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百鬼夜行と踊る神  作者: 蠣崎 湊太
青年編
70/235

朝日よ陰りを焼き尽くせ

 


「あ!時間!!かぐや、ちょっとこっち!」


「え?えっえっえ!急になんですか....!はぇ?きゃあああああああああああ!!!!!!!」


 急にお姫様抱っこをされたかと思いきや、私は輝く水面に向かって一気にダイブをしていた。浮遊感が全身を襲い、頬に溜まっていた涙が上へと飛んでいく。


 あまりの恐怖に目をつぶり、春水の首元に両腕を絡めてしまった。爽やかな風がサラリと髪を靡かせて、少し冷たい朝の香りを感じる。


 こんなにも新鮮な感覚は初めてで。だからつい、こっそり彼の表情を盗み見てしまう。朝日を貯めて光る睫毛に、少し赤らんだ頬。がっしりと私を支える両腕は硬く、頼りがいのある逞しい筋肉をしている。


 私は、胸からせり上がってくるこの気持ちをもう抑えることは出来なかった。資格とか、自分が汚れているだとか。そんなこと、どうだっていいって笑い飛ばせるくらい。


 私は、春水のことが好きになっていた。


 ここまで近くに抱き寄せられているのだ。心臓の音がもしかしたら聞こえてしまうかもしれない。それは少し恥ずかしいので、呼吸を最小限に抑えようと必死で息を飲む。


 当然しばらくすると我慢が出来なくなり、ぷはっと息を吸い込んで呼吸を整える。さらに激しくなった動悸がとくとくと鳴り響き、私からしたらうるさいくらいだった。


 翼をはためかせ、揺れ輝く水面の少し上を飛ぶ彼の真剣な表情から、私は目を離せなくなっていた。


 私は今この瞬間。絵画のような一時を、未来永劫忘れることは無いだろう。そのぐらい、美しい眺めだったのだ。彼の居る朝が、彼の居る時間が、彼の居る世界が。私には何より、あの朝日よりも輝いて見えたから。


「春水さ....。こほん。春水、ちょっとだけこっちを向いてもらってもいいですか?」


「どうしたの、かぐや?んむ?!」


 自分から相手の唇を求めたのは、初めてだった。春水は一瞬で顔を真っ赤に染め上げ、そのまま下降し湖の浅瀬へぼちゃんと二人で落ちてしまった。


「っぷ。あはは!あはははははは!!もうびしょ濡れです!春水、ここ、思ったより冷たいですね!」


「ほんとだよもう...。まったく...いつからそんなお転婆になったのさ。」


 春水は呆れたふうに言いながらも、その表情はにこやかだった。そうして春水は思い出したようにまた顔を赤くして、自分の唇をそっと撫でた。


 今なら、言える気がした。ずっと閉じこもっていた自分を、夜に雁字搦めで縛られていた私を、やっと解放できた今なら。きっと、きっと大丈夫だ。


「春水!私と、夫婦になってくれませんか?」


 とびっきりの、人生最大の笑顔で、私は春水に告白をした。春水は頭から湯気を出し、あの太陽より熱そうな顔で、恥ずかしそうに不慣れな手を伸ばして、こちらを抱きしめた。


「はい....。ふつつかものですが....。」


「なんで、私より恥ずかしがってるんですか!もう!早く行きますよ!時間、無いんでしょう?....いや、やっぱりもう少しだけ。このままでいさせてください。」


 それから少しの間、私たちは抱きしめ合った。そうして湖から上がる頃には、すっかり体が冷えきっていて、風邪をひきそうになってしまった。


 水気を含んだまま、岸へと上がって森に向かう。少し時間がなかったのと、私のわがままもあって、また春水にお姫様抱っこをしてもらった。


 泣き疲れたのか、それとも好きな人の腕の中で安心しきってしまったのか。私は段々とまぶたが重くなっていき、そのまま眠りに落ちてしまった。


 幸せな眠り。嫌いだった夜を見ないために目を閉じるのではなく、信頼の作用として瞳を閉じることが、嬉しくって嬉しくって。


 私は、祈ってしまったのです。


 できることなら、この太陽の下で死んでいきたいと。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「ゴホッゴホッ!うぅう....。危ない危ない。潜水の修行を積んでいなければ、とっくのとうに死んでしまっていたところですな。」


 湖から何とか生還し、遠くに飛んでいく一匹の鷹を見つめる。良かった。彼はあの哀れな少女を救えたのだ。拙僧はほっと胸を撫で下ろし、そうして駆け寄ってきた雑兵に応答した。


「道鏡どの?!かぐや様が行方不明でして....!一体何が?!」


「襲撃です。正体不明のもののけが、かぐや様を連れて南の方へ飛び去って行きました。あなた達は早く追いなさい!拙僧も後に続きますゆえ。」


「「はっ!」」


 春水が飛んで行った方とは真反対の方角を指さし、そう兵士たちに伝令を下す。この場では拙僧が第一権力者であり、そして第一責任者だ。もしこのまま京に戻れば、最低でも官位の降格は免れないだろう。


「まぁ、またやり直せばいいだけですね。はあ〜。一体、いつになったら帝になれることやら。」


 口ではそう零しつつも、心の中ではどこか満足していた。うら若き少年少女の行く先に、温かい朝陽のごとき輝きを見たからだ。


 拙僧は貧乏な寺に生まれ、それ故に清貧こそが尊いものだと教えられてきた。その教義を守り、山に籠ってひたすら仏道修行を収めるだけの日々。


 そんな日々が終わり、いざ人里に降りてみれば。清貧など、教義などはただの名目。飾りでしか無かった。


 裕福な寺や、豪華絢爛を極める金色の仏像。拙僧の知る正しき僧侶の在り方は、一片たりとも存在しなかった。


 高僧は政に執心し、俗僧は税金対策目的の僧侶とも呼べぬ粗末なものばかり。だったら、拙僧も少しくらい甘い汁を啜ったって良いでは無いか。欲を張っていいでは無いか。


 そうしてこの力を使い、ようやく法皇にまで上り詰め、時には次代の帝に推薦されたことさえあった。しかし、結局はそれも叶わず。拙僧は宙ぶらりんのまま、出世コースから外された。


 そうして貴族と僧侶の中間をさまよい続け、ひとつ分かったことがある。それは、力は腐敗を招くということだ。


 大きな力は金を呼ぶ。金を呼べば、人が群がり。人が群がれば、いつの間にかコネができる。そうやってぶくぶく膨れ上がった成功は、脂肪のように纏わりついて中々離れない。


 一つ二つならばいい。それが三つ四つとどんどん重なっていけば、人はそれを壊せなくなる。そうして雁字搦めになった体では、もはや目的と手段の区別もつけることはできない。


 なにか、なにか拙僧にもあったはずなのだ。権力を求める理由が、金を求めた理由が。


「もう、思い出してやることすら....。」


 目を細め、彼らの往く北を、ただじっと見つめ続ける。


 進むは茨の道。傷つくのが運命だとしても、彼らが歩みを止めることは、決してないだろう。少なくとも彼は、まだ自分の理由を理解している。


 好きな人たちみんなを守りたい。だから、零れ落ちてしまわないように守れるだけの強さが欲しい。


 この大空のように青く、あまりにも罪深いその背中に。拙僧は動かされてしまった。彼ならもしや、この罪過に満ちた奪い合いの世界を変えられるのではないかと。


「ああ。そうだ。拙僧も、守りたかったのだった。」


 記憶が埃を取り払い、色を取り戻す。まだ拙僧も少年で、山に籠っていた頃に出会ったもののけとの、許されない友情。どう足掻いても取り返すことの出来ない、永く淡いまぼろしのようだった日々。


「よかった。あなたのおかげで、ようやく思い出せた。」


 変えたかったんだ。もののけと人の対立を、いがみ合うことしかできない二つの世界を。


 帝となり、地位と金を得ることで全てをひっくり返したいと思っていた。そうすれば、彼が人里に出ても上手くいくと、そう信じて。


 だけどきっと、もう遅すぎる。だからせめて、託すくらいはさせて欲しい。これから先、人ともののけが手を取り合って生きていける世界ができるように。


「どうかあなたの行き着く先に、幸多からんことを。拙僧、心より願っておりますぞ。」

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