大縄迷宮(五)
大縄迷宮(五)
今日はおじいちゃんの畑の手伝いをした。どろどろの冷たい泥水に足をつけながら、ひと房づつ丁寧にお米を植えていく。
お昼にはお母さんがおにぎりを持ってきてくれて、それを三人で食べた。おにぎりを作るのにお母さんも手伝ってくれたらしく、お母さん手作りのおにぎりと聞いて、なぜか数段美味しく感じるようになった。
お昼が終わったら、あとは自由時間。山に行って虫取りをしたり、お母さんが雑誌を読んでいる隣でゴロゴロしたりする。お母さんは基本的に家にいることが多かった。以前みたいに、夜に居なくなって朝に帰って来たりすることは無くなった。
前の家にいた時のお母さんの姿は、大体寝ているかお化粧をするために鏡を見ていることばかりだったので、引っ越して来てからようやく僕を見てくれるようになったのが嬉しかった。
「お母さん、今日のご飯は何?」
「今日はね...お魚。冬雪、知ってる?お魚さんを食べると、頭が良くなるのよ。」
そんな他愛のない会話でさえ、心がくすぐられたようにふわふわ浮き足立った。お母さんが立ち上がり、おばあちゃんと一緒に台所へ向かう。
トントンと聞こえてくる包丁の音、コトコト煮込まれている味噌汁に、優しく香ってくるお魚の焼けた匂い。音や匂い、暖かな風景。全てが僕の心の中に染み込んでくる。
お母さんが作ったご飯は、この世の何より美味しく感じられた。これがごく普通の料理で、当たり前の家族の日常だということはわかっている。それでもそう感じるのだ。
もし幸せに形があるのだとしたら、きっとこんな形をしているのだろう。思わず絵日記に書き出したくなるような、そんな日が数日続いた。しかし、ある時この幸せを引き裂く出来事が起こった。
その日は、バケツをひっくり返したような大荒れの天気で、今まで見たことがないほど空が荒れていた。僕は家の縁側で、ぼーっと外の景色を眺めていた。山に雲がかかり、その上ではピカっと雷が光っている。
ふと、そのまま庭に目をやると、そこには雨に濡れてみすぼらしい姿をしている狼が一匹いた。その狼は、こちらをじっと見つめ、何も言わずに去っていった。
僕はその時、どうしてかお母さんを見ている時と同じ感覚に襲われた。どこか懐かしいような、幽霊を見ているような。
夜になり、雨はすっかり上がって雲ひとつない夜空が顔を出した。空はどこまでも高く、深い青が無限に続いている。不意に、弱々しく輝いている星に手を伸ばす。
(掴めるはずなんてない。だって、空はあんなにも遠い。僕は何をやっているんだろう。空なんかに手を伸ばして。)
そんな思いとは裏腹に、僕はいつの間にか小さな星を手に握っていた。小さな星は、生き物のように僕の手のひらの上で回転し始め、次第に溶けてしまった。
何も無くなった手のひらから、再び空へと視点を移す。そこには、満点の星空と絶えず落ち続ける流星群が煌々と光を放っていた。
寝室からやってきたお母さんが僕の隣に座って、口をぽかんと開けながら空に見とれている。
「綺麗だね、冬雪。お母さん、こんなの見た事ない。」
お母さんは、静かにそう言って僕の夜風に当たりすぎた手を包む。その手の温かさに、泣きたくなる。
「お母さん、また冬雪とこうやってできるなんて夢にも思ってなかった。.....冬雪は覚えてないだろうけど、冬雪が生まれた日も、こんなふうに流星みたいにこぼれ落ちる雪が見れたのよ。今みたいにいっぱいじゃないけど。」
お母さん、もういいよ。
「冬雪が今よりもずっとず〜っとちっちゃかった頃ね、病院で生まれた時。普通の人より体重がものすごく低くて、お母さん心配でね。付きっきりで春人のそばにいたの、そしたら看護婦さんに怒られちゃって。」
お母さん、お母さん。もういいってば。
「その冬雪がこんなに大きくなるなんて、お母さん嬉しいなぁ。ちょっと、大丈夫?なんで泣いてるの?ねぇ、どっか痛い?」
痛かった。痛いほど、分かってしまった。この星が、この手を包む温もりが、全てを告げていた。これらは全部、どこまでも偽物なんだと。
分かっていながら、僕はお母さんに抱きついた。その温もりが、今はどうしても恋しかった。お母さんは、しょうがないなぁと呟きながら、僕の頭を梳くように撫でた。
覚えている。前にもこうしてもらったことがある。そうだ、思い出した。頭から血を流しながら、怒り狂っているお父さんに目もくれないで、僕を震える手で撫でてくれた。お母さんは、動かなくなるまで僕を撫で続けた。
ひとなでする度に、お母さんの指から失われていく熱を、僕は思い出してしまった。そんな、失われたはずの熱がここにはある。
偽物でも、もういいんじゃないか。そんな思いが、胸の中に煙のように充満する。息苦しくなるほど抱きしめたお母さんの腕の中で、僕は意識を失った。
次の日、僕は息苦しさで目を覚ました。眠い目を擦ってなんとか自分にのしかかっている重さの原因を確かめる。
驚くべきことに、僕のお腹の上にはあの時の狼が我が物顔で寝そべっていた。狼は僕が起きたことを察知すると、口にくわえていたナイフを僕に渡してきた。
狼は喋らない。ただ、やはりじっとこちらを見つめてくる。その瞳には、今向き合っている僕とは何か違う像が映されていた。
目をよくよく凝らして狼の瞳を覗く。その中には、僕のよく知る銀髪の女の子が、意味不明な格好をした老人と戦っている姿が映っていた。
僕はそこで、全てを察した。これが幻覚であること、外ではそれを解除するために、優晏が戦ってくれていること。僕が事情を飲み込んだと分かったのか、狼は鼻で僕がナイフを握っている手をつついた。
それが暗に、そのナイフで何かを成さねばならないということを伝えていた。
「これで、お母さんを刺さなきゃ、元の世界には戻れないのか。」
狼は頷く。僕は直感で全てを察し、確信を得るために狼に何度も尋ねた。願わくば、僕の勘ぐりが杞憂であることを祈って。ただ、現実は無常だった。
僕がお母さんを殺さなければ、この世界からは脱出できない。なんとも悪趣味な世界だ。僕は産まれて初めて、刃の冷たさに慄いた。大きく息を吸い込んで、震え上がる心を落ち着かせる。
「冬雪、その手に持ってるの。危ないからこっちに渡しなさい。ね?いい子だから」
急に寝室のドアが開き、お母さんがやってくる。お母さんを見て狼がぐわっと毛を逆立て、唸り始めた。僕はただなにもできず、全身が石にでもなったかのような感覚に見舞われる。お母さんがポンと手を叩き、にっこりと笑顔を浮かべた。今までの笑顔とはどこか違う、気味の悪い笑みだった。
「その狼をやっつけるためのナイフなのね!お母さん、冬雪が逞しくなってくれて嬉しい!」
「違う。違うよお母さん。このナイフは、夢から覚めるためのものだよ。」
お母さんは一瞬たじろぎ、そしてまた笑顔に戻った。優しさの面影もない、偽りの笑顔を貼り付けて僕に手を伸ばす。僕はその手を振り払い、じっとお母さんを見つめる。
お母さんは急に表情をなくして、糸が切れたようにうなだれる。そして腕だけをこちらに伸ばして、ぐっと僕の首を絞める。
僕はそれに抵抗せず、折れた枝が地面に落ちるような自然さでお母さんの胸にナイフを突き刺した。僕の首を絞めている腕が、力を失いだらりとぶら下がる。血の泡を吹いたお母さんが、心底憎いものを見るような目つきで僕を睨んだ。地面に倒れ込み、姿が塵のように崩壊している最中でなお目線だけは僕に向け続ける。
「あんた…あんたなんか!あんたなんか産まッ!」
その言葉が最後まで発せられることはついぞなかった。ほとんど死に体のお母さんの喉笛を、狼が食いちぎり、飲み込む価値もないと言わんばかりに吐き捨てる。
お母さんは、一つも本物なんかじゃなかった。最期なんて出来が悪いにも程がある。あれが本物のお母さんだったなら、最後くらいはいい顔をしようと打算で塗れた気持ちで僕に優しさを投げつけて、恨み言の一つだって吐かないで、僕以外の別の誰かを想って事切れるのだろう。記憶の中を必死に手繰り寄せた答えがこれかと、我ながら寂しさを覚える。
記憶の中の僕を撫でたお母さんは、僕を見てなんかいなかった。ただの今際の際の善行。そのに親子の愛はなく、最後まで自分勝手に死んでいった。憎しみさえ持つことの無い、子供として認識していたかどうかも怪しいような母親を弔うように、僕は本音をぽつりと零す。
「もし仮に、お母さんがそう思っていたとしても。僕はお母さんのことが好きだったよ。」
その独り言を、ひどく悲しそうな顔をした狼だけが聞いていた。




