泥の中へと一歩踏み出す
「....本当にお疲れ様。これでひとまず、越後でこれ以上被害が拡大することは無いと思う。......本当は僕が一人でやらなきゃいけない所を、尻拭いしてくれてありがとうね。」
季武はヘロヘロと地面に倒れ込む春水に向かって、朗らかな笑顔を浮かべる。そうして季武が伸ばした手を、春水は取って体を何とか起き上がらせた。
腕はボロボロ、体は疲労でバキバキ。春水は戦いを終えた後、いつもこうだと言わんばかりに空を見上げる。
自嘲気味で季武に笑顔を返し、春水は自分よりもまだ少し高い目線に向かってグータッチを突き出す。
「そんな、尻拭いだなんて...!でも、へへっ...!全然、これからも頼ってくださいよ!!」
季武からの感謝に、春水は胸がグッと熱くなる。年齢も、実力も。屋敷では春水たちが一番下だった。
だからこそ、どこか自分たちは半人前なんだという意識がどこかにはあって。でもたった今、この感謝によってそれが消え失せる。
ようやく、対等になれた。そんな思いが胸いっぱいに春水の中で広がり、ふるふると小さく震えながら、春水は感涙を堪える。
「あらら〜?ご主人様、泣いてまいそうになっとる!ほれほれ〜わんわん泣いたって、うちが抱きしめたるからなぁ〜。」
「うっ...!泣いてなんかっ....!ってか、刑部って連れて来てたっけ.....?」
さっきまでは春水をニコニコ笑いで弄っていた刑部だったが、それを春水に指摘された瞬間、ギクッと体を跳ねさせて織の方へと助けを求める視線を送っていた。
「わたしが連れて来たの....!だから、おさかべを怒らないであげて....。」
しょぼんと口をすぼめ、顔を俯かせる織。そんな彼女に向かって、春水はボロボロの腕を何とか持ち上げて頭を撫でる。
「怒ったりなんかしないよ。むしろ、逆に助かったぐらい。でも.....優晏あたりは.....怒りそうな....気が..........。」
春水、刑部、織の三人の背中にゾッと寒気が走る。確実に怒られることを悟った刑部は、それじゃあお先と言って術式を解除。
ここに来ていた刑部の分身はぼふんと煙を立てて消滅。完全に刑部がここにいた証拠を抹殺し、この場所に残ったのは三人だけとなった。
「....すごいね。狸のもののけってだけでも珍しいのに、強そうな術式まで持ってるなんて。......どこの生まれ?」
この一瞬、パリッと張り詰めるような空気感を、織だけが感じ取っていた。ほんの僅かに現れた、季武の鋭い目。
「ん〜...。あんまり詳しくは聞いてないんですけど...蝦夷に親戚が居るとか?だったし、蝦夷生まれなんじゃないですかね。」
その回答に、織はほっと胸を撫で下ろす。一歩間違えば、この先の未来が取り返しのつかないものとなってしまう質問。
季武は春水の受け答えに少しだけ考え込み、その後すぐにいつもの調子へと戻る。それに安堵した織が、話題を転換させるためにパッと二人に声をかけた。
「しゅんすい...一人で歩けそう?ダメそうなら、はすみが待ってる所まで肩貸すよ?すえたけも!手伝って!!」
「....うん、そうだね。織ちゃん、右の方お願い。」
「あっ!僕なら一人で....。いや、じゃあちょっとだけ。肩、貸してください。」
初めは一人で歩こうとしていた春水だったが、二人に寄り添われた事で意地を張るのが馬鹿らしくなったのか、素直に肩を借りることにした。
そうして三人はハスミの所まで歩いていき、一度越後の城下町に戻って季武と解散。それからようやく、春水たちは実家へと踵を返す。
「うへ〜!春水体超ボロボロっすよ!早く帰って刑部に治癒掛けてもらった方がいいっす!」
「....ウン、ソウスル。」
「....よっぽど疲れたんすね。カタコトになっちゃってるっすもん。」
((何も....言わないでおこう。))
実は刑部も来てました。何て言えるはずもなく、二人はハスミの作ったワープゲートを潜り実家へと帰る。
最初に実家で春水たちを出迎えたのは、かぐやと花丸、それに刑部。三人は春水の体を見るなり刑部に治癒術を催促し、その後は早めに休息を取るよう寝室へと運ぶ。
「そう言えば、優晏と絹は?家の中にも居ないみたいだけど...。」
「雑木林の中に入っていった優晏さんを、絹さんが追いかけてた所までは見てたんですけど...。」
春水が布団に入っている隣で、かぐやが地面に腰を下ろしながら、横たわり安静になった額を撫でる。
静かな時間。ゆっくりと時が流れるかのような錯覚を春水は覚え、瞳を閉じながらかぐやの冷たい指先の感触だけを感じ取る。
羽後を越え、蝦夷を踏破し、越後を攻略した。そうして次に春水たちが向かうのは、倭国一の大都市である京。
かぐやがルーツを持ち、彼女自身を長い時間閉じ込め続けた、トラウマの源泉のような場所。そんな場所にかぐやを連れて行っていいものかと、春水は酷く悩んでいた。
瑞々しい指先が、肌をゆるりとなぞっていく。か細く、箸以上に重たいものは本当に持てないんじゃないかと思えるほどの腕。
春水は暗いまぶたの裏で、静かに考えを深く落としていく。そんな芳しくない表情を浮かべる春水へ向けて、かぐやは春水の行動を先読みしたかのように言葉を呟いた。
「はっきり言って...私は、京に戻るのが怖いです。」
春水のまぶたが開かぬよう、彼の瞳の上にかぐやは指を当てて言葉を続けた。それは言外に、今の情けない表情を見て欲しくないと、そう語っている。
「ふと、思っちゃうんです。こんなに幸せなの、夢なんじゃないかって。目を覚ましたら、またあの京に私は居て...。前みたいに酷いことをされる毎日が、待ってるんじゃないかって...そう思うんです。」
カタカタと、少しづつ指が震え始めたのが分かった。決して癒えることの無い、心の傷。体の瑕疵は無くなったとしても、刻まれた記憶だけはベッタリと張り付いて離れてはくれない。
「うん...大丈夫。無理そうなら、実家でお留守番だっていい。無理なものを無理ってちゃんと言えるのは、大事だから。」
「....いいえ。そういう事が言いたいわけじゃないんです。私は....行きます。春水と一緒に、京に行かせてください。」
春水からしてみれば、それは全く予想だにしていなかった言葉だった。更に言うなら、春水が予想していたかぐやの言葉とは全く真逆のもので。
「怖いことから逃げ続けるのはずっと簡単で....多分、そっちの方がいい事だってあると思うんです。でも、私はこのままの私を...逃げ続けるだけの好きになれない。だから、行かせて。春水。」
かぐやの覚悟が決まったのか、彼女は春水のまぶたからその細指を離し、春水の視界を解放する。
そうして開かれた春水の瞳に映るかぐやの表情は、まるで雨でも降り出してしまいそうな曇り空のよう。
なのに、その雲の隙間にはいくつかの晴れ間があって。怯えと恐怖、そういうものたちに大半を占められている心。
その雲間に、過去に立ち向かっていく勇気がすっと差し込む。弱々しい光、ともすればすぐに呑み込まれてしまいそうな瞬きだとしても。春水はその覚悟に答えずには居られなかった。
これから進む先が、どこに続いているのか。それはきっと、誰かに分かるようなものじゃない。だからこそ、怖くて恐ろしいんだ。
それでも、踏み出す勇気が背中を突き動かすというのなら。何も見えない泥の中を、手探りで進むしかない。
かぐやは大きく息を吸い込んで、布団の上から春水に覆い被さる。急な人一人分の体重の襲撃に、うっと唸り声を上げる春水。
そんな彼をキュッと抱きしめて、かぐやは優しい口付けを春水と交わす。癒しの効能を持つ体液が春水の体にすっと溶け込み、ボロボロになった筋繊維を元に戻していった。
「....好きです。春水のことが、私は大好きなんです。だから、全部が終わって。私がきちんと過去に向き合えたなら...その時は.....。この、続きをしましょう?」
ほんのりと頬を赤らめ、かぐやはまだ二人の口元で繋がっていた銀の糸を断ち切る。艶やかさと上品さが混じり合うような所作。そんな彼女に、春水もまた頬を真っ赤に染めていたのだった。




