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百鬼夜行と踊る神  作者: 蠣崎 湊太
青年編
69/235

明けない夜は、きっと無い

 

『木魚砕き』はこの世で最も優しい魅孕のひとつだ。この武器は相手に一切のダメージを与えることなく、四撃を打ち込めば例外なく死に至らしめる効果を持つ。


 ポクポクポク、という間抜けな音を響かせる三撃の後、最後にチーンと一際アホらしい音の鳴る打撃を与えればそれだけであらゆる命は無に帰す。


 そんな武器を失ってなお、こちらにはまだまだ余裕がある。いや、逆にむしろ春水には気の毒だとさえ思った。なぜなら、この拳こそ苦痛に塗れた死をもたらすものにほかならないからだ。


 彼の涙ぐましい努力は、所詮虎の尾を踏み、龍の逆鱗を撫でただけにすぎない。


「仏の如き慈悲は、もうありませんよ?春水どの。」


 そこから先の展開は、もう目に見えていた。いかに火力があろうと、いかに手数があろうと、相手を削りきれないのであれば意味が無い。


 苛烈な拳と刀の逢瀬。幾度となく切り刻まれ、こちらが反撃を返すことが出来たのは数回に一度だけだったが、それでも蓄積すれば致命傷だ。


 こちらに回復のすべが無ければ、それこそ呆気なく敗北を喫していただろう。しかし、そうはならなかった。そんな少しの物悲しさに耽りながら、自らの無傷な体を撫でる。


 眼下には、惜しくもこちらに刀を突き立てて這いつくばっている少年がなおも立ち上がろうと奮起していた。


 まだ青く、されど鮮烈な少年は、滾る獣のような目でこちらを睨み続ける。若い、あまりにも若すぎる。いや、幼いと言うべきだろうか。


 彼はまだ迷いに踏ん切りがついていない。四年を共に過した私を、殺そうという覚悟が無い。


 彼の歩む道は茨だ。もし仮にこちらが手を抜き、かぐや様までの道を通してしまったならば、彼はいつか立ち行かなくなるだろう。


 彼には狂気が欠けている。殺し合いの坩堝の中に身を投じ、それでもなお他者を慈しみ愛するという。一見すれば背反しているそれを併せ飲む、矛盾の狂気が。


 身に余るものを抱えようとすれば、待っているのは破滅だけ。失いたくないという気持ちは、痛いほど分かる。今にも彼を癒し、さあ行きなさいと背中を叩いてあげたくなるほど理解している。


 それでも、こうして拙僧は少年の首に手を掛け、湖へと投げ込もうと構える。この仏心を分かってくれなどとは言わない。しかし、この先も進むというのなら分からねばならぬ事なのだ。


「かぐや様のことは、もう諦めなさい。あなたはあなたで、他に守るものがあるのでしょうから。」


 パッと手を離し、春水を宙へと投げ捨てた。これで全ては終わりだ。感傷に浸り終わったら、速く布団にでも入って寝よう。そう思っていた刹那、左足に違和感が走った。


「タダで落ちるわけないだろ。あんたも一緒だ。」


「んな?!どこにそんな余力が!」


 春水がこちらの足を掴み、一緒に湖へと落下する。時刻は丁度夜明け前頃、最も暗い色をした湖が、今か今かとこちらを待っている。


「別にあんたに勝てなくったっていいんだよ...!ただ、この距離からの落下だ。回復はできたとしても、揺れた脳みそまでは治せないだろ?」


 落下の衝撃による脳震盪狙い。悪くは無い手だが、着地の受け身さえ取れれば衝撃ダメージは最小限に抑えられる。


 すると春水は翼を広げ、こちらの腹を全力で湖の方角に蹴り飛ばす。拙僧は慣性を保ったまま、湖の丁度真ん中辺りまで吹き飛ばされて高い水飛沫を上げた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ダメージが通らないと理解した瞬間。僕は勝利を諦め、何か別の手段での突破を決めた。そうして思いついたのが、脳震盪で自由を奪い、そのまま湖に沈めるという作戦。


 最悪、殺してしまうかもしれない。道鏡はこの四年で、僕の友人と言って差し支えないほどまでに親密な関係になっていた。


 そんな彼を殺すということに、迷いがなかった訳では無い。それでも、僕はかぐやと道鏡を天秤にかけて、かぐやを選んだ。


 殺しを厭い、迷い、そして嫌ったこの四年。僕はこの思いに、これだけの時間をかけなければ割り切りをつけることが出来なかった。


 大事なものには順番がある。僕は残酷なまでに、自分の中で人の命に価値付けを行ったのだ。もちろん本意じゃない。全てを救えるのなら、全てを救った方が絶対にいい。


 けど、そう上手くいくように世界はきっとできてない。後悔するなら後でいい、後で悔やむから後悔だ。


 僕は静かに道鏡を飲み込んだ湖を見て、天守へと飛び上がった。そうして天守の扉を開け、一歩ずつ階段を進む。


 明かりはひとつとして点っておらず、辺り一面ひたすらに闇が広がっていた。僕は疲れから全ての術式を解いていたので、手探りで天守の中を歩いていく。


 そうしてようやく真っ暗な部屋の中、かぐやと再開することができた。暗くて顔はよく見えなかったものの、それでもぽたぽたと垂れる雫の音で彼女が泣いているということだけが鮮明に分かった。


「約束、守りに来たよ。かぐや。」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 私の一番幸せ、あなたに出会えたこと。


 私の一番不幸、あなたと結ばれる資格がないこと。


「帰ってください。私は、一人で大丈夫ですから。」


 ああ、どうして。


 どうしてそう、彼を突き放してしまうの。


 ほら、顔だって見れないくせに。素直に手を取って、そのまま連れ去られてしまえばいいのに。


「迷惑です。こんなとこまで来て、鬱陶しいですよ。」


 違う、こんなことが言いたいわけじゃない。でも、怖いの。受け入れられてしまうのが。こんなに汚れた私が、真っ直ぐなあなたに抱きしめられる価値なんてないのに。


 彼はこちらを見ているばかりで、何も言わなかった。暗がりでもわかるその眩しい瞳で、私を見ないで欲しい。私を、突き放して欲しい。


「ねぇ。知ってます?私、処女じゃないんですよ。」


 どろどろとした膿を口から吐き出すように、穢らしい言葉がゆっくりと流れ出してくる。どうにか止めようと踏ん張ったけど、もうどうしようもなくて、私はただ他人事みたいに口を動かし続けた。


「色んな男の人に抱き潰されて。もう自分でだって数え切れないんです。保昌さんとだって交わいましたよ。何度洗っても、何度お風呂に入っても。男の人の匂いが消えないんですよ!喉の奥に残る苦い味、痛いって、嫌だって叫んでも意味なんて無かった!どれだけ綺麗に飾り立てても、結局は使われるだけの道具なんです!私は、私はあなたに迎えに来てもらえるような、綺麗な女の子じゃない!」


 叫び散らして、その後でやってしまった事の重大さにようやく気づいた。私の穢れ、あなたにだけは知られたくなかったのに。


 その場にへたり込んで、もう枯れてしまった涙を、私は恋しく思った。もう泣くことさえできない自分が、それでも。それでも彼なら私を愛してくれるんじゃないかと、そうどこかで信じてしまう弱さが。何より恨めしかった。


「私、最初から穢れた醜女だったなら。苦しくなかったのかな?」


 にへらと笑って、私は髪につけていた細長い簪を取り出す。そうして簪の鋭い面をこちらへと向け、自分の首元へと思いっきり突き刺そうとした。


「かぐやは、綺麗だよ。道具なんかじゃない。僕が見てきたかぐやは、そんな子じゃなかった。普段は落ち着いているけど、知らないものを見た時にははしゃいで。そんな、どこにでもいる普通の女の子。」


 彼は手で私に向かう簪を防ぎ、貫通しているのにも関わらず痛みを見せる素振りなく、私の手を包み込んだ。


 温かかった。血が通った、人の温もりだった。何度も何度も肌を重ねて、その度に自分の体の冷たさを嫌という程分からされてきた。


 でもそんなことが気にならなくなるくらい、彼の温かさは優しかった。けれどその熱は、きっと私を焼いてしまう。だから、突き放すべきなのに。突き放さなきゃいけないのに。


 彼は私の手を取って、そのまま暗い部屋から連れ出した。私はまだ決心がつかないまま、けれど抵抗もすることなく彼について行く。


 そうしてそこで、私は初めてのものを見た。


「かぐや!あれが太陽!どう?綺麗でしょ!」


 湖から顔を覗かせる、真っ赤で大きな輝きの塊。水がキラキラと輝き出す、世界が始まる、森が緑を取り戻す。


 夜がその鱗を剥がれ落としていくように、少しづつ闇を取り払っていく。私はそれを、もう枯れたはずの涙を流し続けながら、彼の温もりを感じて魅入っていた。

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