのために……!」
「いや、君のためだけじゃないよ。実は、春からこのゼイレ王国の関税が上がるという情報を得ているんだ」
ハズウェル商会はクオヴィレスにある本部を通して、他国から輸入した珍しい資材を使った商品を売りとしている。国内の資材で賄っている他の商会と違い、関税の値上げは利益にかなりの打撃を与える。
「もはやこの国に支部を置く理由は無いというのが、商会上層部の見解だ。それと、祖父がそろそろ引退したいと言っているらしくてね」
現商会長であるスタンリーの祖父が引退すれば、父ウォルターが商会長となる。そうなれば、当然次の本部長はスタンリーだ。
「前々から、本部へ戻ってこいと父に言われていたんだよ。本部長へ就任するまでに、向こうで父の仕事を手伝いつつ地場を固めるつもりだ」
「それでは、ここに勤めている者はどうなるのでしょう?」
「本部からの商品輸入部門だけは残すから、そこへ勤めるか、俺に付いて本部へ来るか選んでもらう。ゼイレに残る希望者が多いようなら、他の商会へ紹介状を書くよ。……それでね、アデライン。君はどうする?」
そんなこと、考えるまでもない。
「私はスタンリーさんについて行きたいです!」
◆ ◆
「何だって?ハズウェル商会が店を畳む?」
「そうなんですよ、ルーファス様。レッツェル商会に吸収合併という形で、一部門だけ残していくそうですが」
出入りの商人から噂を聞いたルーファスは驚いた。
これだけ圧力をかければ、スタンリーがアデラインを放り出すと思っていたのだ。まさか店を放り出して逃げるとは想定外である。
「従業員はどうするんだ?」
「すでに何人かは他の商会へ移ってますね。希望者は本部へ連れて行くそうです」
ということは、アデラインもそこへついて行く可能性が高い。
「デリック!領地にいる私兵に通達だ。街道を見張らせろ。ハズウェル商会の者は一人たりとも通すな!」
ハズウェル商会の本部は西隣のクォビレス共和国にあるらしい。ならば移動の際は、この王都から西へ向かう大街道を使用するはずだ。単身ならば他の抜け道を使うことも考えられるが、荷物を抱えての移動ならば大街道を使うに違いない。
王都の西は我がアシュバートン侯爵家の領地だ。領地内に私兵を動かしても何ら問題はない。
(……逃がすものか。平民上がりのくせに、何度も逆らいやがって。捕らえたらお仕置きが必要だな)
◆ ◆
川面を渡る風がアデラインの頬を撫でる。ハズウェル商会の一行は、荷物と共に蒸気船で川を下っていた。
(ルーファス様は今頃、地団太を踏んでいるでしょうね)
西へと向かう街道が見張られているという情報を商人仲間から聞いたスタンリーは、王都から北へ移動し、そこから国境を越えて川を下るルートを選んだ。
王都の北はオールディス侯爵家の領地である。ルーファスといえども手は出せない。
勿論、オールディス侯爵夫人には話を通してある。彼女は「アシュバートンなんかに手出しはさせないわよ」と上機嫌だった。
アシュバートン家に嫌がらせ出来るのが、嬉しくて仕方ないらしい。
もっとも、その礼として本部から新商品が持ち込まれた際は最初に夫人へ見せる事、という約束は取り付けられてしまったが。
商会としても損ではないのでいいだろう。
副支部長のクライドは王都へ残った。残った従業員を纏められるのは彼しかいないからだ。
「はあ~気持ちいい!私、船に乗ったの初めてなんです」
「そうか」
はしゃぐアデラインを、スタンリーは眩しいものでも見たかのように目を細めて眺めていた。
「寂しくはないのか?君はゼイレで生まれ育ったんだ。思い入れもあるだろう」
「母と共に過ごした土地を離れる寂しさは、少しあります。でも、あのままだと死ぬまでルーファス様にこき使われそうですから。それに、見たことのない土地に行くのって、すごくワクワクするんです!だから、スタンリーさん。私を連れてきて下さって、ありがとうございました」
「……俺も。君が共に来てくれて嬉しい」
彼の碧色の目がアデラインを見つめている。一瞬視線が絡み合ったが、スタンリーは目を逸らしてしまった。
「さて、ちょっと船倉に行ってみるか。荷が崩れていないか心配だ」
「あ、私もお手伝いします!」
アデラインはとても気分が高揚していることに気付いた。何だか動悸もする。その意味を彼女が知るのは、もう少し先のことだ。