蟷螂と蜂(四)
結局のところ、どうしたって生きていけば生活は続いていく。朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして、床に就く。
ただ繰り返されていくだけで、幸福な円環。その輪の中に、自分は入れるのだろうか。彼女の幸せの円に、私は居ていいのだろうか。
散々ぐるぐる考えて、出した結論はたった一つ。答えは否だった。生活の幸福とは、つまるところ安心と安全。
そこから最も離れている私は、彼女の傍にいる資格など最初から持ち合わせていなかった。いつ死ぬとも分からない。いつ彼女を未亡人にさせるか分からない。
不安定の塊のような生き方だ。毎日、彼女はどんな気分だったんだろう。今日を生きて帰ってくるか分からない相手を、黙々と家で待ち続けることが。
どれだけ、不安だったか。それに気づいた時、私は一層彼女が愛おしくなった。そんな文句一つだって言わないで、ただ待っていてくれる彼女が、何より健気で。
それに、これ以上負担を掛けたくないとも思った。彼女は、彼女が持つ幸福の輪に戻るべきだ。そのために、彼女を幸福にするために。私ができること。
「......行きます。行かなきゃ、いけないんです。どうか、分かってくれませんか。」
「嫌...。嫌だよ。だって、みんな死んじゃったんでしょ?そんな相手に一人で挑んで行ったって、無駄死にだよ...。」
そうじゃない。私は復讐に駆られているわけでは断じてない。そうじゃない。そうじゃないんだ。
でも、この胸の内を打ち明けてはいけない。もしそうすれば、彼女はきっと私を忘れてはくれないのだろう。
復讐に堕ち、家庭を置いて幸福を投げ捨てた愚かな男。そう思ってくれていた方が、多分いい。
「私は、もう人じゃないんです。ただの...ただの刀に過ぎません。だから、私の事は忘れ」
「馬鹿にしないでよっ!私がっ....私がどれだけ....どれだけ貞光と一緒に居たと思ってるの!そんなの、忘れられるわけないじゃない!!」
涼やかで、静かな月夜に響く慟哭。私は初めて聞く彼女の大きな声に、思わず一瞬体が強ばってしまう。
「だから...ずっと一緒にいたから、分かってるの.....。貞光が仇討ちに必死になる性格じゃないことも....私の事を考えてくれてることも....。私が引き止めても、行っちゃうことも。」
全て見通した上で、彼女は私の背中に強く自分の体重をもたれさせる。それがいかに無意味か、いかに無駄なことか分かっていながら。
涙と嗚咽だけが聞こえる暗闇の中で、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。私は強く拳を握り、たった一つの妄想に耽る。
風の通り道、黄金色の稲穂の群れ。さらりと撫でられた大粒たちが踊り、私は鎌ではなく鍬を携えている。
彼女が抱えているのは小さな子供。まだ幼く、自分で立つことさえままならないお日様の匂いがする乳幼児。
自分には初めから与えられていなかったもののはずなのに、何故か懐かしさを覚えてしまう光景。
もしも、私が孤児でなかったなら。もしも、私にこんな職業以外にも選択肢があったなら。もしも、たった今私の背中で震える細腕を取れていたら。
有り得ない話だと、心の底から思う。どうしようもなく、叶えられなかった夢。幸せに、なりたかった。
「....私は、たくさんの命を奪ってきました。生きるために、きっとこれからも奪い続けます。殺し続けます。正しくなくても、幸せになれなくても。殺し続けなきゃ生きていけないから。」
後ろは振り返らない。もう人では無くなった自分の、心の奥底が叫び出してしまわぬように。ただ、空を見上げて想う。
「あなたの幸せが、今日から私の生き甲斐です。だから、私抜きで幸せになってください。」
これが彼女にとって残酷なことも、言葉足らずなことも承知。でも、これ以上は言ってはいけない。
人で無くなった自分の、人の部分が暴れ出してしまうから。なぜ、自分の願いをかなぐり捨てるのかと。
(痛みは無い、人では無いから。願いは無い、人では無いから。恐怖は無い、人では無いから。でも、あぁ。これだけはどうか、お目こぼしを。ほんの少しのわがままです。神様がもし居るのなら、これだけは、どうか見逃して貰えないでしょうか。)
この空の下、どことも分からぬ遠い場所でも、あなたが幸せでいてくれるなら。そうして幸せの最中、頭の片隅に、虫一つ分でも私の住む場所があれば。
それだけで、それだけでいい。唯一捨てきれなかった、人間としての想い。刀として、武士としては持つべきでは無い感情。
私はその後、彼女を置いて駆け出した。それから死ぬ気でカマキリを殺し、仲間たちの仇を取ってから私は放浪の旅に出た。
各地で人に仇なすもののけを狩り、日銭を稼ぎつつ日々を暮らす。そんな毎日を過ごしていれば、自然と名は売れてくる。
気づけば私は、倭国でも有数の武士になっていた。激務に日常を流され、考えることも無く作業のように命を奪う。
はっきり言って、慌ただしさに忘れさせられていた。自分の原点。どうして、ここまで進めていたのかを。
非情にもなり切れず、さりとて人間としても落第した私。だからこそ、苦しみながら前に足を出せてきたんじゃないか。
忘れながら、その度思い出しながら。何度だって進んでいく。意味が分からなくなっても、理由が失われてしまっても。
この大地に、あなたの笑顔があるのなら。眼前の脅威が、あなたの幸せを壊してしまうものかもしれないのなら。
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「はっ....!これじゃあ私も...綱さんのことを言えないじゃないですか......。みっともなく、昔のことを引き摺って....!」
血の池から無理やり体を引き剥がし、貞光は大鎌を支えにして体を起こす。その姿はもはや死に体。どう見ても、戦闘を続行できる状態では無い。
脇腹は抉れ、血はどぼどぼと滝のように流れる。体の無事な部分を探す方が難しいほどに、全身のダメージは深いものだった。
「ひひっ....!命なんて、散る時が一番綺麗なんですよ...!あぁ、綺麗ですねぇ。ふひっ...ふひひっ.....!!」
「あ〜。一応、聞いておきます。あなたの目的はなんですか。冥土の土産に、教えてくださいよ。」
そう力無く笑う貞光に、赤蜂は一層口角を上げて口を開く。それはまるで、獲物を前に舌なめずりをする捕食者のようで。
「ふひっ...!潔いいのは好きですよ...。私の目的は人間の死体です。沢山の死体があれば、あの方はもっと綺麗になれるんです。養分...そう!養分が必要なんです...!」
ピクっと、貞光の眉が動く。人間の死体。それを集めると言う、凶悪なもののけ。間違いなく、人の幸せを破壊するもの。
彼の全身の細胞が暴れ出す。死にかけて尚、まだ戦えと大声を上げる。その為に、彼は自分の最も大切なものを捨てたのだから。
(私は、幸せにはなれないのかもしれない。でも、自分の為に生きれないのなら。自分の幸せの為に、生きられないのなら。この命、あなたの為に使いたい。)
グッと、大鎌を握る腕に力が入る。右腕だけの膂力で彼は獲物を鋭く振るい、反撃の一手を喰らわないよう低い体制で切り込む。
そんな不意打ちに赤蜂は咄嗟に合わせるが、防御が一歩間に合わず、ガキンと音を立てて槍は大鎌の火力に負け、軽く後方へと弾き飛ばされる。
「ふひっ....!まだやる気なんですか.....。」
「えぇ。言ったでしょう?冥土の土産にと。地獄行き確定のあなたに、最期一つくらい善行を積ませてあげようかなと思ったのですが。」
「.....ひひっ...!減らず口。」
「おや、お喋りはお嫌いで?」
手負いの獣こそ、最も恐ろしい。赤蜂は思わず、一瞬貞光の背後に有り得ぬものを見た。それは獰猛に、かつ静かに獲物を狙う蟷螂。
大きな鎌に血を滴らせながら、ゆらゆらと揺れる虚像の体躯。その幻影に、本能が全身を震え上がらせる。
赤蜂は悟った。最早、今までのように攻略できる相手では無い。ここに立っているのは、先刻とは別の何かなのだと。




