おつかい?
「春〜!お母さんちょっと手が離せないの、お使い頼んでもいいかしら...?」
母は背中に妹の雨音を背負い、編み物をしていた。最近は戦が多く、刀匠である父は刀の注文を普段の何倍も受けていた。ある時なんかは、村の外からも武士たちがわんさかやってきて父に刀を頼んでいた。
父は卓越して刀作りが上手いという訳でもないのだが、それでも沢山の依頼が来て父なりに張り切っているようで、家のことは母がほぼ一人で行うようになっていた。
母はそんな父を見て嬉しそうに、ようやくあの人の刀が認められてきたのね。と嬉しそうに呟いている。その嬉しそうな顔を見ると、こっちまでむず痒くなってきた。
結局、やることも無くて暇だったので刑部を連れてお使いに行った。内容は夕飯の食材で、山菜とあさり、それに色々な魚だ。それと母は少し余分にお金を持たせてくれて、これで好きな物でも買いなさいと言ってくれた。
買い物をする市場まではやや遠く、ここからは雑木林を抜けて隣の村まで移動しなければならない。一人で行くにはやや退屈になりそうだったので、庭で日向ぼっこをしていた刑部に声をかけて一緒に市場へ向かった。
「ご主人様ぁ、無駄遣いしたらあかんよ。うちは貯金するんがええと思うんやけどぉ。」
「そう言って刑部、こないだ僕が貯金してたお小遣い取ったじゃん。」
「あれはほんまに違うんやってぇ。たまたま、旅の行商人が来てなぁ?おいしそぉ〜なおいもさんをな?あいたっ!」
僕はたぬきの姿をした刑部にデコピンを食らわせた。悶える刑部を横目に、僕はすたすたと雑木林の方へと歩を進める。
刑部はぽんっと煙を出してその中に身を隠した、そうして次第に煙が晴れると、その煙から出てきたものは、僕と同い年くらいの女の子だった。てこてこ走ってくる女の子は涙目で、それが刑部だと分かってはいるのに、なんだか悪いことをしてしまったような気分になった。
「おでこひりひりするぅ...。おにぃちゃん、おんぶしてぇ〜。」
小さくなった刑部は、いつもこうやって妹のふりをする。本人曰く、こちらの方が他の人に見られた時に怪しまれないとのことなのだが、僕としては少し複雑だった。あの優しそうなお姉さんが、こんな小さい子になって僕をお兄ちゃんと呼んでくる。そんなよく分からない状況に、変な気分が脳みその中をぐるぐる回って、しどろもどろになってしまう。そんな僕を見て、刑部はイタズラっぽく笑ってよくからかってくるのだ。
「ふふ、ご主人様はかわいいなぁ。やっぱり大人のうちの方が好きなんか?ん?」
「う!る!さ!い!あとお兄ちゃんって今は言う必要ないでしょ!意地悪しないで!」
悶々とした気持ちを悟られないように、少し声を荒らげて喋る。刑部は、そんなの全て見透かしてると言わんばかりに微笑み、僕の後ろにぴったりくっついてきた。
紅くなった頬を見せないように、わざとらしく周りをきょろきょろ見回した。ここで、ふと違和感に気づいた。普段ならもう抜けているはずの雑木林が、まだ続いている。それどころか、村に出る気配すらしない。違和感が確信に変わったのは、それから三十分歩いた後だった。
あちこちの木の枝に、様々な生き物の死体が突き刺さっている。蛇であったり鼠であったり、大きいものでは鹿の頭部だけが惨たらしい状態でぶら下げられていたりと、異様と言わざるを得ない光景が眼前に広がる。
血なまぐさい匂いに懐かしさを覚えながら、紅葉と見紛うほどの林の中を進む。奥に行けば行くほど酷く咲き乱れる赤。凄惨な状況に顔を顰める刑部は、不快感を堪えつつも不思議そうに僕に問いを投げかけた。
「ご主人様はこういうの平気なん?うちはあんまし、いい気せんねんけど...。」
「あんまり、よくわかんないかも。不思議な感じ。でも生き物の食べ残しだって言うなら、わざわざ木に刺したりしないと思うな。」
「前から思ってたけど、ご主人様ってちょっとズレてるよなぁ。なんて言うか...普通はもっと驚いたり、泣きそうになったりするもんやんかぁ。感性が動物とかうちらみたいなもののけ寄りっぽいんよ。」
この現状を客観的に俯瞰し、これが見るに耐え難い光景だということは理解出来る。ただ、それを自分の気持ちに昇華することは出来なかった。言外に、人間では無いと言われたような気がして次に出る言葉に詰まった。そうして黙っている僕を見かねてか、刑部は優しく肩をぽんぽん叩いた。
「せやけど、この場所では全然はなまる満点。すごい自然な雰囲気で入口は分からへんかったけど、ここは既に血界内。趣味の悪さ的にはお猿さんの術って感じやなぁ。」
刑部はそう言って、辺りを見回して警戒している。刑部が警戒している間に、木の枝に刺さっている死体をまじまじと観察してみることにした。何故ここまで生き物を殺すことに執着しているのか。そんな疑問を胸に観察していると、あるひとつのことに気づいた。全ての死体に眼球がない。いや、眼球が潰された跡があった。では、刑部の言う猿とは目を狙ってくるのか。
違う。これもまた正確な答えでは無い。さらに詳しく調べるため、丁度全身の残っている栗鼠の死骸に目をやる。栗鼠はほとんど外傷がなかった。木の枝が刺さっている穴と、潰された目。それにほんの少し手に血が着いていること以外、なんの汚れも見つからなかった。
目を攻撃されたにしては抵抗した形跡がない。目だけをくり抜かれたとしても、生き物としての機能を失うことなくしばらく活動することは容易いだろう。ならばなぜ、抵抗できなかったのか。その答えは、次の瞬間明かされることになる。
目の前に、突然赤黒いボロ布を纏ったような大猿が姿を現した。それが視界に入った瞬間、僕の脳みそは真っ赤に染った。
「「「「目を抉れ、目を抉れ、目を抉れ、目を抉れ。」」」」
あまりにも唐突に、光が失われた。その光を奪ったのは、僕の指だった。あの大猿を視界に入れた刹那、どうしようもなく自分の目をくり抜きたい衝動に駆られてしまった。自分の声が頭の中を反芻し続け、今も尚半分潰れた両目を完全に破壊しようと力を増している。
歯を食いしばり、痛みと脳を駆け巡る大音量に耐えながら指を眼窩から引き抜く。思わず悲鳴にも似た大声が自分の口から漏れだし、それに気がついた刑部が地面に倒れ込む僕をすんでのところで受け止める。
「ご主人様!まだ完全に目が潰れたわけやない。ちょっとの辛抱頑張ってな!」
そういうと刑部は、僕を昔のように抱き上げてその場を飛び退いた。恐らく大猿が追撃をしてきたのだろう。わざわざ回復の隙を与えるほど、敵も甘くは無い。ただ、刑部があの猿に捕まる光景が、僕には想像できなかった。刑部の逃げ足と隠れ身は凄まじく、鬼ごっこでもかくれんぼでも、僕は一度も勝てたことがない。
「東の豊穣、十二番『美園』」
祝詞のような口上が世界に告げられ、刑部の小さく柔らかい唇が、僕のおでこに触れた。すると、目の奥から暖かい感覚が生まれ、まだ光を取り戻すには至らないもの、快方への兆しが見えた。そのおかげか、心に余裕ができた。
「あの猿を見ると目をくり抜きたくなる!ほかの死体にも目がなかった!多分あれを視界に入れたらダメだ!」
「そういうこと。でもそのお猿さん、今も後ろを追いかけてきてはるけど、どうやって戦うん?」
耳を澄ますと、どたどたと重い足音を響かせて大猿が迫ってきているのが分かった。相手はそこまで足が早い訳では無いらしい。そこそこ距離が空いた途端、足音はなりを潜めた。
「お猿さん。諦めてくれたみたいやなぁ。よかったよかっ。!!」
足音が止まった代わりに、今度は何かが高速で風を切るような音が聞こえてきた。恐らく石か何かを投げたのだろう。自分の足では追いつけないと悟り投擲に切りかえたのか。刑部と一緒に僕は地面に激突する。起き上がろうとすると、ようやく僕に光が戻って薄れた視界が開ける。
よろよろと立ち上がり刑部を見ると、刑部は肩からだらだらと滝のように血を流していた。色々な死体をさっきまで見ていて何も感じることがなかったのに、何故か刑部の血を見ると心がぎゅっと締め付けられた気がした。
「刑部、目だけ瞑っておいて。あとは僕が何とかするから。」
刑部は、力なく笑ってそのまま目を閉じた。多分、心配で不安もあるだろう。それでも、今こうしてにこやかに、僕を信頼してくれている。恐らく、最初の襲撃の時に僕を庇わず刑部だけが全速で逃げていれば逃げきれたのだろう。なのに、刑部は僕を助けて二人で逃げる選択を取った。馬鹿だと思う。けど、嬉しかった。だから僕は目を閉じて、音の鳴る方へ拳を向けた。
「別れは済ませましたか、ニンゲン。」
敵意の返礼は、知性と獣性が入り交じったような、そんな不気味な声だった。