八百八の狸組手
朝起きると、やけに庭がうるさかった。母があたふたしていたので、眠い目を擦りながら庭に出てみると、そこには大量の狸たちがうじゃうじゃと母に群がっていた。
母は困り眉で雨音を抱き抱えた。雨音は狸たちを怖がっているようで、大きな声で泣き始めた。すると母が慌てふためいて家の中に戻ったので、庭には僕と大勢の狸たちだけが取り残された。
「お主が春水か?儂は茶釜と呼ばれているものじゃ。とりあえず、場所でも移すかの?」
そう言って、たくさんの狸をかき分けて、一匹の狸が僕に話しかけてきた。その狸は胴体が茶釜でできており、その茶釜から五体が生えているような、そんな奇妙な風体をしていた。
このまま庭に大所帯を置いても置けないので、僕はその茶釜と名乗る狸について行った。茶釜はずんずんと村とは反対方向であり、家の近くの雑木林の方へと進んで行った。
「この辺でいいじゃろ。ほれ刑部、あとはお主が説明せい。」
「はぁい。ご主人様、今日からみっちりしごいてもらってな?こないだみたいなもののけがいつ襲ってくるか分からへんやろ?せやからぁ、特訓でもしてもらお思って。」
どこからともなくひょっこり現れた刑部は、急にそんな突拍子もないことを言い出した。そのあまりに急な申し出に若干の動揺はありつつも、これも刑部なりの優しさなのだろうかと思うと、とりあえず話だけでも聞いてみようと言う気持ちになった。
「ちょっと急すぎない?まあ...こないだみたいにまた死にかけるのも嫌だし、大事ではある...のかな?」
刑部はうるうるとした目で僕に縋り付き、懸命に修行することの利点を伝えてきた。最終的に、ご主人様が心配、と泣きつかれてどうも断れなかったので、茶釜との特訓を受けることにした。
「ふむ、ではまず死ぬことから始めるとするか。お前たち、本気でかかれ。」
刹那、大勢の狸達が仮面をつけた影へと変成し、多様な武器を持って突撃してきた。間違いない、金時と戦ったあの時の影たちだ。
あの影たちの得意とするところは連携の巧みさだ。囲まれれば為す術なく叩かれる。そう思い、一旦は囲まれないように全速で後方へと走り逃げる。すると弓での追撃が雨のように降りかかったので、足への致命的な負傷は避けながら、必死で逃亡を図る。
「はあっ、はっ、はっ、はぁっ。急に殺そうとしてくるの!ほんとに意味がわからないんだけど....っ!!」
息を切らしながら走り逃げていると、今度は槍までもが飛んできた。その槍を反射的に避け、障害物の多い雑木林を上手く使ってなんとか防ぐ。
「東の豊穣、十四番『覆隅』」
刑部の声が響くとそこで、何も無い空間に思いっきり頭をぶつけて転んでしまった。急いで起き上がって空を確認してみるも、やっぱりそこには何も無い。ただし、ぺたぺた宙に触れることが出来た。何も無いのではなく、見えない壁のようなものが僕を逃がさないように配置されていたのだ。
「ごめんなぁ。でもこれも修行のうち、ちょこっと我慢してな?」
津波のように押し寄せる凶刃たちの群れが、もうすぐそこまで迫っていた。回避は不可能、ならばせめて被害を最小限に抑えようと体を捻らせる。しかし、そう易々と攻撃をいなせるような甘さを、彼らは持ち合わせていなかった。
槍で貫くことで動きを制限し、可動域が狭くなった全身をくまなく矢が塗りつぶす。全身から力が抜けていき、槍が抜かれたことで糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
しかし、狸たちは死をすら許さない。全身が暖かな感覚に包まれ、傷という傷が一気に霧散する。そうするとまた、幾重もの刃が体へと沈みこまされる。切っては治り、切っては治りの繰り返し。出血と回復の連続で、体が熱された鉄のように熱い。
(これが死?いや生?いやどっちでもいい。嫌だ、嫌だ。これ以上熱いのは嫌だ。どうやったら助かる?どうやれば生き延びられる?外に助けは無い。なら内側、自分のさらに奥深く。もっと、もっともっともっと。)
痛みと熱さの中で、自分の深層へと意識を沈める。熱を帯びた全身の中で、唯一冷たさを孕んだ何かに触れる。それは、自分であって自分ではないものだと、感覚的に理解した。
(戦いなんて痛くて苦しいだけ。積極的に避けるべきもの。そうだ、戦いなんてやらない方がいいのに。....たのしい?脳みそがパチパチする。もうどこも痛くない!苦しくない!あぁ。なんで、なんで僕はこんなに!今楽しんでるんだ!!)
まとまりのないぐちゃぐちゃな脳みそが叫び出す。何にも縛られないもの。まつろわぬもの。すなわち自分。圧倒的な力と他者を顧みない自己が産声を上げる。
刃は、僕を避けるようにして宙に向かった。違う。あまりに自然で見間違えただけで、僕が刃を避けたんだ。それから、雨よりも密度の高い矢の豪雨をぬるりと抜ける。影たちは驚いているようだったが、そんなことはどうでも良かった。
次第に、いつもより頭が晴れやかになっていき、息をするように攻撃の軌跡を先見する。余裕ができたからか、影たちの持っていた槍を一本奪い取り、攻勢に転ずる。四方はすでに囲まれているため、常時全体を警戒しつつ構えをとる。槍なんて初めて手に取ったはずなのに、なぜか長年慣れ親しんだ武器のようによく馴染む。
(あの盤面から合気か!あのボン、器用なもんじゃのう…。ただ、それだけで切り抜けられる程、狸は甘くはないぞい。っ?!)
何やら遠くからにやにやと高みの見物を決め込んでいる茶釜へ槍を投擲し、近くの敵には素手で対応する。しばらく凌いでいると、ふとあることに気づいた。どれだけ緻密な連携攻撃といえども、同士討ちを避けるために生み出さざるを得ない間の時間が存在する。その間わずか一秒。その一瞬を、決して見逃さないように気を研ぎ澄ませる。
そして、その時がやってきた。全ての武器がやや上を向き、矢の攻撃が最も弱まるタイミング。体勢と重心を低く構え、猪のように真っ直ぐ突撃する。槍の狸たちはその一秒分対応が遅れ、四方の陣はあっけなく突破される。陣を抜ければあとは近接を警戒できていない弓部隊。そんな弓部隊たちもそれなりに近接で粘りはしていたが、所詮は足掻きに過ぎない。瞬時に突破を許してしまう。
そうして茶釜がいる本丸まで駆け抜けると、そこには護衛としてまだ残されていた刀部隊が美しい陣形を描いて待ち構えていた。
「お前さんら、下がっていいぞ。儂が直々に相手をしてみたくなったわい。」
刀部隊の陣形がふたつに別れ、その間から二メートル程まで肥大化した茶釜が姿を現した。茶釜は相変わらずにやけ面を崩さずに、なんの構えもない無防備な状態で佇んでいた。
(油断...ではなさそう。でもかと言って後手に回るのも避けたい。つまり、真っ向勝負のド突き合い!)
異常なほどに上がった口角は、元の形を忘れるほどにがっちり固定されていた。そんな僕を見て、茶釜も僕に合わせるように獰猛な笑みを浮かべた。
瞬きひとつが命取りになるような刹那の削り合いの最中、気がつくと僕は遠くに吹き飛ばされており、ものすごい勢いで何本もの木を貫通してようやく地面への再会を果たした。
反応すらできないほど早い攻撃が、僕を吹き飛ばしたのだ。何が起きたのかを把握できるようになった頃、隕石のように空から茶釜が降ってきた。大地が大きく揺れ、砂埃が大量に舞う。
「結局は威勢だけじゃのぅ、あの程度の拳も避けられんとは...。」
そんな言葉に抗議するように、震える足を殴りつけて立ち上がる。痛みは感じずとも、全身が言うことを聞かない。視界は霞み、両腕は思うように動かすことができず、足は悲鳴を上げている。気力でなんとか立ち上がれただけで、いつ倒れてもおかしくない状態だ。それでも、まだやれる。そう思った。
「抜かせよ茶釜。ようやく温まってきたところなんだ。まだ殺ろう。」
左足を犠牲にして、思いっきり踏み込む。今ので骨は折れただろうが、気にせず茶釜へと突っ込んでいく。そうして射程距離に入り、胴体の茶釜部分に力いっぱい乱打をぶち込む。
「無駄じゃよ。儂の腹はどんな鉄よりも硬く、そして強い。お前さんの拳が砕ける方が先じゃろうて。」
(偉そうなことは言ったが、結構ギリギリじゃの。このボン、あんな細腕のどこにあれだけの膂力が眠っとるんじゃ...。)
鐘のような音が木霊し続ける。実際、茶釜の腹はどれだけ殴り続けても凹みすらしなかった。拳を真っ赤に染めながら、どうすれば腹を粉砕できるかを考える。
(腹以外を狙うか?防御されるのがオチだろうな。やはり反撃なく殴らせてもらえるのは腹だけか。どうにかして砕く方法は...。待てよ、なんで砕く必要があるんだ?)
「色々考えてもらってるところ悪いんじゃけどのう、術式絡みで茶釜は砕けんよ。もちろん、今は教えないけどのぅ。」
「知らないよ。砕く気も失せたしね。」
乱打を一点に集中させ、穿つように中心を捉える。初めは涼しい顔をしていた茶釜が、どんどんと煮えるような焦りに表情を染めた。
「打撃の威力は殺せても、衝撃までは殺せないだろ。ほら、さっきのお礼といこうか!」
「舐めるなよボン!お前さん程度の攻撃なぞ受け切ることは容易い!来い!その自信ごと打ち砕いてやるわい!」
赤の中に、白い骨が少し顔を出している拳をもう一度握り直し、全身全霊をこの一撃に込める。そうして構えた時、確信した。これが、僕の今持ちえる中で最上の攻撃。これ以上ない至高の拳であると。
一方、茶釜も脂汗を額に滲ませている。こちらほどとは言わずとも、やはりダメージは確実に受けているようだ。この一撃を当てれば倒せる。確信に確信を重ね、勝利を掴み取る拳を茶釜へと向け放った。
そんな約束されたとどめとなるべきだった攻撃は、あまりにあっけなく空を切った。
「甘いわ。今まで避け無かったことを逆に感謝して欲しいぐらいじゃよ。」
空振った力の先が向かうのは、やはり地面だった。そうして僕は、茶釜に敗北した。最後の最後に、盛大な肩透かしを喰らって。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「うっ、気持ち悪い...。吐きそうじゃ...。」
紛うことなき激戦だった。本来であれば、最初の一撃で決着をつけ、そのまま目覚めかけた術式についての解説と使い方を指導する手筈だった。それなのに、初撃を耐えきり、あまつさえ攻勢に出てくるなぞ、考えてもみなかった。
(最後の一撃...、あれは儂でさえ喰らえばタダでは済まんじゃろうなぁ...。)
「茶釜ぁ、結構危なかったんちゃうん〜?どう?ご主人様、強いやろ?」
刑部はボンを抱き寄せて癒しの技をかけつつ、ニマニマ気味の悪い笑顔で擦り寄ってきた。こういうイタズラっぽい性格だけは、昔から変わらんなぁとしみじみ思う。あんな小さかった子供が、今やここまで育ったのか。
「強い...と言うより獰猛じゃろ?なんじゃいあの顔、思わず儂も昔を思い出してしもうたわ!」
それを聞いた刑部は、満足そうにボンの頬を撫ぜた。
その目には、愛おしさやらやるせなさやらが渦巻いているように見えた。
「のう刑部、人間の子供なんぞ拾って神まで降ろして、一体何がしたいんじゃ?まさかとは思うが、あのっ!」
そこまで言って、急に遮られてしまった。刑部の白い人差し指が、彼女の瑞々しい唇にそっと触れる。「しぃ〜。」と言って有無を言わせないその仕草が、あまりにあの狐に似て艶かしかった。
それは暗に、儂の言いたいことが正解だと告げていた。ただ、それ以上追求することは出来なかった。彼女もまた、やはり忘れることなどできなかったのだ。人間への恨みや憎しみ、肉親を奪われ、一人残されてしまった後悔を。そして、
「どこで何をしてはるんやろねぇ、お姉ちゃんは。」
何より愛した、狐の姉のことを。
今後出てくる設定ですが、術式というのはもののけや神が持つ固有の能力で、そのほかの力は割と普遍的なものです。
術式は基本人間は使うことができません。そのほかの力はごく稀に使える人間がいる〜かも、くらいです。