梅のタトゥー
どうどうと、濁流のように押し流れていく人々の群れ。どれだけ大きく声を上げても、誰一人としてかぐやの声を聞いてはいない。
皆、自分の命が惜しいのだろう。我先にと逃げ出すのは生き物として、自身の生命に危機が迫れば至極当たり前の行動と言える。
かぐやは必死に、それはそれは必死に声を張り上げる。だが、混じりあった悲鳴とけたたましく響く足音には遠く及ばなかった。
「みなさん!慌てないでください!!前の方から順番に進めば、詰まることなくもっと安全に手早く避難できますから!!!!」
老人が、若人が、壮年の男が、若い女が。ここでは無いどこかに逃げようと、あらん限りの力を持って駆ける。
当然、誰もがその選択を取ろうとするのだから、限りある大きさしかない道は人々で行きも出来ぬほど詰まってしまう。
結果として避難が遅れ、それにより更に不安に駆られた人々は先をより急ごうとする。そんなどん詰まりの景色を、かぐやは何も出来ず口惜しげに見ていた。
そんな折、彼女は一人の女の子が一人でぽつんと立っているのを見つけた。少し煤けているが真っ赤な着物を身につけた、年端もいかない少女。
親とはぐれたのか、果てまた置いていかれたのか。かぐやはそんな一人ぼっちの少女を心配し、思わず声を掛ける。
「どうしたの?お母さんたちとは...はぐれちゃった?」
その装いからチラリと覗く素肌には、いくつもの異様な痣が点々と散りばめられていた。打撲痕とも、転んで擦りむいた傷ともどこか違うそれらを抱えながら、少女は俯いたままかぐやの問いに答えない。
その代わり、少女は往来を覆い尽くす群衆たちに向かって指を指す。それから一言、ぽつりと言葉を呟いた。
「.....汚い。」
項垂れた黒髪から、かぐやにも僅かにその眼光が垣間見える。沈み、淀み、それから諦めに怒りを混ぜた色をした瞳孔。
それは、よく覚えのある目だった。遠い日の月夜、陽の光を知らぬ少女が宿した炎の如き妖しい眼差し。
かぐやはぞっと、背筋が凍るような思いに胸を支配される。ああ、過去に追いつかれる。そう、彼女の直感が脳に大声で叫んだ。
「汚い。汚い、汚い、汚い。....あなたも穢い。」
順番に順番に、少女は群衆を指さして言う。そうして最後、少女の双眸ははっきりとかぐやを見た。
彼女の言葉が単に、物理的なものを示している訳では無いことを否が応でもかぐやの脳みそは理解してしまう。
夜は過ぎ、陽は登った。確かに、彼女はその帳から逃げ仰せたのだろう。そう、ただ逃げただけだ。
結局、かぐやは過去を清算したわけでも向き合った訳でも無い。その証左として、彼女は未だ男性に対して幾ばくかの嫌悪感を抱いている。
目を逸らし、脳から追い出して、暖かな日差しに胡座をかいた。もう終わったのだと、勘違いできてしまっていた。
「見て、私とおんなじ。汚い汚い、散らした花の通り跡。」
少女は顔色ひとつ変えず、泥のような表情のままかぐやに自身の裾を捲って見せつける。小さな白いキャンバス。そんな無垢の幼い手首に、人の手形の形が浮き出た痣が蠢く。
かぐやはハッとして、自身の手首を確認する。するとそこには、数え切れない程の手形の痣。春が終わった後の、梅の通り道。
「あなた.....人では無いですね。」
「うん。私は梅ねぇさまの眷属。ねぇさまに産んで貰った、沢山の子どもたちの群れ。産まれる前に死んじゃった、穢れの塊。」
かぐやの前に立つ少女。その正体は悪霊たちの集合体。母体が梅毒にかかった故、この世に産声を上げることさえ叶わなかった悲しい忌み子。
かぐやはそんな相手を前にして、頭を振って邪念を取り除き体を戦闘態勢に切り替える。迷う暇など、考える暇などない。
それを素早く理解し、彼女は相手から距離をとるため一歩後方へと引き下がる。だが頭では分かっていつつも、感情が動きを鈍らせた。
もつれた足では十分な距離をとることができず、かぐやは中途半端な距離感で少女を睨む。
(最も優先すべきは人名救助....!春水は居ないんです....私が....私が守らなくちゃ....!)
不格好な姿勢。決して完璧とは言えない距離感覚。それでも、かぐやはしっかりと相手に狙いを定めて術式を起動させようとした。
「....『呪詛性痕』。それはダメ。ダメだよ。ちゃんと見て。私のことを、あなたのことを。」
かぐやの術式発動よりも早く、少女が術式を発動させる。その瞬間、かぐやは足から頭にかけて強烈な痛みが這い上がってくるのを感じ、思わず地べたに転倒。
全身が痛むせいで、かぐやはどこを抑えればいいのか分からずにただ悶え苦しむ。そんな風にもがくかぐやを、少女は容赦なく髪を引っ張り無理やり視線を合わせた。
「気絶しないんだ。ふぅん。じゃあ一応はえらいんだね、あなたは。」
かぐやのおよそ後方。詰まっていた人々の群れは、少女の術式発動と同時にその殆どが激痛のショックに気を失った。
泡を吹いて倒れる者。もがきながら呼吸が浅くなり気を失う者。そのどれもが、体のどこかに発疹の様な痣を身に纏っている。
往来の中無事でいるのは、幼い子供たちと僅か数十人程度しかいない男たち。それから、男たちよりももっと数の少ない女たち。
母親や父親が倒れ、残された子供の鳴き声が響く。ぐらぐらと揺れる視界、がんがん脳に反響する声。かぐやは満身創痍で、どうしようもない痛みに奥歯を噛む。
「この傷跡がある限り、私は全ての古傷と繋がれる。私はあなた。あなたは私。だから、分かるの。」
少女の術式、『呪詛性痕』はマーキングの対象者だけを限定として、他者と自分との境界線を奪う術式。
少女が常日頃から感じている傷跡の疼きや痛み。それらを常人が共有されれば、死屍累々の山を積み上げるなど容易い芸当。
むしろ意識を保ち、まだかろうじてでも戦意を持てている彼女は良くやっていると言える。そんなかぐやの意志を折るため、少女はダメ押しに口を開く。
明けない夜はない。なぜなら、朝は必ず巡ってくるから。では、その巡りとは一巡で終わるのか。答えは当然、否である。
月夜の少女は恋をした。その熱は確かに、月明かりよりも闇夜を照らし、冷たく厳しい夜風から身を守ってくれたのだろう。
落ちていく月に、登っていく朝日に。溶けるようなあの心地を、彼女は生涯覚えているに違いない。
それが、どんなに穢れた思い出であったとしても。
「あなたは、誰でもよかったんだよ。連れ出してくれるなら、本当に誰でも。」
「.....。」
「いいよね。諦めちゃえば楽だもの。静かに男に抱かれていれば、黙って何も言わなければ、心を殺していれば辛くない。」
「.............。」
「あなたは自分を被害者だと思ってるけど、本当は分かってるんでしょ?あなたは、安寧を体で買ったの。そこに倒れてる人たちとおんなじ、娼婦の成れ果て。」
「.................。」
「あなたにとっての彼は、ただの道具に過ぎなかった。どこまでも自己中心的で、愛なんて欠けらも無い。ねぇ、そうでしょう?」
少女はいっそう髪を強く引っ張り上げ、自分と同じ顔をしたであろうかぐやの顔を見るため顔と顔を近づける。
絶望、諦念、憤怒、あるいは虚無感。そのどれかを色濃く写したもの。それが、少女の目の前に広がるはずだ。しかし、そんな少女の稚拙な想像はあまりにも唐突に引き裂かれることとなる。
「ぷっ。」
かぐやの口から、真っ赤な血液が勢いよく吐き出された。それは不意打ちで少女の視界を潰し、相手は思わず反射で後方へとよろめく。
もう、夜は越えた。朝日が昇り、また夜が訪れようとも。彼女は折れずに輝きを目指す。だって、もう十分答えは貰ったから。
「今更、そんな戯言に惑わされたりはしません。断言できます。私は心から、春水を愛していますから。だから...負けないんです!」
散々泣いた。散々折れた。火傷した皮膚は前よりも分厚くなって戻ってくる。それは、一人では辿り着けなかった答え。
痛みを受け入れ、かぐやは震える両の足を立ち上がらせる。最早、恋する乙女は痛みなどでは止まらない。
「過去がダメだったら、全部おしまいなんですか。始まりが歪だったら、続けちゃ行けないんですか。そんなの...そんなの私は認めない!」
(どれだけ昔の私が汚かったとしても、私を受け入れてくれる居場所が、もう私にはあるから。)
その表情に宿るのは紛うことなき、愛の眩さ。親愛を、友愛を、そして恋愛を込めた、覚悟の瞳。
「何時でもかかって来てください。今の私は、誰よりも強い。」




