狸の密談
はじめてのおつかいは、壮絶な道のりを経てやっと完了された。どうやら猩々の血界というものは時間にまで作用を及ぼしていたようで、血界の中での時間経過は、おおよそ外で流れている時間の半分にも満たなかった。
そんなわけで、血界を抜けた後に刑部に治療をしてもらい、しばらく休んでから隣の村へ向かった。
心臓がまだ音を立てて鳴っている。今回の戦い、もし刑部がいなかったらどうなっていただろうか。恐らく初撃で目を潰され、訳の分からないまま殺されていただろう。
今になって、恐ろしさが背筋を襲ってきた。ただ、それと同時に不思議な高揚感もあった。恐怖と愉悦。二律背反であり、決して顔を合わせるはずのない感情が、僕の中で手と手を取り合っている。
戦いの最中では痛みを忘れる。対等な戦い肉痛は無いのだ。全てが終わったあとでのみ、痛みや恐怖、後悔といった感情が顔を出す。戦いにおいて、苦しみは勝者に課せられた呪いのようなものだ。
呪いが積み重なり、不思議な高揚と溶け合う事で思考が鈍り、いつか苦しみさえもを取り去っていく。命のやり取りは、いつだって最高で最悪だ。そんなことを、一匹の猿の死を見て想う。
「ご主人様ぁ?うちに言うことあらへんの?ほらほら、なぁんかあるんちゃう?」
目の前の少女は、僕の悩みなんか吹き飛ばしてしまうほど可憐にぴょこぴょこ動き回り、なにか物欲しそうにこちらに目線を向けていた。
「ほんとに助かったよ。ありがとう刑部〜!」
ぎゅっと、力いっぱい抱きしめてみた。刑部は思ってもいなかったのか、顔を真っ赤にして照れている。追撃と言わんばかりに、頭も撫でた。刑部の細くてサラサラな髪が心地よい。
今は身長が同じくらいなので、顔と顔の距離が近く、ほっぺたが常に触れ合っている。もちもちの感触が頬に伝っているのを堪能していると、刑部の目がぐるぐる回り出したので仕方なく離れることにした。
「ちょっ、ご主人様ぁ〜。急にデレデレされても困るわぁ...。まだ甘えんぼさんなんかいなぁ〜。」
フラフラと千鳥足になり、動揺したためかたぬき耳が頭から生えだし、ぺったり頭にくっついている。そしてそれに気づいてさらに頬を赤らめた刑部は、たぬき耳を両手で隠し、地面に塞ぎ込んでしまった。
「ここまで求めてないんに...。変なこと言うんやなかったわぁ...。」
「そんなとこにうずくまってないで!ほら行くよ刑部!ほんとに感謝してるし、お小遣いで一緒に食べるものでも買いに行こうよ。」
そうしてお使いを終えて、帰りに甘納豆を買って二人で分けた。刑部は美味しそうに甘納豆を頬張っていたが、その表情にはどこか影が差しているように虚ろなものがあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雑木林に入った時から違和感には気づいていた。血なまぐさい匂い、それにまだ成りたてではあるがもののけの気配がする。いい機会だと思った。
ご主人様はいつまで経っても神としての術式を引き出せていない。何かほかの神格に阻害されているとはいえ、そろそろ自らの能力を自覚してもいい頃だというのに。
そんな焦れったい思いを悟ったかのように、僥倖にも猿のもののけが現れた。これにご主人様をぶつけて、死なない程度に危機に陥らせれば目覚めるかもしれない。だがそんな期待は、あっけなく打ち破られた。
全くの予想外だった。まさかなんの術式も使わず、ただの人間がもののけを退治するなんて。以前から人間の割には考え方の方向性がこちらによっているとは感じていた。ただ、それも子供ゆえの無垢な残虐性や鞭が引き起こす、一時的ものだと思っていた。
あれは異常だ。自らを犠牲に敵を屠りに行く、まさに肉を切らせて骨を断つ。あんなのはもののけだってそうそういない。普通は痛みを恐れるからだ。誰だって痛いのは怖い、苦しいのは嫌だ。そんな人ともののけの共通項を、ご主人様は持ちえていない。
あれではまるで、生粋の神だ。常識の枠外にある、極めて合理的に物事を進める化け物だ。そう思い至ったところで、ようやく得心がいった。
あれは紛うことなき神だ。あの日の夜、悲願と引き換えに一人の人間を殺し、神へと変成させてしまったのだ。
育てなければ、誰にも殺されないように、決して悲願が成される前に死なないように。それがせめてもの、責任だと思ったから。私は旧知の知人を頼ることにした。
「お前さんが儂を呼ぶなど、長生きはするもんじゃのぉ。刑部。」
「頼みがあるんよぉ、ちょこぉっと人間の子供に手ほどきをな?まあ人間言うても、神様が混じってはるねんけど。」
「はっ、まだあの悪趣味な女の真似事などしておるのか。」
「嫌味なこと言わんといてよぉ。これは戒め、もう二度とあんなことは起こさないって決めたんや。」
口調も態度も、化粧さえ全てが作り物で借り物。そんな自分に吐き気をいつも覚えてる。そんな私を見透かすように、心底見下した風な態度で目の前の古狸は嘲る。
「ならよいがの。うむ、心得た。この茶釜が、そのボンに稽古をつけてやるとするわい。」
「ホンマに助かるわぁ。うちじゃどうも近接が苦手でな?こっちの狸も使ってええから、お願いな。」
あたりの茂みから、ぬっと影たちが現れる。夜の帳よりも黒い、墨のような影たちは茶釜へ向かっていっせいにお辞儀をした。そんな影たちを、茶釜は気の毒そうに眺めた。
「あの隠神刑部が狐の真似事とは、お前のお父上も報われないの。」
「ゴタゴタ抜かすな老いぼれ。また前みたいに転がされたいの?」
貼り付けたような笑顔が消え、重々しい瘴気にも似た雰囲気が夜を覆う。茶釜はそれをのらりくらりと交わしつつも、冷や汗をかきながらにやにや笑っている。
「おぉお...怖い怖い。今度は殺されんうちに退散するとするかの...。」
空気が凍り、周りの影たちがいっせいに霧散して小さな狸に姿を変える。畏怖や尊敬の目線を携える狸たちは、ありがたがるように私にひれ伏した。私はそれを、素直に受けとっていいのか複雑な気持ちになりながら、再び笑顔を作る。
茶釜は暗闇に解け、静寂だけが残った。私は取っておいた一粒の甘納豆を手に取って、月に透かして覗いてみる。月明かりはやさしく、甘い光を注いだ。私の胸の中に、ほんの小さな影を落として。
今更ですが刑部
隠神刑部です
刑部は代々襲名性なので...狸のお姉さんには刑部とは別に本名が存在します。